旅する骨董屋 喜八

チベット圏を中心にアンティークや古民芸・装飾品を旅をしながら売買する喜八の、世界の様々な物や人その文化を巡る旅のブログ。

カパーラから感じる死生観

2019年10月18日 | チベットもの



カパーラ


途方も無い種類があるチベット物にあって、
一際、僕が惹かれるモノの一つだ。


人の「死と生」を
強烈に感じるからかもしれない。


ダマル(太鼓)やカンリン(笛)、数珠と
カパーラ類を用いた法具は数種あれど、
カパーラ「杯」が、ある種、究極となるようには感じている。


ザンスカールの奥地のチベット寺院のお堂に行くと、
現役でバターランプの椀として使用されている古いカパーラ杯を目にできる。

僻地も僻地、
それらのストイックな環境の中のチベット寺院にあって、
れっきとした存在意義を持ち、そこに在るのだ。

そこから感じるに、
伝統的な法具であるのは間違いの無い事実であると思う。

チベット本土でも、
古い物から、
つい最近まで使用されていたであろう、
ヤクバターが染み込んだ臭いのキツイものも行く所に行けば、見かける。



艶艶テカテカ、ヤクバターが染み込んだカパーラ杯。
染み込んだバターの重さか、持つと重量感を感じる。



通常とは異なる、十字文様の継ぎ目を持つ、カパーラ杯。
古さと共に独特な迫力がある。
色、形、継ぎ目、雰囲気、全てが魅力的だ。



新しいカパーラ杯。
白い色味が強い。
ザ・骨、という感じだ。



かつては僕も、
人の頭蓋骨、というと気味が悪いとは感じていたが、
それは多くの誤解があった。

チベット文化圏へ多く訪れ、
チベット文化、チベット仏教、密教に触れるにつれ、
その認識は変わっていき、
カパーラが持つ、その存在意義に惹かれていった。

そう、
人の「死と生」を
強烈に感じるのだ。


日本の日常に置いて、
人の死や生きるという事を密接に感じる機会は少ないだろう。

多くの場合は、
身近な人間が亡くなった時や、
自分の余命を知った時、
死に直面するような事故や病気などに出会った時、
はじめて、死、というのを現実的な事として意識するかもしれない。


チベット文化圏では、
その、死、という出来事が、
「物理的なモノ」として
日常に溶け込む様に存在するのが、
個人的に興味深いのである。


人の死、と、祈り、が、
象徴的に物質化したモノであるように
感じられる。

人の「死と生」を
具体的な「実物」を用い、
異端ではない広く浸透した宗教観に基づいた
正統な長い歴史を持ち、
なおかつ、
今も「現役で」用途目的を持ち存在している。


今、そんなモノは世界で
どれくらい残っているのだろうか。


しかも、驚くべきは、
僻地の寺院のみならず、
今や近代化が進んだチベット圏都市部で残っているのである。


現代とは対局に位置するモノが、
今なお、存続しているってのは
『強い宗教思想を持つ現れ』を感じる。


日本では、
死、に対する考え方が消極的であるように感じる。

ある種のタブー、のような扱いも受けているかもしれない。

一方、チベット文化圏に置いては、
死を、触れてはいけない出来事として捉えているのではなく、
「死への敬意」を感じているのです。



------


因に、
国際的にインド領内のザンスカールでは、
鳥葬は行われていない、といのが定説らしいが、
それは、僕が聞いた情報とは異なる。

ザンスカールのプクタル・ゴンパを訪れた時、
そこの僧侶に聞いた話しでは、
僧侶が死ぬと、鳥葬を行うという。

正確には、鳥以外の動物達にも食べさせるとの事だった。

ラダックでも行われているらしいが、未確認。

なお、
東チベットでは、今でも当然の事として、
鳥葬が行われています。
また、
表向きには中止されているという事だが、
実際にはラサ近郊でも行われているらしい。




※当ブログに掲載されたカパーラ杯は参考写真となります。

※当ブログでのカパーラに関する見解は、
体験からくる個人的な印象です。


コメント   この記事についてブログを書く
« 大江戸骨董市に出ます。 | トップ | 2019.11.03(日) 大江戸骨董市... »

コメントを投稿