ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

人権227~人権が現代世界の中心思想に

2015-11-19 10:02:25 | 人権
●人権が現代世界の中心思想に

 第2次世界大戦後、人権は現代世界の中心思想の一つになった。近代西欧に生まれた人権の思想が、文明や宗教等の違いを超えて、一見普遍的な思想として世界に広がった。そのようになる前は、西洋文明諸国によるラテン・アメリカ、アフリカ、アジアの植民地支配の時代が、15世紀末から20世紀中半まで400年以上続いた。もしすべての人間が人間として生まれながらに持つ権利が人権だとすれば、この数世紀は、有色人種が歴史上最も人権を蹂躙されていた時代だった。一方、西洋文明諸国における権利の拡大は、非西洋文明の諸民族の権利に対する侵害と並行していた。周辺部の支配あっての中核部における自由と権利の拡大だった。
 第1次世界大戦後、欧米で人権の国際的保障の萌芽が現れた。先に書いた少数民族保護条約、国際労働機関の設立、不戦条約等が挙げられる。だが、それらは欧米中心のものだった。第2次世界大戦を通じて、国際的な人権保障が大きな課題となった。ナチス・ドイツの暴虐によって、人権を各国の国内法で保障するだけでは不十分であり、国際的に保障する必要性が認識された。1941年(昭和16年)8月に英米により発表された大西洋憲章は、「恐怖及び欠乏からの解放」と「生命を全うすることを保障するような平和の確立」を掲げて、人権の尊重を戦争目的に掲げた。人権の国際的保障の整備は、連合国の欧米諸国民及び欧米各地に居住するユダヤ人の権利の確保を主に進められた。国際的人権保障の制度的な仕組みが飛躍的に整備された。その一方、ソ連及びソ連が侵攻・支配した東欧諸国の国民の権利は、共産主義政権によって逆に抑圧状態に置かれた。
 第2次大戦は、連合国によって、連合国と枢軸国の戦い、デモクラシー諸国と全体主義諸国の戦いとされたが、西洋白人帝国主義に対するアジア解放の戦いという側面があった。イギリス、オランダ、フランス等の植民地では、大戦の最中から有色人種が独立を求める運動を起こし、大戦後、次々に独立を勝ち取っていった。
 有色人種が白人種の支配から解放され、独立を獲得する過程は、国民国家という組織体制が、近代西洋文明から諸大陸の文明に伝播する過程でもあった。そして、欧米が作った国際社会に、有色人種が欧米由来の独立主権国家を作って参入し、1960年代には多数のアジア・アフリカの新興国が国際連合に加盟し、世界人権宣言に賛同した。それによって非西欧社会が、西欧的な「人間は生まれながらに自由で、平等の権利を持つ」という思想を受け入れてきた。それによって、人権の思想が非西洋文明の諸社会に伝播することになった。
 独立解放後も、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの諸国民・諸民族は、依然として西洋文明の圧倒的な影響下にある。非西洋文明の多くの文明は西洋文明の周辺文明と化しつつある。思想的にも、合理主義・個人主義・自由主義・デモクラシー(民衆政治参加制度)・ナショナリズム(国民主義・民族主義・国家主義)などが、広く非西洋文明の諸社会に浸透している。その中の一つとして人権の思想がある。そして、現代世界の中心思想の一つとなってきている。
 だが、そもそもアジア、アフリカ、ラテン・アメリカの有色人種は、新たな権利を取得したというより、白色人種によって権利を侵害・剥奪され、家畜同然の奴隷状態に置かれていた状態から、もともと持っていた権利を回復したのである。そのことに注意する必要がある。彼らはこの回復した権利を、近代西欧発の人権思想を援用して理解しているのである。

 次回に続く。

ユネスコ記憶遺産問題は断固対応すべし2

2015-11-17 10:23:44 | 南京事件
 10月10日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)が中国が登録申請していた「南京大虐殺文書」を記憶遺産に登録したと発表すると、わが国政府は遺憾の意を表した。
 菅義偉官房長官は13日の記者会見で、ユネスコに対し「中立公正であるべき国際機関として問題だ。政治利用されるような制度、仕組みの改正を強く求めたい」と語り、中国が提出した資料について「本物か検証できないし、政府として文書を見ることもできない」と不透明な審査の問題点を指摘した。また、歴史的事実の認識に日中間で違いがあることを述べ、「一方的に決めて政治問題にすべきではない」とユネスコを牽制した。
 また政府は、対応策として、ユネスコの制度上の問題の是正を促すため、分担金拠出の停止や一時凍結、削減等の具体的な対応の検討を開始した。
 平成26(2014)年度のユネスコ予算の日本の分担率は米国の22%に次ぐ10・83%で、金額は約37億1800万円だった。米国が支払いを停止しているため、事実上、最も多い。分担金以外でも、さまざまな事業に対する任意拠出金を出し取り、26年度のユネスコ関係予算は計約54億3270万円に上る。
 これに比し、中国の分担率は6位の5・14%で、日本のほぼ半分であり、任意拠出金も日本より少ない。しかし、中国は記憶遺産の周知を図る名目で関係者を中国に招待するなどしていると伝えられる。また、記憶遺産事業だけでなく、アフリカでの女子教育等にも積極的に支援を行っており、中国はさまざまな形でボコバ事務局長の思いに応えていると指摘される。
 わが国の対応としては、分担金の拠出を停止して、断固とした抗議を行うべきである。微温的な対応では、軽く受け流される。この点、自民党では、外交部会などが10月14日午前の合同会議で、本件について議論し、分担金の停止などを求める決議を採択したと伝えられる。
 決議では、中国が登録を申請したことについて「国際機関の政治利用で、断じて容認できない」と批判し、ユネスコの対応についても、「中国側の一方的な主張に基づく申請を我が国の意見を聞くことなく登録したことに強く抗議する」とした。そのうえで、ユネスコに登録撤回を提案する、世界記憶遺産制度の改善を働きかける、分担金や拠出金の支払いを停止するなど、ユネスコとの関係を早急に見直すという3点を政府に求めたと報じられる。国民の多数から、この決議と同趣旨の意見がネット等に書きこまれた。
 だが、政府の姿勢は弱い。11月6日、馳浩文部科学相がユネスコの総会で演説した。この演説は、ユネスコが中国が申請した「南京大虐殺文書」を記憶遺産に登録したことに異議を唱える絶好の機会だった。登録の撤回を求め、ユネスコの政治利用は許さないという、日本の断固たる立場を表明し得るまたとない場だった。だが、馳氏は審査の「透明性の向上」等を訴えるばかりで、中国への直接的な言及を避けた。この新任の大臣は「摩擦を生まないよう穏便に申し上げた」と釈明したが、相手の反発を恐れる事なかれ主義の姿勢が、南京事件にせよ、慰安婦問題にせよ、日本の名誉を損なう誤解を広げてきたのである。まったく外交の場で身を挺して国益を守ろうとする覚悟も、熱意も感じられなかった。これでは、ユネスコ総会に参加した国々の代表者に、この問題に関する日本の決意の強さは伝わらなかっただろう。
 馳氏は、ボコバ事務局長と会談し、審査の透明性の向上という問題意識を共有できたとし、ボコバ氏のリーダーシップを期待する旨を述べ、同氏も制度改善を検討するというが、これでは、「南京大虐殺文書」の登録を日本政府が容認し、今後、改善してもらえればよいという姿勢だと誤解されよう。
 だが、わが国の政府は、この登録が撤回されるまで、断固として対応しなければならない。今後、中国側が登録申請した具体的な文書が公表される。日本側はその文書が歴史的事実に即した真正の文書であるかを検証し、徹底的に反論していかねばばならない。
 また、もう一つ慰安婦問題がある。韓国が次回の審査に向け申請の動きを見せている。中国は、韓国と連携し、北朝鮮や台湾、インドネシアやオランダを巻き込んで登録を目指す計画があると伝えられる。わが国は、今回、「南京大虐殺文書」の記憶遺産登録がなされてしまった失敗を反省し、慰安婦問題では決して登録をさせないように、事実関係を国際社会に周知する活動を積極的に展開する必要がある。
 「南京」で負け、「慰安婦」で負けたならば、わが国の名誉は地に落ちる。捏造と歪曲に屈して、日本人の誇りを失ってはならない。(了)

