ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権47~権力の定義

2013-05-31 08:45:09 | 人権
●権力の定義

 権力とは何か。さまざまな学者が権力の定義を行ってきた。最も有名なのは、マックス・ウェーバーによるものである。ウェーバーは、「権力(Macht)とは、ある社会的関係の内部で抵抗を排してまで自己の意志を貫徹するすべての可能性を意味し、この可能性が何に基づくかは問うところではない」(『社会学の根本概念』)と定義した。
 他の定義の多くは、ウェーバーの説の応用というべきものである。例えば、政治学者デイヴィッド・イーストンは「権力とは、ある個人または集団が、自らの目的の方向へと他者の行為を決定できるような関係である」と述べ、権力の主体を「個人または集団」とし、また対象を「他者の行為」とした。主体が意志を貫徹した結果、相手の行為が目的の方向へと決定されると考えられる。ウェーバーが「可能性」と表現したものをイーストンは「関係」ととらえた。社会学者D・H・ロングは「権力とは、他者に対して意図され、また予見された効果を産出し得る能力(capacity)である」とし、ウェーバーが「可能性」をしたものを「能力」へと具体化した。また政治学者ロバート・ダールは、「AはBがさもなければなさなかったであろうことをBになさしめる程度において、Bに対する権力を持つ」と定義し、人間関係に介在する「影響力(influence)」の概念を設定した。私は、権力は関係より能力が妥当だと思う。主体が他者の行為に影響を与える能力である。
 ウェーバー、ロング、イーストン、ダールは、権力を個人の行為や意志や利害といった個人的な側面からとらえている。これに対し、権力を集団的な側面からとらえているのが、社会学者タルコット・パーソンズである。パーソンズは「権力は集合的組織体系の諸単位による拘束的義務の遂行を確保する一般的能力である」とした。パーソンズによると、権力は個人の能力ではなく、集団としての組織の能力である。この能力は、個人に対し、服従ではなく「拘束的義務」を確保する能力である。拘束的義務とは、個人が他者に課す個人的な義務ではなく、集団がその成員に対してその役割に応じて課す義務のことである。パーソンズが権力は集団において強制的であるだけでなく、協同的な働きを持つことを示したことは、重要である。集団の目的を達成するために、成員による協力的行為を確保する能力が、パーソンズにとっての権力である。権力を集団的な側面からとらえるとき、権力は強制的・抑圧的な働きを持つだけでなく、協力的・結束的な働きを持つことが理解できよう。
 上記の諸定義をまとめるならば、権力は、他者または他集団との関係において、協力または強制によって、自らの意思に沿った行為をさせる能力であり、またその影響の作用といえよう。私は、その定義を了解しつつ、ここに権利との関係を加えるべきだと考える。権力の概念の前提には権利の概念があり、個人または集団の関係において、権利の相互作用を力の観念でとらえたものが、権力であるというのが、私の見解である。権利と権力の関係を抜きにして、権力を理解することはできない。そして、人権論において、権力の検討が不可欠なのは、権力とは権利の相互作用を力の観念で表したものだからである。この点は、後に改めて詳しく述べる。

●権力のマクロ分析とミクロ分析

 権力論は、主に国家権力・政治権力を想定し、それを論じるものが多かった。しかし、権力は権利の相互作用を力の観念でとらえたものと考えると、政治的国家的な権力だけでなく、人間関係の様々な場面に権力は発生し、機能しているものと理解できる。私は権利の項目で家族から氏族・部族・組合・団体・社団等について述べたが、権力は集団の諸階層における様々な権利の作用として働いていると考えられる。
 この点で画期的な研究をしたのが、20世紀後半西欧屈指の哲学者ミシェル・フーコーである。フーコーは、「単に、国家権力というのではなく、様々な諸制度の中で行使されている権力が問題である」と言い、彼以前の権力論が主に国家権力・政治権力の分析を主としていたのに対し、社会の様々な関係における権力を分析した。前者を権力のマクロ分析とすれば、フーコーは権力のミクロ分析を行った。
 フーコーは、『性の歴史』の第1巻『知への意志』で、次のように権力(pouvoir)を考察した。
 権力は、無数の点から出発し、揺れ動く関係の中で機能する。あらゆる社会現象の中に、権力関係が存在する。社会の末端にある家族や小集団などで生み出される力の関係が、権力関係の基盤となっている。権力を振るうのは、特定の個人や指導者ではない。その時々の関係の中で生み出された作用によって権力が振るわれる。権力への抵抗は、権力の外部にあるのではなく、内部に不規則に出現する。権力は、この抵抗を完全に排除できない。従って、この抵抗の点が戦略的に結び付けられ、網の目のような権力関係が崩れた時に、革命が生ずる、と。
 フーコーは、あらゆる人間関係において「無数の力関係」が存在するとして、家族・学校・病院・団体等、社会のあらゆる集団を分析の対象とした。マクロ的な権力はミクロ的な権力に基づき、これに「根差しつつこれを利用するもの」であることを指摘した。フーコーの見方は、権力を権利との関係からとらえる私にとっても、画期的なものといえる。ただし、フーコー自身は、権力を権利との関係で把握してはいない。
 第1部の人間とは何かの項目に書いたように、私は、人間とは集団生活を行う動物であり、特に家族を構成することに特徴があると考える。そして、家族から氏族・部族・組合・団体・社団等の集団の各階層における権利の分析が、権力の分析の前提になければならず、またそれが国家権力・政治権力の分析の基礎となると考える。フーコーについては、本章の最後にあらためて書くこととし、以下権力の検討を行う。

 次回に続く。

■追記

本項を含む拙稿「人権ーーその起源と目標」第1部は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i.htm

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2 コメント

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Unknown (通りすがり)
2021-07-16 22:45:56
ほそかわさん、この箇所は、ほとんどが盛山和夫先生の『社会科学の理論とモデル「権力」』からの引用、要約の文章ですが、それと示さず、さも自分の文章のように示していますね。これは著作権の侵害ではないでしょうか。
おそらく他の部分でも、そうなのでは?物書きなら基本的なルールを守ってください。
>通りすがりさん (ほそかわ)
2021-07-17 09:45:48
コメントを頂き有難うございます。前半の項目は、盛山和夫氏の著書『社会科学の理論とモデル3 権力』(岩波書店)に多くを負っています。この日の掲示文の前後に人権・自由・権利・権力等について書きましたが、特に権力と権利の関係を考察して自分の見解を書きました。参考資料は多数に上るので、本稿全体の最後にまとめて掲載しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i-4.htm

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