ほそかわ・かずひこの BLOG

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キリスト教145~ヤスパース:キリスト教を超える包括者への信仰

2019-01-10 09:33:20 | 心と宗教
●ヤスパース~キリスト教を超える包括者への信仰

 カール・ヤスパースは、1883年にドイツに生まれた。「実存哲学」の哲学者として、ハイデッガーと並び称される。また、その哲学をもとに人類の歴史を把握し、人類の未来について多くの提言をした。
 ヤスパースは、最初は精神病理学者として活躍したが、哲学に転じ、1921年にハイデルベルク大学の哲学教授となった。この年、バルトが『ローマ書講解』第2版を出し、27年にはハイデッガーが『存在と時間』を出した。この二人はキルケゴールとニーチェの思想に触れ、近代西欧の危機を深く感じ取っていた。ヤスパースは1931年に『現代の精神的状況』を出して、機械文明と大衆社会の中に埋没して自己を喪失している現代人を批判し、32年に『哲学』で実存哲学を提示した。ヤスパースによると、人間には、自己の力ではどうすることもできない状況、人間を限界づけている普遍的状況として、死ぬこと、苦悩、争い、罪を犯すことがある。これを限界状況と呼ぶ。人間は限界状況に直面し、自己の有限性を知ったとき、超越者と出会い、実存へと目覚める機会が与えられる。
 実存は、伝統的なキリスト教の神学において、本質と対をなす概念である。本質(エッセンシア)とは、そのものが「何であるか」という定義によっていわれるものである。実存(エクステンシア)とは、現実的な存在を意味し、可能的な本質が現実化したものである。言い換えれば、本質とは、「あるものが何であるか」と問う時の「何」のことをいい、実存とは、「何かとして存在すること」をいう。これに対し、ヤスパースの実存は、人間存在を意味し、個としての自己に真に目覚めた人間のあり方をいう。ヤスパースは、実存を「決して客観となることのないもの」、「私がそれに基づいて思考し行動する根源」、「自己自身に関わり、かつ、そのことのうちで超越者に関わるもの」と規定している。そうした実存をヤスパースは、自己「暗黒の根拠」ともいう。しかし、実存は、それだけで自立的に存在する根拠ではない。実存はさらに「一なる超越者」によって支持されているとし、自らが超越者への帰依の関係にあることを真に自覚する時に、実存はいわば初めて実存するのだ、とヤスパースは説く。
 ここで実存が関わる超越者とは、キリスト教の超越神がまず連想されよう。だが、ヤスパースの超越者は、聖書に書かれた神と同一ではない。哲学的な思考によって認識された存在である。ヤスパースは、そうした超越者を包括者とも呼ぶ。包括者とは、主観・客観に分裂する前の超越的な全体性であり、われわれがそれを確認しようとすると主客に分裂し、「存在そのものである包括者」と「われわれがそれである包括者」になる、とヤスパースは言う。ここには、主観・客観の二項図式によって自己と世界を認識するデカルト以来の西洋近代思想への掘り下げが見られる。ヤスパースは包括者を神とは呼ばないが、これを神と呼ぶならば、彼の思想は一種の万有在神論である。
 ヤスパースは、こうした実存の哲学を、キルケゴールとニーチェの思想の研究を通じて構築した。その際、カントの批判哲学における理性の立場を継承している。著書『理性と実存』で、ヤスパースは次のように説く。「実存はただ理性によってのみ明るくなり、理性はただ実存によってのみ内実を得る」と。ヤスパースが説く理性とは、実存の自覚を組織化し、統合し、集約していく「統一への意志」であり、実存に無限の自省を促すものである。また「無限の公開性」であり、「総体的な交わりへの意志」であるとされる。彼における理性は、神の理性を分有したものでも、個人の自律的な認識能力でもなく、他者との交わりにおいてのみ発揮される意志である。そして、ヤスパースは、他者との交わりによってのみ真理が得られると説いている。このように、個としての自己に真に目覚めた人間のあり方とされる実存を、理性との関係、及び他者との交わりの中でとらえるところに、ヤスパースの哲学の一つの特徴がある。