関連掲示
・拙稿「南京での『大虐殺』はあり得ない」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion06b.htm
・拙稿「南京事件の真実を伝える写真」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion06d.htm

ユネスコ記憶遺産問題は断固対応すべし1

2015-11-16 10:06:59 | 南京事件
 10月10日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、中国が登録申請していた「南京大虐殺文書」を記憶遺産に登録したと発表した。同時に申請されていた「慰安婦関係資料」は登録されなかった。
 記憶遺産への登録は、2年に1回行われる。新規登録の可否は、国際諮問委員会(IAC)が申請案件を審査し、その結果を事務局長に勧告する。「南京大虐殺文書」の登録は、IACが10月4~6日の審査結果として、ユネスコのイリナ・ボコバ事務局長に勧告され、ボコバ氏が承認したことにより決定された。
 記憶遺産は、人類にとって歴史的価値のある貴重な文書の保護などを目的とするものである。中国が反日宣伝工作のために利用する「南京大虐殺文書」の登録は、記憶遺産の目的にそぐわない。そうした文書が登録されたのは、中国の反日宣伝工作にユネスコが政治利用されたものである。
 どうしてこのような政治利用が実現してしまったのか。今回の「南京大虐殺文書」の登録で、ユネスコの記憶遺産の審査の仕組みの問題点が浮かび上がった。同じユネスコの世界遺産や無形文化遺産では登録の可否が公開の場で議論される。これに対し、記憶遺産の登録決定のプロセスは不透明さである。非公開のIACの委員会で審査され、ユネスコ事務局長が追認する仕組みだからである。
 今回の登録審査において委員会は非公開のため、日本側に反論する機会はなかった。そのため、日本政府はこれまで外交ルートで中国側に繰り返し抗議し、申請の取り下げを要請するしかなかった。
 登録へのプロセスが透明性に欠ける要因として、まず世界遺産や無形文化遺産と異なり、根拠となる国際条約がないこと。政府に限らず自治体や団体、個人でも登録を申請できること。世界遺産や無形文化遺産は条約締約国の代表によって議論されるのに対し、記憶遺産は事務局長が選んだ専門家によって行われることなどが挙げられる。そのため、政治利用を想定した枠組みとなっていない。
 特にIACの委員の選任には、大きな問題がある。委員は14人で、事務局長が任命する。その委員の選考基準が明確でない。「公文書保管の専門家」というのが表向きの説明だが、実際はユネスコの事業職出身者のような門外漢もいるという。委員就任にあたっては、出身国からの推薦もない。委員には、歴史学者が含まれていない。そのため、IACが資料の内容を歴史的事実かどうか見極めるのは困難とみられる。
 しかも、IACは、委員の半分は2年で交代する決まりとなっている。今回は8月に半数が交代したばかりだった。新任の委員は10月4~6日の会議までの2か月弱で約90の申請案件に目を通さなければならなかった。これでは、審査らしい審査はできないだろう。まして、南京事件のような日中の国家間においても、また学者や研究者の間でも、多くの議論があるような問題をまともに検討できるものではない。
 IACは「南京大虐殺文書」を認め、「慰安婦関連資料」は認めなかった。「慰安婦関係資料」が却下されたことで、南京との2件の登録という最悪の事態は回避された。だが、もともと日本側は、中国の本命は南京事件で、慰安婦問題は捨て駒とみていたと伝えられる。中国は、慰安婦問題を韓国と連携して登録申請する道が残されているからであり、委員もこの認識を共有していたとみられる。ユネスコに詳しい関係者には「IACが中国の意向を汲んで、中国と日本の双方の顔を立てるために一勝一敗とした」という見方がある。中国がIACを政治利用したとともに、IACの側も政治的な判断をしたのである。
 「南京大虐殺文書」の登録を最終的に決めたのは、ボコバ事務局長である。ボコバ氏は、日中双方から働きかけを受けており、自身の判断がもたらす影響を理解していたと見られる。保留することもできたが、結局は事務局長の判断で登録が決まったということであり、ボコバ氏の承認もまた政治判断だったと見られる。
 ボコバ氏は、ブルガリアの元外相である。ブルガリアが共産国だった時代に、共産圏で育った人物である。父親はブルガリア共産党機関紙の編集長だった。ボコバ氏が中国と良好な関係にあることは国連関係者の間では有名だという。9月3日には、中国共産党が行った抗日戦争勝利70年記念行事に出席した。その際には、習近平国家主席夫人と会談し、中国がアフリカなどでの女子教育普及を積極的に支援していることに謝意を伝えたと報じられる。国際機関の資金繰りが厳しい状況で、中国は資金提供で貴重な存在となっているようであり、そこに中国が政治利用し得るポイントがある。
 ボコバ氏は次期国連事務総長の有力候補と見られる。事務総長の座に就くには、国連安保理常任理事国の中国の支持が不可欠である。事務総長の選出は、国連憲章で、安保理の勧告に基づいて総会が任命すると定められている。立候補者は総会での質疑を経て、安保理で一人に絞られる。常任理事国のうち一カ国でも反対すれば承認されない。南京事件を外交に利用しようとする中国と、事務総長を目指すボコバ氏の個人的な動機が合致したと考えられる。
 審査過程で、日本政府が何もしなかったわけでない。政府は、中国からの2件の申請について、ユネスコ関係者に「ユネスコの政治利用になりかねない」として慎重な審査を求め、中国に対しても申請の取り下げを求めていたという。
 中国が「南京大虐殺文書」として申請した資料には、捏造が確認された写真や、「大虐殺」があったことを証明するには不適切な文書、所有者の許可がないまま使用された写真等が多数含まれていることが、日本人の歴史学者らの検証によって明らかになっている。日本政府は検証の機会を再三求めたが、中国は応じなかったと報じられる。
 「南京大虐殺文書」がユネスコの記憶遺産に登録されたことによって、中国は歴史認識問題において日本攻撃の新たな材料を得たことになる。今回の登録を成果として大々的に国際的に宣伝するだろう。
 わが国の国内では、ユネスコの記憶遺産になったとして、「南京大虐殺」を児童・生徒に教える偏向教育が広がることが懸念される。現在、小中高校の教科書は、南京事件」について、中国側の主張を一方的に記述されてはいない。だが、学校現場で一部の教師が中国側の主張を強調する恐れがある。

