対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

キッズ弁証法

2010-01-17 | 許萬元

 牧野紀之の名前を知ったのは、2006年に、ウィキペディアの弁証法やヘーゲルに関連する記事を見ていたときである。そのころ書いた記事をあらためて読み直してみると、微妙なタイミングで牧野氏の名前を知ったのだと思う。知らないまま通り過ぎていた可能性もあったのだ。

  許萬元の弁証法

  「主な著作」の復元(ウィキペディア「ヘーゲル」)

 氏の本を読んでみると、ヘーゲルの翻訳に裏打ちされた優れた視点を確認することができた。

   1 「悟性」と「思弁」の訳語について
   2 「論理的なもの」と「経験的なもの」の対置
   3 「外的必然性(偶然性)と内的必然性(必然性)」と「悟性と理性の対応」
 
 そして、この3点を、わたしの弁証法の理論のなかに取り入れた。

   1 悟性の二重性
   2 「論理的なもの」とアインシュタインの認識論
   3 表出のなかの悟性と理性

 牧野氏の許萬元論(「サラリーマン弁証法の本質」)は気になっていた。しかし、この3年間、読む機会はなかった。

 牧野紀之は次のように述べていたのである。

 許萬元の弁証法研究の意義と限界を好くまとめたものが牧野紀之の「サラリーマン弁証法の本質」(『哲学夜話』鶏鳴出版に所収)です。

 実際、許萬元のヘーゲル研究は深いものですが、結局は学説史的研究で(あ)り、用語もヘーゲルやマルクスのままですから、「内容はあるようだけれどこの叙述では分からない」という感想を皆が持つのです。

 「サラリーマン」という命名が気になっていた。昨年の暮れ、pdf鶏鳴双書(絶版になった本のpdf)に、これがあることを知り、購入した。

 牧野紀之と許萬元は東京都立大学大学院の同期だという。『哲学夜話』の初版は1977年だった。「サラリーマン弁証法の本質」は70年代の前半に書かれたものだろうと思う。

 「サラリーマン弁証法の本質」は思いがけない内容だった。牧野紀之は許萬元の弁証法の本質を「唯物史観なき弁証法」と特徴づけていた。もちろん牧野はこれを否定的に捉え、牧野自身の弁証法の方向性を明確にしていた。それが、許萬元の弁証法を「サラリーマン弁証法」と名付ける根拠となっている。わたしは自分自身の弁証法を牧野紀之と対照させて展開してみようと思った。

 牧野紀之は、許萬元の弁証法の論じ方に異議を唱えることから始めている。

 ここでの問題は「みんなが弁証法に関心をもっているから弁証法を論じる」という態度そのものです。つまり、この言葉だけとると、許さんは、多くの人が弁証法に関心をもっているのはなぜかと、その関心の社会的背景にまでさかのぼらないのです。

 たしかに「みんなが弁証法に関心をもっているから弁証法を論じる」という述べ方は、それだけを真に受けるのは正しくないでしょうね。しかし、その社会的背景や思想史的流れのなかでの位置づけを「口にしない」ということは、彼が弁証法の説明に終始しており、しかもその弁証法の理解に「唯物史観なき弁証法」という根本的な大欠陥を示しているとなると、単に「口にしない」のではなくて、「そういう問題意識がない、あるいは乏しい、ないしそれを避けている」ということになってきます。現に、大衆がなぜ弁証法に関心をもつかと追求していくと、そこに社会生活と社会運動の問題が出てきて、それは結局札束と人事権の問題につながり、許さん自身のサラリーマンとしての生き方にも反省を加えなければならなくなります。ですから、本能的にこれを避けて純理論の世界にこもることになったのです。そして、この根本姿勢が理論そのものにも大きな枠をはめることになったのですが、それはこれから順にやっていきましょう。

 牧野紀之は、サラリーマン弁証法の本質を、考え方だけが問題になって生き方が問題になっていない点に見定めている。

 早い話、許さん自身講壇サラリーマン哲学の枠内で、その質と限界のなかに生きていて、まだそれを超える立場=生活のなかの哲学という当為を感じていないので、その限界を制限として感じず、従って講壇哲学の枠を破る運動をしていないのです。

