小耳はミーハー

小耳にはさんだことへの印象批評

「意識」は好き?

2007-09-05 21:46:59 | ドラマ
「ドラクル」を観劇。
<市川海老蔵×宮沢りえ>@コクーン。

前から四列目という奇跡的な席での観劇だったが、
公演初日ということもあり、内容はまだ未完といった印象を受けた。
贅沢なキャスティングのわりに、その贅沢さが活かされてない。

ただ、所々で魅せる「役者・海老蔵」の力強さ。「女優・宮沢りえ」の美しさ。
そこは、並々ならぬ迫力があった。
素晴らしかったと言っていい。

特に、宮沢りえの美々しさ、神々しさは尋常ではない。
近くに、彼女のお母さんがいたけど、よくぞ産んでくれましたという
感謝の念すら抱いてしまった。

そういう意味で言うと、
この芝居は、まだ「点」でしか愉しむことのできない芝居だった。

海老蔵という点、宮沢りえという点、はたまた永作博美の胸という点、など。

それらが有機的に連なったとき、
「ドラクル」という芝居は十二分に化ける可能性はある。

作・演出の長塚さんへは、そのご苦労は重々に理解したつもりで言うのだけど、
「本」をもっと異質なものにしてほしかった。
そして、結末に向けて進むのではなく、
その場その場での「結末」を作ってもらいたかった。

つまり、それは前半から中盤にかけての心情表現において、
それらを結末への布石にしている点が多々見られたから。

それは非常に残念でもあった。

これは自戒の念をこめて書くのだけど、
何かを表現しようとするとき、元々は自分の中にどうしようもない欲求があって
書き始めたことでも、人の目や人の声を意識するあまり自分でも思っていなかったほどに安易で平凡なものが出来上がってしまうときがある。

特に、その意識する相手が客(他人)ではなく、
その表現物を共同で制作している人になってしまうと余計にそうである。

確かに、ゼロから何かを生み出すのは非常に困難な作業なのだが、
確かに、誰かが安易でも平凡でもいいから何かを形にしないと進まないのだが、
そこでいきなりある程度のレベルのものを形にできるかが、
実力の差である、とも思う。

今回は、書き手がそれを意識しすぎたかなあと思った。
ただ、相手が相手だ。
コクーンだし、海老蔵に、宮沢りえだし・・・。
それを意識せずに書き、組み従えるのは、相当なことである。
この日本にそんなことが可能な作家が何人いるか。
それもまた事実である。

となると、
そのキャスティングや、スケールに臆さない、つまり「無知」な作家が書いた方が
いいのだろうか。

いきなり、外国人の作家に書かせるのも面白い。
まあ、ただ言語の問題はあるけど。
(日本語を駆使できる外国人は、その時点でこのキャスティングや
スケールの意味は知っているからね)