 次回に続く。

人権226~第2次大戦の世界史的意義

2015-11-15 08:46:32 | 人権
●第2次大戦の世界史的意義

 第2次世界大戦は、人類がかつて経験した最大の戦争であり、そして最後としなければならない世界戦争である。第2次世界大戦には、いくつか重要な意義がある。私は、人類史的意義、文明学的意義、国際関係論的意義の三つを挙げたいと思う。
 第一に、第2次大戦の持つ人類史的意義とは、人類史の大きな区切りとなったことである。私は、1945年(昭和20年)以降を現代と呼んでいる。
 第2次大戦での死者は5000万人を超え、なかでも民間人の犠牲者数は3400万人に達したといわれる。それほどの犠牲者を生んだのは、この大戦は第1次大戦以上の総力戦となったからである。高度な総力戦では、相手国の生産力や国民の士気を奪うことが重要となる。そのために爆撃機による無差別攻撃が行われ、多くの一般市民が犠牲となった。またこの大戦は、科学技術を大幅に発達させた。科学技術の発達が陸海空の兵器の破壊力を増大させた。レーダー、航空母艦、ミサイル等が開発され、実戦に使用された。その中でも突出した威力を持つものこそ、原子爆弾である。
 原子力の開発・利用によって、人類は新たな歴史の段階に入った。自然に内在する巨大なエネルギーを人間が使用できるようになったことで、人類は飛躍的に発展することもできれば、核戦争によって自滅することもありうる。そういう段階に、人類は入ったのである。それゆえ、私は、人類史の大きな区切りとして、1945年(昭和20年)以降を現代と呼ぶ。
 第二に、第2次大戦は、文明学的意義を持つ。大東亜戦争は、アジア・太平洋の広域に繰り広げられた、「文明の挑戦と応戦」の一大ドラマだった。白人種の文明と有色人種の文明という異質な文明同士が激突した。そして、日本の近代化や日露戦争に見られるように、世界の中心が西洋から東洋へと移行していく「時」の流れを、そこに見ることができる。
 その「時」の流れを巨視的に洞察していた大塚寛一先生は、日本が欧米との戦争に踏み込むことなく、厳正中立・不戦必勝の対策を提示された。ところが、当時の日本の指導者は、日本とアジアの発展の時を見誤って、戦う必要のない無謀な戦争に突入してしまった。東条英機らが描いた大東亜共栄圏構想は、花に例えれば、人工的に早咲きさせようとして、かえって花を散らせてしまったようなものである。西洋文明が産んだ独伊のファシズムを模倣して、力づくで無理矢理に進めたため、自然の法則に外れ、狂い咲きとなってしまったのである。これは誠に残念なことだった。
 しかし、その半面、時の勢いはすでにアジアに向かっていたから、大東亜戦争は、アジア諸民族の独立・解放のきっかけとはなった。20世紀後半から21世紀にかけて人類が目の当たりにしているアジアの興隆は、第2次世界大戦で欧米諸国が互いに傷つけ合い、日本が白人種による植民地支配を突き崩し、アジア諸民族が独立運動を行ったことに始まる。わが国が大東亜戦争をアジア解放の戦いとしたことは、その点で意味がある。だが、だからといって、独伊との同盟を正当化することはできないことは強調せねばならない。
 第三に、第2次世界大戦には、国際関係論的意義がある。第2次大戦は、国際社会の構造に大きな変化をもたらした。大戦後の国際秩序は、米英ソ参加国の首脳によるヤルタ会談とポツダム会談によって、大枠が決められた。それゆえ、ヤルタ=ポツダム体制と呼ぶことができる。
 米英ソの連携を支持する者は、第2次大戦を「民主主義対ファシズムの戦い」と称する。しかし、ソ連の国家体制は全体主義であって、自由民主主義ではない。米英とソ連を結んだのは、思想・体制ではなく、主権国家としての利害関係である。第2次大戦は、同盟国群の間の戦争であって、「連合国対枢軸国の戦い」としか言えない。近代世界システムの中核部における覇権争いである。その争いにおいて、日独伊は惨敗し、英仏蘭等は後退し、米ソが躍進した。その結果、戦後、アジア、ついでアフリカでは、抑圧されていた諸民族の多くが独立した。
 国際社会は、軍事的には、連合国が国際機構に再編された。いわゆる国際連合が国際秩序の要となった。やがて安保理常任理事国の五大国による核の寡占管理体制が形成されていった。一方、経済的には、大戦前の列強による分割支配・ブロック経済は、大戦後、米ソ二大国の系列支配・体制圏経済に移行した。資本主義対共産主義、自由主義対統制主義の対立が世界的に構造化された。資本主義・自由主義の体制圏では、アメリカを中心とする国際経済体制が構築された。ブレトン・ウッズ体制がそれである。共産主義・統制主義の体制圏では、ソ連を中心とする国際経済体制が構築された。こちらでは、共産党による計画経済が試みられた。
 第2次世界大戦は、戦争という破壊によって、こうした新しい国際社会の構造を生み出した。そこに国際関係論的な意義がある。
 こうした三つの意義のある第2次大戦は、人権の発達においても、大きな画期をなすものとなった。大戦を通じて、人権は現代世界の中心思想の一つとなった。人権の国際的保障が求められ、人権に係る国際法と国際機構が大きく発達した。その一方、第2次大戦の反省と総括が徹底してなされていないことによる問題点も残存している。

 次回に続く。

韓国は北の体制に近づきつつある~古田博司氏

2015-11-14 08:48:55 | 国際関係
 10月31日から11月1日にかけて、日中韓首脳会談がソウルで開かれた。三国の首脳がそろって会談するのは3年半ぶりだった。また2日には日韓首脳会談が行われた。安倍首相とパク・クネ大統領による初めての会談だった。中国・韓国は、日本との関係を改善したいという姿勢に変わってきている。だが、わが国は、安易にこれに乗るべきではない。本稿では、韓国について警戒すべき点を書く。
 8月に南北挑発事件が発生し、協議の結果、話し合いで決着した。そのことで韓国の朴槿恵大統領の支持率が上昇し、さらに9月3日の中国抗日行事への参加によって上昇した。日本人の多くには理解しがたい状況だが、背後には、韓国に対する北朝鮮の工作の効果がある。戦後の韓国での反日動向への北朝鮮の工作の影響については、先に西岡力氏の記事を紹介した。最近の韓国の事情については、筑波大学大学院教授の古田博司氏が、産経新聞9月9日号に書いた。大意次のような内容である。
 南北挑発事件の協議については、「韓国側代表は、尹炳世外相を要とする『金大中・盧武鉉左翼政権人脈』」だったと古田氏は言う。
 古田氏が「金大中・盧武鉉左翼政権人脈」の要という尹炳世氏は、盧武鉉大統領の左翼政権時代に国家安全保障会議(NSC)室長、大統領府外交安保首席秘書官等の外交分野の実務や重要ポストを歴任し、盧武鉉・金正日氏による南北首脳会談実現の立役者となった。政権が代わると2009年から朴大統領の出身大学である西江大学の招聘教授となり、10年末に発足した朴氏のシンクタンク「国家未来研究院」で外交・安保分野を担当し、朴政権で外相になったという経歴の持ち主である。こういう経歴の人物が外交の責任者として、韓国の北朝鮮や中国との外交のかじ取りを行っている。
 尹氏を要とする「金大中・盧武鉉左翼政権人脈」は、「親北朝鮮・親中国のルート」、並びに「北朝鮮主導による「『南北連邦統一構想』」に連なっている、と古田氏は言う。
南北挑発事件については、「『北の誤算』とか、『引き分け』というのは表層のもの」であり、「両国関係進展」とか「北、計算ずくめの遺憾」」というのが正しい。「北朝鮮はこれまでも数々の挑発行為の際、韓国に「遺憾」の表明をためらうことなどなかった」が、今回はじめて「韓国の北朝鮮シンパ人脈が最も有効に機能」した、と古田氏は見る。
 そして、今後の韓国を次のように予想する。「朴槿恵政権は2017年末の大統領選挙をもって任期が終わる。彼女の後を狙う野党内には有能な政治家が待機している。ほぼ従北勢力か、北朝鮮シンパである。選挙が民主的に機能さえすれば、南北関係は再び金大中・盧武鉉政権が北の国家予算分を援助したあの左翼全盛時代に戻るだろう」と。
 この背景には、北朝鮮の対南工作がある。古田氏は、金日成主席が1964年に提唱した「思想工作により韓国を南朝鮮革命の根拠地にする」という「民主基地論」の構想は、「見事に成就」したという。「90年代、韓国には北の思想工作が大学自治会を中心に浸透し、今日の従北勢力の基盤をつくった。この勢力が育ち、司法に入り込んだため、過去遡及法が行使されたり、日韓基本条約を無視する判決がだされたりし、韓国の法治主義の崩壊を招いたのである」と。
 古田氏は、このように書いて、記事を次のように結んでいる。「韓国は北の体制、ひいては東洋的専制主義に近づいているのであり、その逆ではない。朴槿恵大統領が中国の抗日記念行事とパレードに参加するという果敢な反米・反日の選択をしたこともこの文脈で見なければならないだろう」と。
 日韓関係は、今が最低ではない。朴政権以後、もっと悪くなる可能性がある。古田氏の2017年以降、南北関係は再び金大中・盧武鉉政権のような左翼全盛時代に戻るという予想に、われわれは留意しておく必要がある。
 以下は、記事の全文。

