2月25~26日の日記に、「嵌められた日本~張作霖事件」の1・2を書いた。本日は、その続きである。
1・2に書いたように、ユン・チアンとジョン・ハリディの共著『マオーー誰も知らなかった毛沢東』(講談社)は、張作霖爆殺事件について衝撃的な新設を紹介している。すなわち、爆殺はソ連のGRUが行い、日本軍の仕業に見せかけたものだ、と。同書はその根拠として、ドミトリー・プロホロフとアレクサンドル・コルパキジの共著『GRU帝国』及びイワン・ヴィナロフ著の『秘密戦の戦士』を挙げている。この『マオ』の記述に注目したのが、中西輝政・京都大学教授である。
にわかに、張作霖事件の見直しが行われつつある。あの東京裁判で、パル判事が「神秘の幕に覆われたまま」と記した、なぞめいた事件が。
月刊『正論』平成18年4月号は、『GRU帝国』の著者の一人、プロホロフにインタビューを行った記事を載せた。「『張作霖爆殺はソ連の謀略』と断言するこれだけの根拠」という記事だ。インタビュアーは、産経新聞モスクワ支局長・内藤泰朗氏である。
この記事によると、プロホロフは、「ソ連・ロシアの特務機関の活動を専門分野とする歴史研究家」である。
プロホロフは、内藤氏に対し、自分は旧ソ連共産党や特務機関に保管されたこれまで未公開の秘密文書を根拠としているわけではないと断ったうえで、ソ連時代に出版された軍指導部の追想録やインタビュー記事、ソ連崩壊後に公開された公文書などを総合した結果、「張作霖の爆殺は、ソ連の特務機関が行ったのはほぼ間違いない」と断定したという。
以下、このインタビューで、プロホロフが語った内容を要約して記したい。
張作霖は大正13年(1924)に、ソ連と中国東北鉄道条約を締結し、鉄道の共同経営を行った。しかし、張は鉄道使用代金の未払いを続け、その額が膨らんでいた。大正15年(1926)、ソ連がこれに抗議して、鉄道の使用禁止を通達した。張作霖軍はこれに反発し、鉄道を実力で占拠して、実権を握った。
こうした張の反ソ的な姿勢に対し、スターリンのソ連政府は、張作霖の暗殺を、軍特務機関のフリストフォル・サルヌイン(註 サルーニンとも書く)に命じた。サルヌインは暗殺計画を立案し、特務機関のレオニード・ブルラコフが協力した。
彼らは、同年9月、奉天にある張作霖の宮殿に地雷を敷設して、爆殺する計画を立てた。しかし、張作霖の特務機関にブルラコフらが逮捕され、第1回目の暗殺計画は、失敗に終わった。
その後、張作霖は、モスクワに対してあからさまな敵対的行動に出始めた。昭和2年(1927)4月には、北京のソ連総領事館に強制捜査を行い、暗号表や工作員リスト、モスクワからの指示書等を押収した。中国共産党に対しても、共産党員を多数逮捕するなど、共産主義に対する弾圧を行った。また、亡命ロシア人や土匪部隊を仕向けて、ソ連領を侵犯させるなどしていた。
その一方、張作霖は、昭和3年(1928)、日本側と交渉を始め、日本政府の支持を得て、中国東北部に反共・反ソの独立した満洲共和国を創設しようと画策した。この動きは、ソ連合同国家保安部の諜報員、ナウム・エイチンゴン(註 エイティンゴンとも書く)がモスクワに知らせた。
クレムリンには、日本と張作霖の交渉は、ソ連の極東方面の国境に対する直接的な脅威であると映った。スターリンは再び、張作霖の暗殺を実行に移す決定を下した。暗殺計画の立案とその実行には、エイチンゴンとサルヌインが任命された。
サルヌインは、昭和2年(1927)から上海で非合法工作員のとりまとめ役を行っていたが、満洲においてもロシア人や中国人の工作員を多く抱えていた。暗殺の疑惑が、日本に向けられるよう仕向けることが重要だった。
昭和3年(1928)6月4日夜、張作霖が北京から奉天に向かう列車は、奉天郊外で爆破された。重症を負った張は、その後、死亡した。
しかしながら、張作霖の暗殺は、ソ連政府の望んだような結果をもたらさなかった。父の後を継ぐ張学良は、蒋介石と協力し、南京政府を承認した。また、張の軍はソ連軍と武力衝突した。一方、日本は、張作霖の死後、中国北部地方の支配力を失った。しかし、昭和6年(1931)、関東軍が満洲事変を起こし、翌7年、満洲国を建設した。これによって、ソ連は、東北三省での立脚地を失った。
