ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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カント14~人間の尊厳

2013-09-04 09:28:35 | 人間観
●人間の尊厳

 意志の自由を持つ人間は、物件ではなく人格として扱われなければならない、とカントは説く。人は自分を「自分自身の理性が自らに課する義務を身に負っている一個の人格」とみなさねばならないともいう。カントによれば、人間らしさ、すなわち人間性は、理性に従う意志の自由に基づく人格にある。人間性を「善い意志」とも言っている。
 「人格として見た人間、すなわち道徳的な実践理性の主体たる人間は、一切の価格を越えて尊いものである」とカントは述べる。価格とは、物件の商品としての値段をいうものである。「人間には尊厳が備わっている」とカントは説く。尊厳とは、絶対的内的価値をいう。マルクスであれば、資本主義社会では、人間は疎外され、労働者は労働力商品となっているというだろう。労働力商品ではあっても、人間には道徳的な主体性があり、尊厳があるというのが、カント的な考え方である。
 人権の思想を世界的なものとした世界人権宣言は、第1条に「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」と記す。また「宣言」を具体化した国際人権規約は、人権を「人間の固有の尊厳」に由来するものとしている。ここに人間の尊厳は、人類共通の思想となった。だが、では、なぜ人間には尊厳、言い換えれば価値があるのか。世界人権宣言も国際人権規約も、人間の尊厳を謳いながら、その尊厳について具体的に書いていない。
 人間の尊厳という観念の背景には、キリスト教がある。ユダヤ=キリスト教の教義は、人間は神(ヤーウェ)が創造したものであると教える。神が偉大であるゆえに、神の被造物である人間は尊厳を持つ。しかも、人間は神の似姿として造られたとされる。人間は他の生物とは異なる存在であり、地上のすべてを支配すべきものとされる。ユダヤ教から生まれたキリスト教は、ローマ帝国の国教となり、近代西洋文明の一要素となった。人間の尊厳という観念は、キリスト教の神学に、受け継がれてきた。
 この観念が非キリスト教社会に受け入れられるものとなったのは、カントの哲学によるところが大きい。カントは、科学と道徳の両立を図って、宗教の独自性を認め、科学的理性的な認識の範囲と限界を定めつつ、神・霊魂・来世という形而上的なものを志向する人間の人間性を肯定し、理性に従って道徳的な実践を行う自由で自律的な人格を持つ者としての人間の尊厳を説いた。このようにカントは、人間の尊厳を伝統的なキリスト教の教義から離れて、近代的な哲学によって意味づけ直した。それによって、人間の尊厳という観念は、世俗化の進む西欧社会でも維持され、同時に非キリスト教社会にも伝播し得るものとなった。その観念は、今も世界に広まりつつある。しかし、カントにおいては、人間の尊厳の裏付けに心霊論的信条があったことが見落とされている。今日、人間の尊厳を基礎づけ直すには、カント哲学を再検討しつつ心霊論的人間観を確立することが必要である。