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●産経新聞 平成27年9月9日

http://www.sankei.com/column/news/150909/clm1509090001-n1.html
2015.9.9 05:02更新
【正論】
北の体制に近づく韓国の危うさ 筑波大学大学院教授・古田博司

 8月に発生した南北挑発事件の協議は、同22日から25日未明まで断続的に約43時間にわたって行われ、無事合意に達した。取りあえず東アジアの平和にとってめでたいといえる。

《交渉務めた左翼政権人脈》
 当日、韓国側の交渉代表は、大統領府の金寛鎮国家安保室長と、洪容杓統一相だった。前者には、盧武鉉左翼政権下で最も出世した高官だとの評価がある。当時の金章洙国防相の右腕として合同参謀本部議長の地位で尹炳世外交安保首席(現外相)とともに、2007年の盧武鉉・金正日首脳会談に関わった。上司の金章洙国防相は、尹炳世氏とともに大統領引き継ぎ委員に任命され、現政権では国家安保室長を経て中国大使になっている。
 もう一人の代表、洪容杓統一相は、10年末に朴槿恵大統領の母校・西江大学で発足した朴槿恵氏のシンクタンク「国家未来研究院」のメンバーで、尹炳世氏と同僚だった。朴槿恵政権では外交安保秘書を経て、現統一相となる。彼は南北経済協力の支持者で金大中・金正日首脳会談での「六・一五宣言」(緩やかな南北連邦統一案)を支持した学者として政権発足当初、保守陣営から起用を疑問視される声もあった。現政権の対北政策、「韓半島信頼プロセス」は尹炳世氏と洪容杓氏が中心となって作成されたものである。
 つまり今回の韓国側代表は、尹炳世外相を要とする「金大中・盧武鉉左翼政権人脈」であり、それが親北朝鮮・親中国のルート、並びに「南北連邦統一構想」に連なっている。そして、この関係が軍部・政府内に広まる。
 今回の協議では、韓国側が金正恩第1書記の最側近、黄炳瑞朝鮮人民軍総政治局長の出席を要求し、北朝鮮側が快諾している。協議場所は軍事境界線がある板門店の北側施設「統一閣」ではなく、北にとっては「敵地(アウェー)」となる南側施設「平和の家」だった。43時間とは、韓国のホテルからの仕出しで、途中晩餐(ばんさん)会でもなさったのであろうか。巨視的に両者の摩擦の振幅も次第に小さくなっていることに注意しなければならない。今年は南北分断70年に当たる。両者の思惑が交差する絶好の機会でもある。

《出番待つ野党の従北勢力》
 今回の事件で、「北の誤算」とか、「引き分け」というのは表層のものだ。「両国関係進展」とか、「北、計算ずくめの遺憾」というのが正論である。北朝鮮はこれまでも数々の挑発行為の際、韓国に「遺憾」の表明をためらうことなどなかった。では今回何がはじめてなのかと言えば、韓国の北朝鮮シンパ人脈が最も有効に機能したということなのである。
 朴槿恵大統領は、韓国の世上、「不通公主(プルトンコンジュ)」(耳塞(ふさ)ぎ姫)といわれるそうである。俗にいう垂廉政治(女帝が臣下との対面を避け、御簾(みす)を垂らし執政する)である。「卿(キョン)」(臣下たち)の日々のイガンジル(告げ口)やヌンチ(ゴマすり)を避けたいという気分もあろうが、臣下たちに身を曝すほど内情が北に筒抜けになることを恐れているとすれば、それは正しい選択だといえる。
 朴槿恵政権は2017年末の大統領選挙をもって任期が終わる。彼女の後を狙う野党内には有能な政治家が待機している。ほぼ従北勢力か、北朝鮮シンパである。選挙が民主的に機能さえすれば、南北関係は再び金大中・盧武鉉政権が北の国家予算分を援助したあの左翼全盛時代に戻るだろう。

《抗日記念行事出席の意味》
 南北統一構想には北朝鮮の故金日成主席が、1980年10月の朝鮮労働党第6次大会において提唱したものがある。一民族・一国家・二制度・二政府の下で連邦制による統一を主張した。これを「高麗民主連邦共和国」構想という。
 統一政府として南北同数の代表と在外朝鮮人の代表からなる最高民族連邦会議を組織し、常任の連邦常設委員会を設置、南北両政府を指導し、連邦政府の全事業を管轄する。南北の地方政府は最高民族連邦会議の指導の下、全民族の利益を損なわない範囲内で独自の政策を実施し、すべての分野で南北格差を解消するように努力する。二つの体制が共存することを前提とし、思想と体制を強要しないというものだ。
 同じく金日成主席が1964年に提唱した「民主基地論」という構想があった。思想工作により韓国を南朝鮮革命の根拠地にするというものだったが、見事に成就した。90年代、韓国には北の思想工作が大学自治会を中心に浸透し、今日の従北勢力の基盤をつくった。この勢力が育ち、司法に入り込んだため、過去遡及(そきゅう)法が行使されたり、日韓基本条約を無視する判決がだされたりし、韓国の法治主義の崩壊を招いたのである。
 韓国は北の体制、ひいては東洋的専制主義に近づいているのであり、その逆ではない。朴槿恵大統領が中国の抗日記念行事とパレードに参加するという果敢な反米・反日の選択をしたこともこの文脈で見なければならないだろう。(ふるた ひろし)
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人権225~第2次大戦による人間の危機

