ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

平成6年の危機~日本は混迷、米朝は対決寸前

2017-11-18 08:54:02 | 時事
 平成6年(1994年)4月、突然、細川護煕首相が退陣しました。殿様が政治に嫌気をさして、政権を投げ出したーーというのが通説ですが、日本新党の旗揚げから細川氏の近くにいた現都知事・小池百合子氏は「細川首相退陣の引き金は『北朝鮮有事』だった」と述べていました。

 麗澤大学教授の八木秀次氏が、このたびあらためて小池氏の見解に注目しています。

 「1994年2月、日米包括協議のために訪米していた細川首相は、米国政府高官からある懸念を告げられた。当時も北朝鮮情勢は『第1次核危機』として緊迫化していたが、朝鮮半島情勢に関する情報を日本と共有するに当たって、細川政権の武村正義官房長官から北朝鮮に情報が流れるのではないかという不安があるというのだ。事実上の更迭を求めるものだった。
 細川首相は帰国後、内閣改造の意向を表明したが、武村氏と社会党の村山富市委員長の猛烈な抵抗にあう。結局、同年4月、細川首相は自ら退陣することとなった。
 この時、細川首相は『北朝鮮が暴発すれば、今の体制では何もできない。ここは私が身を捨てることで、社会党を斬らなければダメなんです。それで地殻変動を起こすしかないんです』と語ったという。」
http://www.sankei.com/politi…/…/171110/plt1711100001-n1.html

 おそらくそういうことがあったのでしょう。

 細川内閣は、非自民連立政権でした。事のきっかけは、平成5年(1993)7月の衆議院総選挙で、自民党は単独過半数に達しなかったことです。55年体制の成立後、自民党は、38年目にして初めて野に下ったのです。ここで、新生党・新党さきがけ・日本新党・社会党・公明党等の8党による非自民連立政権が誕生しました。当時日本新党の代表だった細川氏を首相に担いで、非自民連立政権を実現したのは、小沢一郎氏でした。
 小沢氏は平成元年(1989)、47歳にして自民党の幹事長になり、田中角栄・金丸信の秘蔵っ子として、総裁候補にまで挙がったものの、金丸失脚後、経世会の跡目争いに敗れて自民党を離党し、新生党を結成しました。この時、反小沢の急先鋒だったのが、野中広務氏です。小沢氏は、自民党の崩壊を目指して野党を結集し、非自民連立政権を実現しました。反自民であれば社会党とでも公明党とでも組むというのが、小沢氏の手法でした。

 平成6年(1994年)4月、細川首相が突然の退陣。その後の展開を見るとーー後継首相は小沢氏の盟友、新生党の羽田孜氏となりました。しかし、与党第一党の社会党が連立政権から離脱したため、羽田内閣は少数与党政権に転落し、わずか2ヶ月で総辞職しました。同年6月、自社さ連立による村山内閣が誕生。今度は、自民党が政権返り咲きのために社会党と結託しました。社会党が再び与党になり、左翼政党の委員長が首相になるというとんでもない展開でした。自民党の最高実力者となっていた野中氏は、小沢氏に対抗して社会党と組むという無節操な術策を取ったのです。そのため、自民党は結党の精神を失い、権力の座を維持すること自体を目的とする政治集団に堕落しました。日本の混迷は、底知れないものとなっていました。

 しかも、この時日本の置かれていた状況は、現在(2017年11月)の北朝鮮をめぐる危機に比較されるべき、厳しい状況だったのです。
 平成6年(1994年)当時、アメリカは、ビル・クリントン政権でした。北朝鮮は、昭和63年(1988年)から核開発を行っていた模様で、平成5年(1993年)国際原子力機関(IAEA)による核査察実施を拒否し、核拡散防止条約(NPT)からの離脱を宣言しました。もし国連安保理が制裁に踏み切るなら「戦争行為」と見なすと通告してきました。
 こうしたなか、平成6年2月クリントン=細川日米首脳会談が行われ、北朝鮮有事が協議されました。小池氏が事情を伝えているところです。この教義で、日本はもし朝鮮半島有事になったらなにもできないことが明らかにました。ここで細川首相が4月に退陣したのです。

 日本の政権が揺れ動くなかで、5月、北朝鮮の原子炉から8千本の使用済み燃料棒が取り出されました。そこに含まれるプルトニウムは、5~6個の原爆を製造できる量に相当しました。これに対し、クリントン大統領は、国連安保理で北朝鮮を制裁する動議を出しましたが、北朝鮮は強硬姿勢を変えず、「ソウルを火の海にする」と恫喝してきました。
 クリントンは6月、5万人の米軍兵力と400機の戦闘機を韓国に送り込む計画に着手しました。当時の高官たちは「クリントンは寧辺の核施設を空爆することも辞さない構えだった」と証言しています。第2次朝鮮戦争の危機が高まりました。こういう状況で、わが国では、同月村山を首班とする自社さ連立内閣が樹立されたのですから、当時の日本人の平和ボケは、実に深刻な状態でした。

 クリントンは北朝鮮に圧力をかける一方で、カーター元大統領を北朝鮮に派遣し、交渉を行いました。その話し合いをもとに米朝協議が行われ、戦争の危機は回避されました。
 この年10月、北の核開発の凍結に関する「米朝枠組み合意」が締結されました。しかし、北朝鮮はその後、極秘に核開発を進めていたのです。平成8年(1996年)の時点で、北朝鮮はプルトニウム使用の核爆弾5個を保有していたことが、北の政府高官の証言でわかりました。そして、北の核開発は今日のレベルにまで進んできたのです。

 これはイフの話ですが、当時日本がもっとしっかりしていたらーー北朝鮮への情報漏えい等ーー米国が北朝鮮に侵攻し、核開発施設を叩き潰し、体制に変化をもたらしたかもしれないと思います。今日のような水準にまで北朝鮮の軍事力増強を許してしまってから対応するのは、23年前に比べて、何倍何十倍にも困難な課題になっていると思います。

 補足として、精神科学的な視点で見ると、平成6年4~5月にかけて日本の政治の動揺と軌を一にしたように重大な事件が発生しました。その事件の余波が続くなか、翌年1月関西で阪神淡路大震災、3月東京で地下鉄サリン事件が起こりました。戦後50年の年でした。
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