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戦争展を観て、凄まじい戦争体験を聞き、戦跡めぐりの本を提案!

2012年12月10日 | 編集・営業ふらふら雑記

12月10日(月)

 寒風の中、神戸新開地の妙法華院へ向う。反戦平和の象徴的寺院として神戸では有名な寺。建物は原爆ドームをイメージして造られていた。



 とりあえず本堂で行われている兵庫の「語りつごう戦争」展を上野祐一良さんに案内していただき見学する。今年で35回目というずいぶん歴史のある戦争展だ。このお寺に保管されている数々の資料を中心に、いろんな人々が資料を提供し構成されている。

 ある写真を見ていたら、ご婦人が「これ、私なんです」と話しかけてこられた。その写真は、戦前の諏訪山動物園の象の背中に一人の少女が乗っている写真だった。諏訪山動物園?と思いながら話を聞くと、現在の諏訪山公園のことだった。戦前、そこに動物園があり、それが戦後に王子動物園に移ったそうだ。少女の乗っている象はダンチ君という名で、やはり全国の他の動物園の動物たちと同じように食べ物を与えないという形で殺されたという。

 また、加古川陸軍病院の慰問写真や南方戦線で玉砕した柴崎中将生家の訪問写真などについても戦時の食糧難体験と共に説明していただいた。ご婦人の通っていた小学校(国民学校)は長田区の池田小学校。入学時、その校舎は鉄筋コンクリート建て新築間もない真っ白いピカピカの学校だった。子どもも教師もとても大切にしながら過ごしていたが、ある時突然、この白いピカピカ校舎が迷彩色に塗り替えられた。白い建物だと目立ってしまい米軍の標的にされるからだった。その時の悲しさは今も忘れることができないとご婦人は話された。建物を樹木などで覆い隠したという話は聞いたことがあったが、迷彩色に塗りつぶした話は今日、初めて聞いた。 

 展示を一回り見て、海軍病院の看護婦だった大槻ひさ子さんの戦争体験談を聴く。舞鶴の海軍病院の話だ。14歳の時にわずか1年間の勉強で試験を受け、見習い看護婦として軍隊式生活に放り込まれた。仕事は病棟ではなくレントゲンだった。大きな規模の病院で27の病棟があり、軍艦に積み込む医薬品の薬剤倉庫がたくさんあった。

 昭和20年7月20日以降、米軍の空襲が軍港と海軍工廠を襲うようになった。何千人という患者を日本海側の温泉地に疎開させ、山の中に作られた病院へ二人ががりで何人もの患者を担架で運んだ。そこには手術室は完備されていたが病室はなかった。たくさんの患者が空襲の犠牲になった。死体は霊安室だけでなくそこかしこに山積みされ腐臭がひどかった。

 舞鶴の山を切り開いて軍事基地を作ったのは、強制連行された朝鮮人労働者たちだった。終戦間もなくの8月24日、その朝鮮人たちを乗せて朝鮮へ引き揚げる浮島丸という病院船が舞鶴湾内に残されていた機雷に触れ爆発炎上沈没し500人以上の人が亡くなった。海に放り出された人たちを病院に運び一晩中かかって火傷の被害にあった100人余りを手当てしたが、それでも多くの人が死んでいった。戦後15人の生存者が日本に対して訴訟を起こし、長年かかってようやく1人300万円の補償が行われた。しかしこのことは舞鶴の引き揚げ記念館には展示されていない。

 今、「慰安婦」問題が話題になっているが、舞鶴にも日本人「慰安婦」がいた。遊郭=色街の若い女性たちだ。東北の農村の貧しい農家から14~15歳の少女たちが1人100円で舞鶴の置屋に売られてきていた。戦時中は日本軍兵士の相手をさせられ、戦後は米軍兵士の相手をさせらていた。私は彼女たちの性病検査も行った。米兵は感染している女性は相手にしないので、厳しく検査し、マイナスの女性だけが相手をしていた。同じく大陸からの日本人引揚者の検査も行った。

 戦後改めて看護婦の国家試験を受け直し、1000番台の証明書を持ち70歳まで看護婦として働いてきた。娘も看護師になった。

 お話の後、参加者のみなさんが感想や自身の戦争体験を次々に語りはじめた。会場におられた3人の男性がたまたま同年代の予科練出身者だったことでそれぞれが短い話をされた。一人は乗る特攻機がなくなり人間魚雷に乗る予定だった人、一人は練習機の燃料がなくなり終戦を迎えた人、一人は台湾で赤とんぼという練習機に乗っていたが、ある時不時着した米軍機を調べていてその技術の高さに驚きこれでは戦争に負けると感じたという人だった。

 さて場所を変えてようやく、当初の目的であった本作りの提案を上野さんと高橋事務局長に行う。(仮題)「兵庫の戦跡ガイド」。写真+解説+地図+体験者談などで兵庫県内の主だった戦跡を紹介、実際に戦跡を訪ねてウォーキングができるように案内する本だ。さてどんな本になるか。月末に執筆陣に集まってもらって内容の詰めを行うことになった。

 それにしてもなんとも冷たい神戸の街であった。新開地地下街のラーメン屋さんで遅い昼ご飯となる塩ラーメンを食べ、温まって大阪へと引き返した。



 

コメント
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12月9日(日)のつぶやき

2012年12月10日 | ツイッター

「日本帝国海軍に、オンブにダッコ、というなんとも今では想像もできない、楽な稼業だったんです(略)海軍特別陸戦隊から、私たちにも軍属の証明書をくれたんですよ」『従軍慰安所〔海乃家〕の伝言』  blog.goo.ne.jp/kikanshi-hon/e… @kikanshibooksさんから

日本機関紙出版センターさんがリツイート | 1 RT

昨日はブログへのアクセス数がいつもの倍になっていた! 何でかなあ~? 太平洋戦争開戦記念日だったからか?


東京から長男が昨日の深夜突然帰ってきた。そして先ほど梅田経由で帰ると言って出て行った。何とまあ、落ち着きの無い感じだが、一日でも家族が増えると何と無く嬉しい。年末年始休暇でギターセッションをしようと言って私の練習課題曲を置いて帰った!

1 件 リツイートされました

民主主義とは時間と手間暇がかかるもの。この3年8カ月で人々が学んだことが今度の選挙に反映されるのだろう。たとえその結果が望んだものとは違っていてもそれは受け入れて、またこれまでの積み重ねを土台に始めるしかないのですね。


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