東京裁判では、元陸軍省兵務局長の田中隆吉が証言した。「河本大佐の計画で実行された」「爆破を行ったのは、京城工兵第20連隊の一部の将校と下士官十数名」「使った爆薬は、工兵隊のダイナマイト200個」などと証言した。
しかし、日本では、東京裁判後の1940年代後半、日本には張作霖を暗殺する理由がまったくなく、暗殺には関与していないという声があがった。田中隆吉は、敗戦後、ソ連に抑留されていた際、ソ連国家保安省に取り込まれ、裁判ではソ連側に都合のいいように準備され、翻訳された文書をそのまま証言させられていた。
以上が、プロホロフがインタビューで語った内容の要約である。
インタビューの最後で、プロホロフは、次のように語ったという。
「当時の中華民国は、北京に軍政府を組織していた張作霖が代表しており、日本の満洲での租借権益も張作霖を通じて維持されていた。その頃の日本の方針は、満洲の張作霖政権を育成、援助し、日本の満洲権益を守らせることだった。関東軍の暴走では説明しづらいものがあるのだ。どう考えても、日本が張作霖暗殺に手を染める理由は、ソ連以上にはない」と。
プロホロフの談に対し、彼の著書『GRU帝国』から、若干の記述を補っておく。
昭和2~3年(1927-28)当時、GRUの中国における活動の中心は上海にあった。その組織には表の合法機関とは別に、非合法の諜報組織があった。後者は昭和2年に着任したサルヌインが長をしていた。サルヌインの部下に、ヴィナロフがいた。
『マオ』は、ヴィナロフが、張作霖の爆殺された列車の写真を「自分が撮った」というキャプション付きで自著『秘密戦の戦士』に掲げていることをもって、張作霖爆殺はGRUの仕業という間接的証拠としている。ヴィナロフはサルヌインの部下であったことが、重要である。
また、エンチンゴンは、張作霖暗殺計画の遂行のために、GRU本部からサルヌインのもとへ差し向けられていた諜報部員だった。GRUが張作霖暗殺に力を入れていたことがわかる。
プロホロフの説は衝撃的である。とはいえ、どの程度の妥当性を持つのか。その検討を次回行いたい。
1・2に書いたように、ユン・チアンとジョン・ハリディの共著『マオーー誰も知らなかった毛沢東』(講談社)は、張作霖爆殺事件について衝撃的な新設を紹介している。すなわち、爆殺はソ連のGRUが行い、日本軍の仕業に見せかけたものだ、と。同書はその根拠として、ドミトリー・プロホロフとアレクサンドル・コルパキジの共著『GRU帝国』及びイワン・ヴィナロフ著の『秘密戦の戦士』を挙げている。この『マオ』の記述に注目したのが、中西輝政・京都大学教授である。
にわかに、張作霖事件の見直しが行われつつある。あの東京裁判で、パル判事が「神秘の幕に覆われたまま」と記した、なぞめいた事件が。
月刊『正論』平成18年4月号は、『GRU帝国』の著者の一人、プロホロフにインタビューを行った記事を載せた。「『張作霖爆殺はソ連の謀略』と断言するこれだけの根拠」という記事だ。インタビュアーは、産経新聞モスクワ支局長・内藤泰朗氏である。
この記事によると、プロホロフは、「ソ連・ロシアの特務機関の活動を専門分野とする歴史研究家」である。
プロホロフは、内藤氏に対し、自分は旧ソ連共産党や特務機関に保管されたこれまで未公開の秘密文書を根拠としているわけではないと断ったうえで、ソ連時代に出版された軍指導部の追想録やインタビュー記事、ソ連崩壊後に公開された公文書などを総合した結果、「張作霖の爆殺は、ソ連の特務機関が行ったのはほぼ間違いない」と断定したという。
以下、このインタビューで、プロホロフが語った内容を要約して記したい。
張作霖は大正13年(1924)に、ソ連と中国東北鉄道条約を締結し、鉄道の共同経営を行った。しかし、張は鉄道使用代金の未払いを続け、その額が膨らんでいた。大正15年(1926)、ソ連がこれに抗議して、鉄道の使用禁止を通達した。張作霖軍はこれに反発し、鉄道を実力で占拠して、実権を握った。
こうした張の反ソ的な姿勢に対し、スターリンのソ連政府は、張作霖の暗殺を、軍特務機関のフリストフォル・サルヌイン(註 サルーニンとも書く)に命じた。サルヌインは暗殺計画を立案し、特務機関のレオニード・ブルラコフが協力した。