2015-11-13 08:41:39 | 人権
●第2次世界大戦による人間の危機

 第2次世界大戦は、欧米を中心に発達してきた人権を危機に陥れる出来事だった。戦争は権利と権力の闘争における究極の事態である。「人間的な権利」を根底から揺るがすだけでなく、人間そのものが危機に直面する。なかでも第2次大戦は、過去人類史上最大の危機を生み出した。この大戦は、人権の保障に関してかつてないほど深刻な課題をもたらした。
 1939年(昭和14年)9月1日、ドイツはポーランドに侵攻した。英仏はドイツに宣戦を布告し、ここに第2次世界大戦が勃発した。ヒトラーとスターリンは、密約によってポーランドを東西に分割した。スターリンは、同年11月フィンランドにも侵攻し、領土を拡張した。国際連盟は同年12月ソ連を除名した。
 40年5月10日、ドイツは電撃作戦を開始し、デンマーク、ノルウェーを占領、オランダ、ベルギーに侵攻した。6月18日、パリが占領された。市民革命によって自由・平等・友愛の理想を掲げたフランスが、全体主義の支配を受けるはめになった。ドイツの破竹の勢いを見たイタリアも、大戦に参戦した。 ヒトラーは、9月ロンドンへの空襲を開始したが、チャーチルは不屈の意思をもって国民を指導し、イギリスは粘り強く抗戦を続けた。ヒトラーは、ユダヤ国際資本との戦いを企図していた。だが、強大な資金力と緻密な情報力を持つロスチャイルド=ユダヤ・ネットワークは、徐々に劣勢を跳ね返していった。
 ヒトラーに幻惑されたわが国は1940年(昭和15年)9月27日、日独伊三国軍事同盟を締結した。そのため、欧米の強い反発を買った。石油確保を目指して、南部仏印に進駐すると、アメリカから対日石油輸出禁止の制裁を受けた。石油が入ってこないとは、経済活動が縮小し、ジリ貧に陥ることである。わが国の政府は、外交による事態の打開を図った。近衛文麿首相は日米首脳会談を決意し、米側に申し入れたがルーズベルトはこれを拒否した。ルーズベルトとチャーチルは、41年(昭和16年)8月14日大西洋憲章と呼ばれる共同宣言を発し、領土不拡大、民族自決、通商・資源の均等解放等の指導原則を明らかにした。
 わが国は、9月6日の御前会議において、外交努力を継続しつつも、10月上旬に至っても交渉が成立しない場合は対米英開戦を決意するという方針を決定した。国務長官ハルは、ハル・ノートを突きつけてきた。わが国の指導層は、その要求は到底呑めないと判断し、これを事実上の最後通牒と理解し、対米決戦へと歩を進めた。
 12月8日、日本は真珠湾を奇襲攻撃した。また同日、イギリス領マレーへの上陸作戦を開始した。こうしてヨーロッパで始まった戦争は、東アジア・太平洋での戦争と結合し、世界規模の大戦となった。わが国は自国の戦争を大東亜戦争と名づけ、アメリカは太平洋戦争と称した。
 1942年(昭和17年)中盤までは、ヨーロッパ、東アジア・太平洋両戦線ともに、枢軸国が優勢だった。しかし、42年6月、わが国はミッドウェー海戦で主力空母を失い、以後、戦争の主導権をアメリカに奪われた。42年6月ソ連に侵攻したドイツはロシアの冬に直面し、43年1月、第6軍がソ連軍に降伏し、以後、ドイツは各地で敗北を重ねた。42年(昭和17年)11月、英米連合軍が北アフリカから反攻を開始し、43年9月イタリアは無条件降伏した。44年(昭和16年)6月6日、連合国軍はノルマンディー上陸作戦に成功し、45年(昭和20年)に入るとドイツ領内に侵攻した。
 こうした戦争の最中、米英は、戦争の終結と戦後体制の構築を検討していた。同年年2月クリミア半島のヤルタで、ルーズベルト、チャーチル、スターリンによる首脳会談が行われた。彼らは、ドイツに対する戦後処理として、米英仏ソ4カ国による共同管理、戦犯処罰、非武装化を決めた。また連合国を発展させた国際機構をもって戦後世界を管理する体制に大枠合意した。この会談で、米英首脳は、スターリンに対日参戦を求め、見返りとして千島と南樺太の奪取を認めた。これは領土不拡大を宣言した大西洋憲章を曲げる密約だった。スターリンはヤルタ密約を背景に、ドイツに進軍した。アメリカ軍とソ連軍はエルベ川近くで合流し、追い詰められたヒトラーは自殺した。ドイツは正統な政府のない状態で、5月に無条件降伏した。
 わが国は3月10日、アメリカ軍のB29によって東京への空襲を受けた。一夜で約10万人が犠牲となった。一般市民を対象とした無差別攻撃であり、戦時国際法に違反した行為だった。わが国の66の主要都市が次々に無差別攻撃され、老若男女の無辜の民が斃れていった。8月6日、アメリカ軍は広島に原子爆弾を投下した。この人類史上初の原爆投下によって、約14万人の生命が奪われた。そのほとんどは、非戦闘員である。続いて9日には、二発目の原爆が長崎に投下された。約7万人が殺害された。9日未明、弱りきった日本の姿を見て、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦した。満州、樺太、千島列島等に、ソ連軍が猛然と攻め込んできた。
 ここにいたって、昭和天皇は、8月9日の御前会議において終戦の御聖断を下された。わが国は8月10日にポツダム宣言の受諾を連合国に通告した。ドイツと違い、日本は、正統なる政府が厳然と存在し、連合国と外交交渉を行ったので、日本の降伏は条件付き降伏だった。9月2日、アメリカ戦艦ミズーリ号の船上にて、降伏文書の調印が行われ、未曾有の大戦争となった第2次世界大戦は終結した。

 次回に続く。

「今こそ憲法改正を!武道館1万人大会」が開催

2015-11-12 09:31:43 | 憲法
 11月10日「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の主催により、東京千代田区の日本武道館で「今こそ憲法改正を!1万人大会」が開催された。私は、賛同者の一人として、友人たちとともに参加した。
 場内は最上列の席までびっしり人が入り、来場者は1万1千3百人を超えた。また、82名の国会議員(代理含む)が参加した。



 最初に主催者を代表してジャーナリストの櫻井よしこ氏が挨拶し、「日本の神髄を凝縮して表現していなければならないのが憲法前文ですが、現在の前文は実は外国のさまざまな文章の寄せ集めです。現代風にいうと「コピペ」であります。そこには日本の歴史も、私たちのご先祖が大切にしてきたさまざまな価値観も、全く反映されていません」「来年7月の参院選を一つの目標として、憲法改正の実現に向けて、全員の力を結集してまいりましょう」と訴えた。
 来賓として、外国人が2名挨拶した。インド政策センター教授のブラーマ・チェラニー氏は「憲法改正なくして日本の再建はあり得ません」と断じ、「日印の協力でアジアの平和を守っていきましょう」と呼びかけた。またベトナム外務省元顧問局長のディン・ホアン・タン氏は、「中国の拡張主義は実に利己的で地域のみならず世界の安全を脅かしています」「日本の平和と安全のためだけでなく、アジアと世界の平和と安全のためのものとして憲法改正を支持します」と熱烈に語った。
 会場には、インド・ベトナムを含む8カ国の若者30名が参加していることが紹介された。
 自民党総裁の安倍晋三首相は衆院予算委員会のため欠席したが、「21世紀にふさわしい憲法を私たち自身の手で作るべき時です」「私たち自身の手で憲法をつくるという精神こそが、新しい時代を切り開いていくことにつながるものである。私はそう考えます」とのビデオメッセージを寄せた。
 次世代の党の中山恭子代表は、「この憲法に忠実にあろうとすればするほど、日本が独立国家としての体をなさなくなり、平和の維持すら危うくなってしまいます」「長い歴史と伝統を持つ、日本の心を大切にした、日本人自らの手による自主憲法を制定しなければなりません」と決意を語った。
 提言者の一人として、米カリフォルニア州弁護士のケント・ギルバート氏は、「9条で軍事力を奪ったのもアメリカのためなんです。アメリカの国益のためなんです」「米国が私たちを守ってくれるという依存症が日本国内に蔓延しています。日本人はそうした病を早く払拭すべきだと思います」と述べた。
 『永遠の0』の作家・百田尚樹氏が監修する憲法改正の啓発映画の予告編が上映された。ナレーターの俳優・津川雅彦氏は「日本国憲法は日本を守るどころか、日本を滅ぼしかねない危険性を持っている」と指摘した。この映画は年内完成がめざされており、各地の啓発活動に活用されるだろう。
 意見表明者の一人として、熊本大学教授の高原朗子氏は、女性が憲法改正を語る「なでしこの集い」の活動を報告し、「47都道府県のうち埼玉・神奈川以外は女性の方が多いのです。国民投票の勝利を女性の力で成し遂げましょう」と訴えた。
 大会スローガンとして、「憲法改正1000万賛同者を拡大し、国民的大議論を巻き起こそう!」「国会は国民の声を受け止め、すみやかに国会発議を実現し憲法改正の国民投票を!」が掲げられ、決議文が採択された。
 決議文は、自民党、民主党、大阪維新の会、次世代の党の各党代表者に手渡された。
 司会は、政治ジャーナリストの細川珠生さんが行った。さわやかで明るく、和らぎのなかに力強さがあり、素晴らしい司会だった。随所で女性のパワーを感じる集会だった。
 この日をきっかけに憲法改正運動は、来年に向けてさらに拡大していく。日本を愛し、日本の再建を願う皆さん、家族・友人・地域の人たちなどに、広く憲法改正の必要性を伝えていきましょう。

