ほそかわ・かずひこの BLOG

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キリスト教154~教皇ピウス11世、12世がナチスに協力

2019-01-31 10:13:15 | 心と宗教
●教皇ピウス11世、12世がナチスに協力

 1933年1月、ドイツで国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の党首アドルフ・ヒトラーが政権を取ると、ローマ教皇ピウス11世は、「ドイツ政府元首ヒトラーが共産主義ならびに虚無主義とあくまで戦う決意の人であることを認め、喜びにたえない」と述べた。以後、ヴァチカンはヒトラーと結びついた。そして、ナチスによるユダヤ人迫害を黙認した。
 カトリック教会は、最初からナチスを支持していたのではなかった。
 ドイツ中央党は、1880年代から1910年代はじめにかけて、帝国議会で不動の第1党だった。第1次世界大戦の敗戦で帝政が倒れ、ヴァイマル共和国が樹立された後は、社会民主党と並んで最も多くの首相を輩出した。ヒトラーが政権を取るまで、歴代政権において主導的な役割を果たした。
 ドイツ・カトリック司教団の司教たちは、中央党の役職に就いていた。司教たちは、信徒に対して、選挙では中央党を選ぶように薦めた。ドイツ・カトリック司教団は、まだ新興の少数党だったナチスの党員には、秘蹟を授けてはならないとするなど、反ナチス的な姿勢を取っていた。
 しかし、1931年にピウス11世が出した回勅「クワドラジェシモ・アンノ」がドイツの司教に大きな影響を与えた。回勅は、行きすぎた個人主義による自由放任経済とマルクス主義による統制経済の双方を批判し、職能身分が織りなす有機体的社会への再編を構想したものだった。この回勅に感銘を受けたのは、中央党党首のフランツ・フォン・パーペンだった。パーペンは、1932年6月にパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の任命を受けて首相に就任した。
 これを機に、カトリック勢力とナチスは接近した。1933年1月にヒトラー内閣が成立した背後には、パーペンの助力があったとされる。パーペン自身、ヒトラーのもとで副首相になった。
 その2ヶ月後の3月に、教皇ピウス11世は、枢機卿会議でヒトラー政権を認める見解を表明した。同日、ドイツ中央党は授権法法案に賛成し、ヒトラーが率いる政府に、ワイマール憲法に拘束されない無制限の立法権を授けた。これによって、ワイマール憲法は空無化した。その数日後、ドイツ・カトリック司教団は、それまでカトリック教徒にナチスの党員になることを禁止していた指示を撤回した。これによって、ナチスは、人口の約3分の1を占めるカトリック教徒という最大の支持層を獲得した。そして、33年の5月から7月にかけて、一気に労働組合の禁止、社会民主党の活動禁止、ナチスを除く全政党の解散新政党の禁止を強行し、一党独裁を完成させた。
 カトリック教会は、こうしたナチスとの間で、33年7月20日に、政教条約(コンコルダート)を結んだ。協定により、ナチスは国内のカトリック教徒を弾圧しないことを保証し、カトリック教会は聖職者と宗教を政治と分離することに同意した。そして教皇ピウス11世は、ヒトラー政権をドイツのために祝福するとともに、聖職者たちに同政権に忠誠を誓うことを命じた。カトリックの総本山であるヴァチカン市国は、国際社会の中でナチ政権を公認した最初の国家となった。ヴァチカンとの間で政教条約を結んだことによって、ヒトラーは国際的にナチスの評価を高めることに成功した。
 条約成立の2日後、ヒトラーはナチ党宛の書簡に、次のように書いた。「ヴァチカンが新しいドイツ条約を結んだことは、カトリック教会による国家社会主義国家の承認を意味する。この条約によって、ナチズムが反宗教的であるという主張がまさに偽りであることが全世界の前に明らかになった」と。ローマ教皇庁は、ナチスを信用して、政教条約を結んだ。だが、ヒトラーは条約を守らなかった。条約締結の3年後、36年にはカトリック教会の青年運動・労働運動を禁止し、ナチ党外務局のトップであるアルフレート・ローゼンベルクの指揮のもとに、本格的なカトリック教徒狩りを開始した。
 こうした条約違反の動きに対して、かつてナチスを称賛したピウス11世は、態度を改めた。1937年に「ミット・ブレンダー・ゾルゲ」と題した回勅を出し、ドイツにおけるカトリック教会の悲惨な状況を述べ、ナチスを新しい異教として非難した。人種・民族・国家の神聖化は最もひどい異端への退行であるとし、ゲルマン民族主義的、ドイツ風キリスト教の信仰表象はすべてが野蛮な邪説であると断定した。これに対し、ナチスは国内の弾圧を強めた。回勅を印刷した印刷所を没収し、聖職者・修道士を次々に裁判にかけ、高位の聖職者を強制収容所に送った。
 1939年2月、ピウス11世が死去し、翌月、新しい教皇が就任した。新教皇ピウス12世は、かつて教皇庁の外交担当としてコンコルダートの締結を主導した人物だった。
 同年9月、ヒトラーはポーランドに電撃的に侵攻し、それによって第2次世界大戦が繰り広げられた。この時、ポーランドは、ナチス・ドイツとともに、無神論的共産主義のソ連によっても、国土を略奪された。大戦の途中から、アウシュビッツ等に強制収容所が設けられ、ユダヤ人迫害の舞台ともなった。ポーランドは、10世紀の建国以来キリスト教を受容し、西欧カトリック文化圏に属してきた。中世には、カトリック国家の東の雄として、ヨーロッパ有数の大国となった。その繁栄を支えたラテン・アルファベットや石造建築、ルネッサンス文化などは、すべてカトリック信仰とともに伝わったものだった。近代に入ってからも、上流貴族は好んでラテン語やフランス語を話し、子弟をフランスに留学させるなど、西欧カトリック諸国との文化交流が盛んだった。そうした国が、ナチス・ドイツに蹂躙されていることに対して、カトリックの総本山、ヴァチカンはヒトラーを非難しなかった。
 ナチス・ドイツの勢いは猛烈で、そのほかの周辺国も次々に征服された。40年6月には、パリが占領され、カトリック大国のフランスの北半分がナチスの支配下に置かれた。
 こうした中で、41年6月、ナチス・ドイツがソ連に侵攻すると、ピウス12世はこの侵攻を全面的には支持しないが、「キリスト教文化の基盤をまもる高潔で勇気ある行為」と評価した。その後も、その前も、ピウス12世は、ナチスのユダヤ人迫害を非難する声明を出すことがなかった。ドイツのユダヤ人問題に関与し、ユダヤ人の生命を救おうという姿勢は、一切示されなかった。教皇庁の黙認のなかで、ナチスによるユダヤ人虐殺は、大戦前から行われ、大戦中はさらに激化していった。ドイツ人のカトリック教徒で、ユダヤ人迫害を行った者が多数いた。教皇庁が迫害をしてはならないと信徒に教え諭すことはないのだから、ナチス政権の命令に従うことに良心の呵責は起きなかったと言っても過言ではないだろう。
 もっともドイツのカトリック教徒全員がナチスに無批判だったわけではない。ユダヤ人を救助したカトリック聖職者もおり、彼らの必死の救助活動のおかげで助かったユダヤ人もいたと伝えられる。ただし、救助救助活動をしたのは下級聖職者で、又その活動は個人的な物だった。上級聖職者は沈黙を守り続けた。それは、教皇の態度に従ったものである。

 次回に続く。