 ヤスパースは、聖書に基づく啓示信仰に対し、自分の信仰を「哲学的信仰」と呼ぶ。彼によると、人間は今日、共通の信仰を内容とする伝統的な支えを失っている。それだけに、われわれは伝統によって与えられた信仰よりもいっそう深い信仰の根源、つまり歴史のうちに現われたあらゆる信仰がすべてそこから発している根源に、その気さえあればたちかえることができる。人間によって生み出された神の表象は、いずれも神そのものではない。だが、また、神性はそうした表象を介してのみ、われわれに意識される。神性は根源であり、目標であり、安らぎであって、ここに人間の庇護がある。人間が人間であることをやめない限り、こうした存在が人間から見失われるということは考えられない。人間への信仰は、むしろ人間の存在の根拠である神性への信仰を前提とする。また人間への信仰は、人間相互の真の交わりが可能であるという信仰であって、その場合、真の交わりとは、単なる接触や共感や利害の共通より以上のものである。
 このように考えるヤスパースの信仰は、聖書に基づく啓示信仰とは、一線を画する。特定の宗教やその教義に関わる信仰ではなく、宗教と無神論の間の立つ哲学的信仰である。それは、人間の心を常にあらゆる可能性に向かって開放し、その中で絶えず真理を求めていく生き方である。
 1930~40年代ナチスが支配するドイツにおいて、ヤスパ―スは、夫人がユダヤ人であることから、大学の職を追われた。苦難と試練の中で、彼はその思索を続けた。第2次世界大戦の終結後、ヤスパースは1949年に『歴史の起源と目標』を刊行し、世界史に基軸時代を想定する独自の歴史哲学を提示した。彼が想定した基軸時代は、イエス=キリストが出現する以前の紀元前800年と前200年の間であり、シナの老子・孔子、インドの釈迦、イランのゾロアスター、パレスチナのエリヤなどの預言者、ギリシャのプラトン等を輩出した時代である。ヤスパースによると、この時代には、シナ、インド、西洋の三つの世界に共通の体験として、「人間が、存在の全体と自己自身と自己の限界とを自覚するに至った」、また「私たちが今日まで物を考えるときの根本カテゴリー」が現れた。また「世界宗教の端緒が創り出され」「あらゆる意味において、普遍的なものへの歩みがなされた」。要するに、人類の「精神化」が起こったとする。
 ヤスパースにとって、現代は、世界史の「第一の基軸時代」と、来るべき「第二の基軸時代」の間にある時代である。この時代は、科学と技術に支配された時代であり、大衆化とニヒリズムが進行する時代である。こうした現代において、世界史の新しい基軸時代は、現れ得るのだろうか。ヤスパースに確固とした答えは見出せず、模索と課題の中で、呻吟している。その呻吟のなかから、「未来への問い」として、さまざまな意見を述べている。その意見の一つに「信仰と愛」についての意見がある。
 ヤスパースは「人間は信仰なしに生きることはない」と言う。そして、人間は、自己と、その「自己を贈り届けてくれた超越者」と、他者と、世界のなかの開かれた諸可能性とに対する、深い信頼と信念と確信を持つことなしには、この世を生き抜くことはできないのだ、と。そして、人間の「深い存在意識」は「愛」の心となって表れるだろうと説く。「愛」のうちから「存在の内実」が顕わとなり、「愛」の深みの中で「真理」も立ち現れるとヤスパースは述べている。こうした「信仰と愛」のうちからのみ、人類の未来は開かれると、ヤスパースはその信念を明らかにしている。これは、諸宗教の根源、生命の本源、人間存在の根拠でもある超越的存在への信仰と、人類の同胞愛を訴えるものと理解される。詳しくは、拙稿「ヤスパースの『新基軸時代』と日本の役割」をご参照願いたい。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion11b.htm
 ヤスパースは、こうした哲学と歴史観を以て、戦後ドイツのあり方や世界平和の実現に関して、積極的に発言を続け、1969年に亡くなった。キリスト教が現代世界で自らを向上・発展させようと意志するならば、彼の思想と提言には、深く傾聴すべきものがあるだろう。

 次回に続く。
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