※動画のご紹介
https://www.youtube.com/watch?v=yCDQaRYrmkQ





人権224~「国家の論理」の強権発動

2015-11-11 08:46:35 | 人権
●「資本の論理」に対する「国家の論理」の強権発動

 本稿は、しばしば集団の権利あっての個人の権利であることを強調しているが、このことは資本主義経済においても、同様である。世界恐慌が起こった場合、個人の自由と権利に基礎を置く自由放任の政策では、国民経済は回復し得ない。需要が極度に縮小した状態では、政府が有効需要を作り出し、民間の投資を喚起しなければならない。政府が積極的に雇用を生み出し、失業者を減らしてこそ、労働者及びその家族の権利を保護することができる。
 かつてマルクス及びマルクス主義者によって、資本主義は、私有財産制と契約自由の原則に基づいて、資本家の私的利潤獲得のために生産が行われるから、社会全体の生産は無政府的性格を持つとされた。マルクスは、19世紀後半の景気循環から、恐慌による資本主義の破局を予想した。19世紀末から20世紀初め、その予想は外れ、マルクスは権威を失った。しかし、世界恐慌は、彼の予想が現実になったものという見方が広がった。1930年代、先進国の知識人の多くが共産主義に共鳴し、共産主義への移行は歴史の必然であると考えるようになった。
 しかし、ニューディール政策やケインズ主義によって、資本主義は回復力を発揮した。それは「国家の論理」によって「資本の論理」を制御したからである。この過程を権力論的に述べると、資本は社会的権力である。この社会的権力が市場で猛威を振るい、国民経済や市場を破壊する事態となったものが、恐慌である。これに対し、政府の政治的権力で資本の社会的権力に規制をかける動きが、ニューディール政策であり、ケインズ主義である。
 「資本の論理」は利潤追求の論理であり、経済的合理主義に貫かれている。これに対し、国家は歴史的・文化的な共同体をもとに形成された組織であり、領域と人民を統治し、国民共同体を維持・発展させることを目的とする。「資本の論理」と「国家の論理」は異なっており、それぞれの目的に向かって活動する。資本の社会的権力と政府の国家的権力は、共通の利益を追求する協同的な関係になることも、利害の対立する闘争的な関係になることもあり得る。資本主義が崩壊の危機にある時には、「国家の論理」が発動する。政府の国家的権力によって、経済の秩序を回復させる以外にない。
 所有の自由に対する一定の規制、政府による市場への介入、資本の経営への政府の統制、私的所有から社会的所有への部分的転換、これらを施行する法の制定等が各国で行われた。こうした政策を通じて、資本主義は政府の介入を受け、一定の管理のもとで経済活動が行われるようになった。その結果、現代の資本主義は、管理された資本主義に転換し、修正資本主義となっている。
 「国家の論理」は、国家と国家の間においても作動する。世界恐慌後、植民地や従属国を多く持つイギリスは、1932年保護関税政策を始め、さらにイギリス連邦内に特恵制度を取って、スターリング・ブロックを設定した。フランスもこれに対抗して、植民地を基盤として、自国中心のフラン・ブロックを形成し、域外からの輸入品に高い関税をかける等の措置を講じた。アメリカは、33年からニューディール政策を実施するとともに、関税引き上げなど保護主義的な政策を行い、ラテン・アメリカ諸国との外交を強化し、通商の拡大に努めた。資本主義列強が取ったこうした経済政策が、ブロック経済である。
 排他的な経済圏の成立は、第1次世界大戦で植民地を失ったドイツや、もともと経済基盤の弱い日本、イタリア等の経済を一層悪化させるものとなった。これらの国々では、危機を打開しようとして、排外的なナショナリズムや全体主義が台頭した。
 こうして、第1次世界大戦後、戦勝国によって築かれた国際社会の秩序は、世界恐慌によって大きく動揺した。各国は自衛と生存のために、自己本位の政策を推し進めた。その結果、アメリカ、イギリス、フランス等の「持てる国」とドイツ、イタリア、日本等の「持たざる国」との対立が深まっていった。この対立は、先進国・後進国の間の対立ではあるが、それぞれの国民及び資本の生存・繁栄を賭けた戦いだった。集団間の自由と権利の戦いだった。
 そもそも戦争は、国家間での自由と権利の争いである。領土を奪ったり、他国民の所有物を奪ったり、財産を破壊したりする。もし所有権が普遍的・生得的な不可侵の権利なら、戦争はそれ自体が人権侵害ということになるだろう。だが、所有権はもともと絶対的なものではない。財産の所有権も生命の所有権も、自国の政府によって制限や剥奪をされ得る。他国の政府が侵攻して、規制や剥奪をすることも為し得る。権利は能力であり、奪う能力もあれば、守る能力もある。相互の承認が成立しなければ、実力によって決着をつけるしかない。戦争は権利をめぐる最大規模の戦いである。1930~40年代の世界では、戦争による権利の追求が事実上承認されていた。第1次大戦後、国際連盟が結成され、また不戦条約が調印されたが、30年代以降の国際情勢に対して、これらはほとんど効力を発揮できなかった。

