ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

「日本精神」こそ世界の指針1

2006-05-13 09:47:31 | 日本精神
 PHP研究所が出している月刊誌「VOICE」の5月号に、「『日本精神』こそ世界の指針」という前台湾総統・李登輝氏の寄稿が載った。
 導入部で、李氏は「武士道とは人類最高の指導理念」と書いている。この導入部は、平成14年11月、日本政府が許可しなかったため実現しなかった慶応大学での講演のために書かれた原稿とほとんど同じ内容である。
 その原稿については、別の拙稿で紹介したことがある。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion04b.htm

 李氏の言わんとすることを要約で示すと、「日本および日本人特有の精神」とは「大和魂あるいは武士道」である、「グローバライゼイションの時代」に「武士道という最高の道徳規範」を持っている日本人は、ゆるぎない経済活動を行なえる、この道徳規範は「日本人だけでなく、世界にとってもきわめて貴重な財産」である、現在世界には「各地において危険な動きが増大」しており、「世界同時不況の予兆」も高まっている、このような危機的状況を乗り切っていく「精神的指針」として武士道を挙げたい、武士道とは「人類最高の指導理念」である、しかし「世界がいま最も頼りとするべき日本では、武士道も大和魂も1945年の終戦以降は、ほとんど見向きもされず、足蹴にされてきた」、今日の日本の諸問題は「戦後の自虐的価値観と決して無関係ではない」、武士道の否定は「日本人にとっては大きな打撃だった」し、同時に「世界の人々にとっても大きな損失であった」、と李氏は書いている。

 今回の寄稿記事は、こうした前置きに続いて、新たな内容を書いている。それを次に、見てみたい。
 「武士道とは日本人の精神であり、道徳規範である」と述べる李登輝氏は、「それはたんに精神、生き方であるだけでなく、日本人の心情、気質、美意識であるといってよいと思います。さらにいえば、勇気や決断力の源泉になるものであり、そして生と死を見つめる美学、哲学であるともいえます」という。
 李氏は戦前、日本統治下の台湾で教育を受けた。「当時の日本の教育システムはじつに素晴らしいもので、古今東西の先哲の書物や言葉に接する機会を、私たちにふんだんに与えてくれるものでした」といい、「『人間はどのように生きるべきか』という哲学的命題から『公』と『私』の関係についての指針が明確に教えられていました」と書いている。
 こうした日本の教育は、教育勅語に盛られた理念・道徳に基づくものだった。教育勅語の内容を具体的に教えたのが、「修身」という科目であり、「修身」は、李氏の言う「『人間はどのように生きるべきか』という哲学的命題から『公』と『私』の関係についての指針」を「明確」に教えるものだった。李氏はこのことには、触れていない。

 李氏が述べるのは、このような教育を受ける中で出会ったという新渡戸稲造の著書『武士道』である。そして、李氏は、本書を通じて日本精神を理解している。李氏のとらえる日本精神は、そのかなりの部分を、本書によっている。そこに特徴と傾向が出ている。
 さて、李氏は、「世界に誇る日本精神の結晶というべき『武士道』」について、新渡戸の論を次のように理解している。武士道の形成は、「日本で営々と積み上げられてきた歴史、伝統、風俗、習慣があったからこそ」であり、儒教の影響も挙げられるが、「中国文化の影響を受ける以前からの、大和民族固有のもの」である、と。
 そして、李氏は、「彼(新渡戸)によって再発見された『武士道』は、日本人の“不言実行あるのみ”の美徳であり、『公』と『私』を明確に分離した『公に奉じる精神』といってもよいでしょう。もちろんそれは中国文化とはまったく異質なものです」と述べる。

 台湾において、日本人の統治とシナ人の統治、日本の文化とシナの文化、日本の精神とシナの精神の違いを、身をもって理解してきた李氏ならでは、視点だと思う。日本人の多くは、書物を通じてシナの思想を日本的に翻訳して理解している。だから、日本人が理解しているシナの思想は、日本人流の理解であり、日本の文化・精神とシナの文化・精神の違いは、強い対比になっていない。だから台湾人である李氏の比較文化的な発言は、貴重なのである。
 さて、李氏は、さきほどの引用に続けて、次のように書いている。「ここで注目すべきことは、この『武士道』には教義も成文法もないということです。あるものといえば、有名な武士や学者のわずかな格言などだけなのですが、これはいったい何を意味しているかといえば、それほどまでに『武士道』が、日本人の血となり肉となって定着していたということでしょう」と。
 この発言は、大意はよいが、「教義も成文法もない」「わずかな格言などだけ」という文言は、少し誤解を生むかもしれない。

 武士は、成文法として『御成敗式目』という日本独自の武家法をつくった。それが江戸時代まで教養の一つともされ、寺子屋などでも使われた。また武士道は宗教ではないので教義ではないが、例えば、江戸時代に広く学習された山鹿素行の『武教全書』など「わずかな格言だけ」どころか、体系的な理論かつ実践の書であり、簡単に読み通せないほどの量の文書である。
 それゆえ、李登輝氏が、武士道には「教義も成文法もない」「わずかな格言などだけ」と言うのは、誤解を生じやすい点ではある。それはともかく、武士道が単なる知識・教養ではなく、「日本人の血となり肉となって定着していた」という大意は、李氏のいうとおりである。
 そして、武士道は「日本人の血となり肉となって定着していた」ととらえる李氏は、次のように言う。「そうであるからこそ私は、終戦後における日本人の、価値観の百八十度の転換を非常に前年に思うのです。今日の日本人は一刻も早く戦後の自虐的価値観から解放されなければならないと思うのです。
 そのためには日本人はもっと自信をもつことです。かつて武士道という不文律を築き上げてきた民族の血を引いていることを誇るべきなのです。そうすることで初めて、日本は世界のリーダーとしての役割を担うことができるのです」と。

 次回に続く。

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