●「目的の国」

 カントは、人間は「どのような人によっても、他人によっても、自分自身によってさえも、単に手段として利用されることはできず、つねに同時に目的として用いられねばならない」「この点にこそまさに人間の尊厳がある」と説いた。(『人倫の形而上学の基礎づけ』)
 人間は、個人個人が尊厳を備えている。個人は、何かの目的を実現するために、単に手段とされてはならない。その実現すべき目的そのものでなければならない。だが、また単に目的とされるのではなく、互いがその目的を実現する手段となって、協力し合わなければならない。
 カントは、すべての人が人格的存在として尊敬され、単に手段ではなく、目的とされる社会を「目的の国」と名付けた。「目的の国」は、自由で自律的な人格の共同体であり、市民社会のあるべき姿である。カントにおいては、ホッブス、ロックと同様、市民社会は国家と同義であるので、「目的の国」は、カントの提示した国家の目標である。個々人が理性の道徳的な命令に服し、自己の格率が普遍的な道徳法則と一致するように行為する国家が、カントの理想国家である。この国家は、単に自由・平等な独立した個人の集合体ではない。人々が協同的に道徳的な実践を行う共同体である。トランスパーソナル学的には、人々が相互的・共助的に自己実現・自己超越を行うサイナジックな社会と言えるだろう。
 なお、カントは、国家の起源については、基本的には社会契約論に立っている。ただし、社会契約を歴史的事実ではなく、「理念」としている。契約をしたという事実がないのに契約論を採るとすれば、理念とするしかないだろう。
 カントは、ルソーから人間を尊敬することを学んだ。ルソーは、自由な人格をもつ自律的人間の形づくる国家を理想とした。カントはこの理想を道徳的に掘り下げた。ルソーは人民主権を説いたが、一般意志が常に正しいと言えるには「公衆の啓蒙」が不可欠であり、一人一人が自らの意思を理性に一致させるようにすることによって、はじめて一般意志を論じ得るとした。カントは、「目的の国」を地上に建設するため、人々に理性に従って普遍的な道徳法則と一致するように実践するように説いた。それは、必然的法則に支配された自然界に、自由を実現することである。カントは、自然とは感官の対象の総体とするが、後に述べるようにカントは自然に合目的性のあることも認めており、自然界において自由を実現することが可能だとした。またカントは自然の一切は人間の文化のために存在するとし、文化は道徳の準備であり、自然の究極の目的は道徳的な人間を出現させることだと考えた。この自然は単に感性的な自然ではない。その点については、永遠平和に関する項目に書く。
 カントは、上記のような道徳哲学を構築するとともに、キリスト教を啓示宗教から道徳的な宗教へと純化、改善することを試みた。ルソーは、人民主権の国家には新しい市民的宗教が必要だと説いたが、カントは「目的の国」における、あるべき理性宗教の姿を示そうとしたのだろう。私は、その理性宗教は、心霊論的信条に基づくものだったと理解する。「目的の国」は、感性界・現象界で完結するものではなく、超感性界・叡智界につながっている社会だからである。それは、カントにおける人間は、感性的であると同時に超感性的であり、市民社会の一員であると同時に、霊的共同体の構成員として考えられていたことから明らかである。
 現代日本屈指の哲学者・和辻哲郎は、主著『倫理学』で、人間は個人性と社会性を持つ間柄的存在だとし、そうした人間の共同態である「人倫的組織」を考察し、国家・人類の目標を示した。和辻は自らの倫理学を構築する過程で、『人間の学としての倫理学』において、カントの人間学を検討した。そこで「目的の国」について述べている。
 和辻によると、カントは人間を「経験的・可想的の二重性格」を持つものとし、それによって「手段的・目的的な二重性格」をとらえており、人間を個別性と全体性において把捉してはいる。だが、カントはそれを自覚し、あらわには説いていないと和辻は指摘する。和辻によると、我と汝が互いに手段となり、目的となり合う関係は、「手段となる側からは自他は差別的であり、目的となる側からは自他は不二」である。カントには18世紀西欧の個人主義の傾向があるため、「本体人としての無差別性を人間の全体性として把握する」ことが、充分遂行できていないと指摘した。ここで本体人とは叡智的存在者のことであり、無差別性とは自他不二性である。和辻は、このようにカントを批評するのだが、カントの心霊論的信条についての考察を欠いている。少なくとも明示的には考察していない。和辻の倫理学は、人間の個人的・社会的の二重性格を具体的に解明した点で優れたものだが、目標とされる「人倫的組織」は、カントの「目的の国」が有する感性的かつ超感性的な二重性格を持っていない。
 和辻は、人倫的組織を家族、親族、地縁共同体、経済的組織、文化共同体、国家の6つに分けて考察し、「確固たる人倫体」を形成した諸国民が「諸国民間の人倫的組織としての世界国家」を形成するという世界の将来像を提示した。そこにはカントの永遠平和論の影響が見られる。カントの永遠平和論は、和辻を一例として現代にまで広く影響を与えている。次項はその点について書く。

 次回に続く。

関連掲示
・拙稿「日本的倫理は世界的人倫実現の鍵~和辻哲郎(1)」「風土と文明と民族の心~和辻哲郎(2)」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/j-mind11.htm
 目次から30~31へ

■追記

 上記の掲示文を含む拙稿の全体を次のページに掲載しています。
 「カントの哲学と心霊論的人間観」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion11c.htm
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