 次回に続く。

韓国の反日の背後に北の工作あり~西岡力氏

2015-11-09 11:17:23 | 国際関係
 韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領の支持率が一時より上がっている。きっかけは、8月に起こった南北朝発事件が話し合いで解決したことだという。一時、北朝鮮は「準戦時状態」を宣言し、一触即発かという緊張感が漂った。地雷爆発事件で韓国軍下士官が負傷したことについて北朝鮮が遺憾の意を表明。韓国側は報復措置として再開した「宣伝放送」を25日正午から中断し、北朝鮮も「準戦時状態」を解除した。韓国では、これがパク政権の外交成果として、国民に評価された。そして支持率をさらに引き上げたのが、9月3日パク大統領が中国で行われた抗日戦勝勝利70周年記念行事への参加なのである。同氏は、記念式典に参加した後、軍事パレードも謁見した。
 中国のいう抗日戦争という点では、そもそも韓国は戦前、日本軍と戦ってなどいない。当時韓国は日本の統治下にあり、日本軍に朝鮮人兵士が24万人参加していた。その上、韓国軍は大戦後、朝鮮戦争で中国人民解放軍と熾烈な戦いを行った。朴大統領の参列は、朝鮮戦争で韓国の領土に侵攻した中国軍に敬意を表すという倒錯状態に陥っている。そのことで、韓国での同氏への支持率が支持率が前週から5ポイント上がり、54%へと上昇した。
 隣国でありながら、韓国民のものの考え方は、非常にわかりにくい。そこには単に国民性によるだけでなく、北朝鮮の工作の影響があることを、日本人は知っておく必要がある。
 韓国・北朝鮮問題に詳しい東京基督教大学教授の西岡力氏は、産経新聞6月18日付に、このことについて大変参考になる記事を書いている。
 西岡氏は、「現在の韓国人の反日感情の原因は日本統治時代の記憶ではない。なぜなら、反日感情は統治時代を経験していない若い世代ほど高いからだ」と指摘する。それは、韓国における反日教育の結果であるだけでなく、北朝鮮の工作の結果でもある。
 西岡氏は、1965年、日韓基本条約を結んだ朴正煕大統領について、次のように言う。「朴正煕大統領も『植民統治の収奪、ことに太平洋戦争で数十万の韓国人をいけにえにした日本は、永久に忘れることのできない怨恨を韓国人に抱かしめている』と反日感情を隠さなかったが、北朝鮮と背後にあるソ連、中国との対決に勝つため、自由主義陣営の日本と協力する必要性を認めた。朴正煕政権は条約で解決した過去の歴史問題を外交に持ち込むことはなかった」。
 問題は、この後である。「日本が朝鮮総連などの韓国の安保を脅かす活動を取り締まらなかった結果、74年、日本をテロ基地とした大統領夫人暗殺事件が起きると、韓国では反日感情が爆発し、朴正煕政権は日韓断交さえ検討した」。西岡氏によると、この時こそ日韓関係は最悪だった。朴大統領は、1979年民主化デモの鎮圧にあたっている時に、側近によって暗殺された。
 次に、1980~88年の全斗煥政権の時代である。「全斗煥政権の反日も当初は、日本が自由主義陣営に属しながら応分の軍事費負担をしていないというものだった。当時の自民党政権と外務省は安保経済協力を拒否していた。その渦中の82年、日本マスコミの誤報から教科書事件が起きた。全政権は経済協力資金を得る便法としてそれを使った。中国共産党と日本の反日マスコミと韓国の反共政権の連携というおかしな構造がこの時にできた。歴史認識問題を外交交渉にのせるという歪んだ構造がここで生まれた」と西岡氏は述べる。
 次に、1988~1993年の盧泰愚政権の時代である。1992年、「やはり日本の反日マスコミの誤報により突然、外交問題化した慰安婦問題でも、盧泰愚政権は日本からの技術移転を求める交渉の道具としてこれを使うことを決め、宮沢喜一首相の訪韓での謝罪劇が生まれた」と西岡氏は説明する。
 ここで西岡氏は、重要なことを指摘する。「80年代、北朝鮮の韓国への政治工作の主要武器は韓国版自虐史観だった。全斗煥、盧泰愚政権の歴史問題を外交道具にするという歪んだ政策が北朝鮮の工作を後押しして、当時の大学生のほとんどが自虐史観のとりこになった」と。「この歴史観に立つから、冷戦で共産陣営が敗北しても、韓国内の北朝鮮の独裁政権に従属する『従北派』は力を拡大し、2012年の大統領選挙では、従北派との連立を公約した左派候補が48%の支持を得た。朴槿恵大統領はこの歴史観と正面から戦うことができないまま、反日外交を続けている」と西岡氏は指摘している。
 以下は記事の全文。

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●産経新聞 平成27年6月18日

http://www.sankei.com/column/news/150618/clm1506180001-n1.html
2015.6.18 05:02更新
【正論】
日韓国交正常化50年 「日韓友好」の原点回帰は可能だ 東京基督教大学教授・西岡力

 現在の韓国人の反日感情の原因は日本統治時代の記憶ではない。なぜなら、反日感情は統治時代を経験していない若い世代ほど高いからだ。私は1977年に韓国に留学したが、統治時代を知る年長者の日本に対する感情は、独立を奪われていた悔しさが半分、日本から入った大衆文化などへの懐かしさが半分混在していた。

≪朴正煕大統領の対日認識≫
 日本の朝鮮統治は「同化政策」、すなわち朝鮮人は民族性を捨てて日本民族になればよいというレイシズムが貫かれていた。しかし、新羅の統一以来、千数百年、統一王朝の下で形成された民族性を抹殺することは不可能だった。平等に扱うという「善意」はむしろ逆に作用した。
 一方、日本の統治は近代文明をもたらした。金洛年・東国大学教授の研究によると、1910~40年に経済は年平均3・7%成長し、人口は年平均1・3%増えた。独立後の韓国は、日本民族への同化を否定しつつ、日本時代に導入された近代化の諸要素を用いて国造りを進めた。
 65年、日韓基本条約を結んだ朴正煕大統領も「植民統治の収奪、ことに太平洋戦争で数十万の韓国人をいけにえにした日本は、永久に忘れることのできない怨恨(えんこん)を韓国人に抱かしめている」と反日感情を隠さなかったが、北朝鮮と背後にあるソ連、中国との対決に勝つため、自由主義陣営の日本と協力する必要性を認めた。
 朴正煕政権は条約で解決した過去の歴史問題を外交に持ち込むことはなかった。しかし、日本が朝鮮総連などの韓国の安保を脅かす活動を取り締まらなかった結果、74年、日本をテロ基地とした大統領夫人暗殺事件が起きると、韓国では反日感情が爆発し、朴正煕政権は日韓断交さえ検討した。この時こそ日韓関係は最悪だった。

≪外交の道具となった歴史問題≫
 全斗煥政権の反日も当初は、日本が自由主義陣営に属しながら応分の軍事費負担をしていないというものだった。当時の自民党政権と外務省は安保経済協力を拒否していた。その渦中の82年、日本マスコミの誤報から教科書事件が起きた。全政権は経済協力資金を得る便法としてそれを使った。中国共産党と日本の反日マスコミと韓国の反共政権の連携というおかしな構造がこの時にできた。歴史認識問題を外交交渉にのせるという歪(ゆが)んだ構造がここで生まれた。
 92年、やはり日本の反日マスコミの誤報により突然、外交問題化した慰安婦問題でも、盧泰愚政権は日本からの技術移転を求める交渉の道具としてこれを使うことを決め、宮沢喜一首相の訪韓での謝罪劇が生まれた。
 80年代、北朝鮮の韓国への政治工作の主要武器は韓国版自虐史観だった。全斗煥、盧泰愚政権の歴史問題を外交道具にするという歪んだ政策が北朝鮮の工作を後押しして、当時の大学生のほとんどが自虐史観のとりこになった。李栄薫ソウル大学教授は著書「大韓民国の物語」でその誤った歴史観を次のように要約した。
 「宝石にも似た美しい文化をもつ李氏朝鮮王朝が、強盗である日本の侵入を受けた。それ以後は民族の反逆者である親日派たちが大手を振った時代だった。日本からの解放はもう一つの占領軍であるアメリカが入って来た事件だった。すると親日派はわれ先に親米の事大主義者にその姿を変えた。民族の分断も、悲劇の朝鮮戦争も、これら民族の反逆者たちのせいだった。それ以後の李承晩政権も、また1960~70年代の朴正煕政権も、彼らが支配した反逆の歴史だった。経済開発を行ったとしても、肝心の心を喪ってしまった」