 哲学史的ではなく哲学的に見ると、世界観としての弁証法という面が落ちて科学方法論としての弁証法という面ばかり強調することになるのです。

 ヘーゲル研究におけるこういう姿勢はマルクス研究においてもその賃労働者階級の立場を問題にしないでひたすら「資本論の方法」を問題にすることで一層拡大され、ついにはレーニン研究において、レーニン主義の核心である前衛と前衛討論を扱わないで、ひたすら「レーニンの弁証法」を問題にするという態度となって完成されます。
 これがまさにサラリーマン弁証法でなくて何でしょうか。人事と札束に支配されながら、その根本を問題にしないで、つまり生き方を問題にしないで考え方だけを問題にするのがサラリーマン弁証法の本質です。

 牧野は市井に道場を開き、「生活のなかの哲学」を探究する生き方を選択した。その立場から見ると、大学にとどまる許萬元の生き方が歯がゆく思えたのだろう。許萬元の生き方を批判する。そして、許萬元の弁証法を批判する。

 「唯物史観なき弁証法」というのは、マルクス主義の立場から見れば、後退した捉え方なのだろう。事実、牧野は科学方法論ではなく世界観としての弁証法を追求する姿勢を示している。しかし、この捉え方は、ヘーゲルが始め、マルクス主義が引き継いだ肥大化した弁証法の誤った考え方だと思う。「唯物史観なき弁証法」というのは、合理的な弁証法を探究する立場から見れば、前進している捉え方である。

 生き方は弁証法の問題ではない。それは人の問題である。わたしは、サラリーマンだろうが、道場の経営者だろうが、とやかく言わない。弁証法はあくまでも考え方の問題だと思うからである。 

 対照してみよう。
 
 「サラリーマン弁証法」がある。牧野はこれを「生活のなかの哲学」として活かそうとする。あるがままの許萬元弁証法ではなく、大衆の立場からとらえ直した限りでの許萬元弁証法を探究する。

 「サラリーマン弁証法」がある。わたしはこれを「生活のそとの哲学」として活かそうとする。生き方ではなくあくまでも考え方として弁証法を捉える。「生活のそと」とは、吉本隆明のいう25時間目のことである。

 牧野紀之は、「生活の中」で弁証法を問題にし、その弁証法は「生き方」である。これに対して、わたしの場合は、「生活の外」で弁証法を問題にし、その弁証法は「考え方」である。

 許萬元の弁証法が「サラリーマン弁証法」なら、牧野紀之の弁証法は「在野人弁証法」と言えるだろう。

 わたしの場合は、どのように形容すればよいのだろうか。「生活の外」と「考え方」にアクセントがあり、それでいて生活のなかに生きている存在。それは子供ではないだろうか。許萬元と牧野紀之のいずれも、大人の弁証法である。これに対して、わたしのは子供の弁証法なのだ。「キッズ弁証法」。子供は「人事と札束」に無頓着なのである。

 思考の世界における子供といえば、ニュートンのことばが思いだされる。

 世間が私をどう見ているかはわかりませんが、私自身は自分を、浜辺で遊ぶひとりの子供のようなものだと思っています。私はただ、形のよい小石や綺麗な貝殻を探すことに夢中になっている。だが、そのすぐ眼の前には、大いなる真理の海が、いまだ発見されぬまま広がっているのです。

 浜辺で遊ぶひとりの子供のような弁証法。キッズ弁証法。

 牧野紀之が許萬元の弁証法を「唯物論なき弁証法」と特徴づけたのは、正しいと思う。許萬元の弁証法は、すでに非マルクス主義化していたのである。これは興味ある指摘である。それはわたしの試みの序曲となっていたのである。

 牧野紀之は許萬元の功績として、矛盾を闘争矛盾と調和矛盾に分けたことや、必然性を歴史的必然性と体系的必然性に分けたことを挙げている。しかし、このような評価は、ヘーゲルの「論理的なものの三側面」の規定を踏襲することを意味しているだけである。わたしが牧野弁証法に感じる限界である。

 わたしは「許萬元の弁証法」のなかで、許萬元の弁証法研究の意義と限界を次のように述べた。

 わたしが許萬元の弁証法研究の意義と考えるのは、ヘーゲルまで遡り、内在主義と歴史主義と総体主義を抽出して、それを「論理的なものの三側面」と関係づけたことである。

 これに対して、その限界とは、ヘーゲルまでしか遡らず、「論理的なものの三側面」の規定にとどまったことである。

 牧野紀之も許萬元も、「論理的なものの三側面」の規定にとどまっている。キッズ弁証法は弁証法の非ヘーゲル化を探究しているのである。


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