彼らは、同年9月、奉天にある張作霖の宮殿に地雷を敷設して、爆殺する計画を立てた。しかし、張作霖の特務機関にブルラコフらが逮捕され、第1回目の暗殺計画は、失敗に終わった。
その後、張作霖は、モスクワに対してあからさまな敵対的行動に出始めた。昭和2年(1927)4月には、北京のソ連総領事館に強制捜査を行い、暗号表や工作員リスト、モスクワからの指示書等を押収した。中国共産党に対しても、共産党員を多数逮捕するなど、共産主義に対する弾圧を行った。また、亡命ロシア人や土匪部隊を仕向けて、ソ連領を侵犯させるなどしていた。
その一方、張作霖は、昭和3年(1928)、日本側と交渉を始め、日本政府の支持を得て、中国東北部に反共・反ソの独立した満洲共和国を創設しようと画策した。この動きは、ソ連合同国家保安部の諜報員、ナウム・エイチンゴン(註 エイティンゴンとも書く)がモスクワに知らせた。
クレムリンには、日本と張作霖の交渉は、ソ連の極東方面の国境に対する直接的な脅威であると映った。スターリンは再び、張作霖の暗殺を実行に移す決定を下した。暗殺計画の立案とその実行には、エイチンゴンとサルヌインが任命された。
サルヌインは、昭和2年(1927)から上海で非合法工作員のとりまとめ役を行っていたが、満洲においてもロシア人や中国人の工作員を多く抱えていた。暗殺の疑惑が、日本に向けられるよう仕向けることが重要だった。
昭和3年(1928)6月4日夜、張作霖が北京から奉天に向かう列車は、奉天郊外で爆破された。重症を負った張は、その後、死亡した。
しかしながら、張作霖の暗殺は、ソ連政府の望んだような結果をもたらさなかった。父の後を継ぐ張学良は、蒋介石と協力し、南京政府を承認した。また、張の軍はソ連軍と武力衝突した。一方、日本は、張作霖の死後、中国北部地方の支配力を失った。しかし、昭和6年(1931)、関東軍が満洲事変を起こし、翌7年、満洲国を建設した。これによって、ソ連は、東北三省での立脚地を失った。
東京裁判では、元陸軍省兵務局長の田中隆吉が証言した。「河本大佐の計画で実行された」「爆破を行ったのは、京城工兵第20連隊の一部の将校と下士官十数名」「使った爆薬は、工兵隊のダイナマイト200個」などと証言した。
しかし、日本では、東京裁判後の1940年代後半、日本には張作霖を暗殺する理由がまったくなく、暗殺には関与していないという声があがった。田中隆吉は、敗戦後、ソ連に抑留されていた際、ソ連国家保安省に取り込まれ、裁判ではソ連側に都合のいいように準備され、翻訳された文書をそのまま証言させられていた。
以上が、プロホロフがインタビューで語った内容の要約である。
インタビューの最後で、プロホロフは、次のように語ったという。
「当時の中華民国は、北京に軍政府を組織していた張作霖が代表しており、日本の満洲での租借権益も張作霖を通じて維持されていた。その頃の日本の方針は、満洲の張作霖政権を育成、援助し、日本の満洲権益を守らせることだった。関東軍の暴走では説明しづらいものがあるのだ。どう考えても、日本が張作霖暗殺に手を染める理由は、ソ連以上にはない」と。
プロホロフの談に対し、彼の著書『GRU帝国』から、若干の記述を補っておく。
昭和2~3年(1927-28)当時、GRUの中国における活動の中心は上海にあった。その組織には表の合法機関とは別に、非合法の諜報組織があった。後者は昭和2年に着任したサルヌインが長をしていた。サルヌインの部下に、ヴィナロフがいた。
『マオ』は、ヴィナロフが、張作霖の爆殺された列車の写真を「自分が撮った」というキャプション付きで自著『秘密戦の戦士』に掲げていることをもって、張作霖爆殺はGRUの仕業という間接的証拠としている。ヴィナロフはサルヌインの部下であったことが、重要である。
また、エンチンゴンは、張作霖暗殺計画の遂行のために、GRU本部からサルヌインのもとへ差し向けられていた諜報部員だった。GRUが張作霖暗殺に力を入れていたことがわかる。
プロホロフの説は衝撃的である。とはいえ、どの程度の妥当性を持つのか。その検討を次回行いたい。