≪共通の敵は北朝鮮の独裁政権≫
 この歴史観に立つから、冷戦で共産陣営が敗北しても、韓国内の北朝鮮の独裁政権に従属する「従北派」は力を拡大し、2012年の大統領選挙では、従北派との連立を公約した左派候補が48%の支持を得た。朴槿恵大統領はこの歴史観と正面から戦うことができないまま、反日外交を続けている。
 心配なのは日本人の嫌韓だ。韓国の反日の背後にある政治工作を見ず、韓国人の民族性のみに還元する議論が拡散しているからだ。
 しかし、日韓関係は最悪ではない。韓国が米国と同盟である以上、日本は安保において韓国と同じ船に乗っている。北朝鮮の独裁政権を共通の敵として、歴史観や領土問題などをお互いに譲歩し合う50年前に両国の先人が築いた日韓友好の原点に戻ることは十分可能だ。すでに韓国内の自由統一を目標としている健全な保守勢力は、そのような立場から日韓関係の改善を提起している。
 50年前も、そして今も釜山に赤旗が立つことは日本の安全保障にとって最悪のシナリオだ。韓国が反日自虐史観を清算して自由統一を迎えるのか、あるいは逆に、自虐史観に飲み込まれ北朝鮮の思うつぼにはまっていくのか、まだ勝負はついていない。(にしおか つとむ)
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関連掲示
・拙稿「韓国の反日は社会の閉塞感の表れ」
http://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/a652d1512d8edc6f595916109c1ba661
・拙稿「韓国では『棚ぼた式独立』がコンプレックスに」
http://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/5666183490680dfed966ef5608e78cb3

人権223~世界恐慌と自由の保守

2015-11-08 09:47:29 | 人権
●世界恐慌と経済的権利の保護

 第1次世界大戦末期にロシア革命が起こり、欧州と世界は共産主義の脅威に直面することになった。自由主義と統制主義の激しい対立が国際間に広がった。
 1920年代には、資本主義は、ものの生産より金融が中心となり、金融市場は賭博場と化していた。自由放任的な経済活動は、投機的な投資の大規模化を許した。そのなかで、資本主義は強欲資本主義に変貌した。そして1929年、世界恐慌が起こった。世界恐慌のドイツへの影響については先に書いたが、ここでアメリカにおける展開を述べる。
 大恐慌は、繁栄の絶頂にあったアメリカで始まった。1920年代のアメリカは、世界最大の工業国としての地位を確立し、大戦後の好景気を謳歌していた。好景気でだぶついた資金は株式市場に流入した。投機熱によって、ダウ平均株価は24年からの5年間で5倍も高騰した。29年9月3日、ダウ平均株価は過去最高価格を記録した。しかし、その一方、アメリカでは、農業不況の慢性化、鉄道や石炭産業部門の不振、合理化による雇用抑制等が生じていた。29年に入ってからは、工業製品が生産過剰に陥っていた。
 これらの要因が複合して、10月24日ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落した。株価は投資家の買い支えで、一時安定したものの29日には再び大暴落した。もはや手の打ち様がなかった。株価は、9月のピーク時の約半分にまで下がった。わずか1週間で、当時のアメリカの連邦年間予算の10倍にも相当する富が消失した。銀行や工場は次々と閉鎖に追い込まれ、かつてない恐慌に発展した。
 恐慌発生後、フーバー大統領は、従来の不況対策程度の政策しか行っていなかった。混迷を打開するため、大胆な政策を提案したフランクリン・D・ルーズベルトが、現職大統領を破って、1933年に大統領に就任した。
 就任後、ルーズベルトは、議会に働きかけて矢継ぎ早に法案を審議させた。3ヶ月ほどの間に、各種法案が可決された。ルーズベルトは、全国産業振興法(NIRA)で労働時間の短縮や最低賃金の確保、農業調整法(AAA)で生産量の調整、民間資源保存団(CCC)による大規模雇用、テネシー川流域開発公社(TVA)等の公共事業による失業対策等を、強力に進めた。これらの一連の政策を、ニューディール政策という。ニューディール政策は、政府は市場に介入せず、経済政策は最低限なものにとどめる自由主義的な経済政策から、政府が積極的に経済に関与する統制主義的な経済政策へと一部転換したものだった。
 1933年に、アメリカの失業率は25.2%という最悪の数字を記録した。だが、ニューディール政策は効果を上げ、37年には14.3%に失業率が下がった。景気も回復の兆しが現れた。しかし、35年には、政策のいくつかに対し、最高裁が違憲判決を出した。また、統制主義的な政策には、反対勢力が根強く存在した。そのため、ルーズベルト政権は、中途半端な形でしか政策を実行できなかった。38年、累積債務の増大を憂う財政均衡論の意見に押されて、政府は連邦支出を削減した。すると、GNPは6.3%減少、純投資はマイナスに転化、失業率は19.1%に跳ね上がって、危機的な状況に陥った。
 この間、ドイツでは、ヒトラーが全体主義的な政策を行って、45%にも達していた失業率を着実に下げ、39年には失業者数を20分の1にまで減らした。アメリカの政治は議会制デモクラシーであり、ルーズベルトは、全権力を掌中にしたヒトラーのようには、大胆な公共投資を行えなかった。
 結局、アメリカが失業問題を解決できたのは、第2次世界大戦が始まってからである。軍需の増加によって初めて完全雇用を実現できたのである。そのうえ、アメリカの工業生産は、戦争中かつてない規模に拡大した。私は、ニューデュール政策は壁にぶつかっていた、だからルーズベルトは大戦に参戦するチャンスを得ようとしていたのだと思う。
 ここで重要なのは、いかに政府が国民の自由と権利を保障しようとしても、経済が安定しなければ、保障をし得ないことである。

●ケインズによる資本主義の変革

 世界恐慌後、欧米各国は失業者であふれた。新古典派経済学の理論は、非自発的な失業を想定しておらず、この事態にまったく対応できなかった。ここで失業の問題に取り組み、新たな経済理論を創出したのがケインズである。
 ケインズは、実際の貨幣の支出に裏付けられた需要を「有効需要」と呼び、社会全体の有効需要の大きさが産出量や雇用量を決定するという「有効需要の原理」を説いた。ケインズはこの原理に基づいて、政府による「総需要管理政策」の理念を打ち出し、経済学に変革をもたらした。経済政策にも大きな変化を与えた。
 ケインズの理論は、経済活動の自由に一定の規制を行い、それによって、自由主義を崩壊から守ろうとする理論である。失業は、国民の労働する権利、生活する権利を実現できない状態である。政府が有効需要を創出して雇用を生み出すことは、労働する権利、生活する権利を国家的に実現しようとするものである。ケインズは、自由放任的な資本主義の欠陥を修正することによって、資本主義の崩壊とそれによる共産主義革命の勃発を防ぐ方法を示した。
 ケインズの理論と政策はイギリスの国策に取り入れられ、またアメリカのニューディール政策に理論的根拠を与えた。経済的自由に一定の規制がかけられた。特に金融に関する規制が行われたことで、投機的な活動が抑制された。英米はケインズ主義によって経済的危機を脱した。共産革命の欧米への波及を防ぎ、またナチス・ドイツとの戦争に勝利することができた。いわば左右の全体主義から自由を守ることに、ケインズは重大な貢献をしたのである。もし人々が個人の自由を優先し、政府による規制を拒否していたら、全体主義から自由を守ることはできなかっただろう。またもし政府が自由放任的な自由の維持に固執していたら、逆に全体主義の支配下に陥り、自由を失っていただろう。自由の無制限の追求は、自由の喪失に結果したかもしれないということである。

 次回に続く。