埼玉県深谷市にある
吉祥寺の住職のブログ
イチョウの下のよもやま話
生まれて生きて死んでそれから・・・(5)
第2章 生きているってなんだ!?
仏教は(今度はちょっとだけ仏教のお話です)、
二千五百年前に、
まぁ、史実の上でも 少なくとも千年以上前に、
メモに書いたような事を
考えていたんですねぇ。
人が生きているという感覚を持てるのは
どういう時か?
それは、何かを認識できた時ですよね。
①まず、人間の身体には 目がある。
目でものを見る事ができる。
あそこに花が咲いている、
お寺がある、
住職さんが草取りをしている などなど
②目を閉じても 耳がある。
耳で音や声を聴く事ができる。
風の音、雨の音、
お坊さんがお経を読んでいる声、
ご主人の鼻歌 などなど
③目を閉じて 耳をふさいでも 鼻がある。
鼻で匂いを嗅ぐ事ができる。
お香の匂いがする、
花の香りがする、
奥さんが作っている夕餉を用意する匂い などなど
④今度は鼻もつまんでしまいましょう。
でも口がある。
口に入れたものを 舌の上で転がす。
これはリンゴだ、これはチョコレートだ、
お肉だ、お魚だ などなど
⑤口も閉じてしまいましょう。
でも、触ればそれが何なのかわかりますよね。
机だ、本だ、洋服だ、グラスだ などなど
この5つの視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を
五感と言います。
ただ、五感だけでは それをそれと感じる事はできません。
そこでこの五感の外にもうひとつの、
所謂 「感」というものがあります。
「昨日の競馬で、勘が働いて大穴当てたんだよ」
の第六感です。
つまり、
花を見てきれいだ。
大好きな音楽を聴いて落ち着く。
お香の匂いで癒される。
美味しいワインを飲んで 明日への活力がみなぎってくる。
可愛い猫ちゃんを撫でていると 優しい気持ちになってくる。
その「思い・感情」というのが
第六番目の「感」 第六感です。
つづく
仏教は(今度はちょっとだけ仏教のお話です)、
二千五百年前に、
まぁ、史実の上でも 少なくとも千年以上前に、
メモに書いたような事を
考えていたんですねぇ。
人が生きているという感覚を持てるのは
どういう時か?
それは、何かを認識できた時ですよね。
①まず、人間の身体には 目がある。
目でものを見る事ができる。
あそこに花が咲いている、
お寺がある、
住職さんが草取りをしている などなど
②目を閉じても 耳がある。
耳で音や声を聴く事ができる。
風の音、雨の音、
お坊さんがお経を読んでいる声、
ご主人の鼻歌 などなど
③目を閉じて 耳をふさいでも 鼻がある。
鼻で匂いを嗅ぐ事ができる。
お香の匂いがする、
花の香りがする、
奥さんが作っている夕餉を用意する匂い などなど
④今度は鼻もつまんでしまいましょう。
でも口がある。
口に入れたものを 舌の上で転がす。
これはリンゴだ、これはチョコレートだ、
お肉だ、お魚だ などなど
⑤口も閉じてしまいましょう。
でも、触ればそれが何なのかわかりますよね。
机だ、本だ、洋服だ、グラスだ などなど
この5つの視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を
五感と言います。
ただ、五感だけでは それをそれと感じる事はできません。
そこでこの五感の外にもうひとつの、
所謂 「感」というものがあります。
「昨日の競馬で、勘が働いて大穴当てたんだよ」
の第六感です。
つまり、
花を見てきれいだ。
大好きな音楽を聴いて落ち着く。
お香の匂いで癒される。
美味しいワインを飲んで 明日への活力がみなぎってくる。
可愛い猫ちゃんを撫でていると 優しい気持ちになってくる。
その「思い・感情」というのが
第六番目の「感」 第六感です。
つづく
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