ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

キリスト教31~神秘主義

2018-04-08 08:47:14 | 心と宗教
●神秘主義
 
 宗教学者は、宗教を構成する要素として、教義・儀礼・教団・宗教体験を挙げる。教義・儀礼・教団の三つの要素は、人間における内的な宗教体験という第4の要素を源泉とし、そこから発展したものである。ここで宗教体験に関することを、この教義の項目に書いておきたい。宗教体験は教義と深く関係するからである。
 宗教体験には、体験をする主体、感得される対象、体験を通じた人格変換の意味という三つの要素がある。感得される対象は、理性的な理解が可能とは限らない。究極的な実在や超自然的な力は、人智による理解を超えている。主体は、人格の全体をもって対象を感得する。その体験の結果、体験者の人格になんらかの変化が起こる。新しい自己にめざめるとか、人格が成長・成熟するというような人格変換である。その過程で、通常の意識では感知できないものを感じ取ることがある。アブラハム・マズローのいう「至高体験」(peak experience)や、局所的な身体を超えた意識の広がりを体験することもある。それゆえ、宗教体験には、日常的な体験とは異なる何らかの神秘的な側面がある。神秘とは、通常の感覚、普通の認識を超えた事柄である。言葉によって合理的に表現・説明できない性質・状態である。
 宗教の信仰活動の中で、特に強烈な神秘体験を重視し、それを中心として成立する宗教現象やそれを積極的に求める思想・活動を、神秘主義(ミスティシズム)と呼ぶ。神秘体験の後にその体験者が自分の体験を解釈して表現したものが、神秘思想である。「光り輝く闇」「沈黙の声」など比喩や逆説や象徴による表現が多く使われる。通常の言語表現では表現できないものを示唆するものである。
 体験に基づく神秘主義を全く否定するならば、その宗教は形式化・形骸化し、精神・生命を失う。一方、理性に基づく合理主義を全く否定するならば、その宗教は迷信と妄想に陥り、社会に混乱を生み出す。
 キリスト教にも、神秘主義がある。神との合一や、自分がキリストの花嫁となって合体するといった体験が典型的である。その根源は、パウロの言葉にある。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(『ガラテヤの信徒への手紙』2章19~20節)。こうした言葉は、神であるキリストと人間であるパウロが合一するという心境を語るものだろう。
 キリスト教神秘主義の思想・活動は、熱烈な祈りや厳しい修行などによって、こうした心境への到達を目指す。しかし、キリスト教は、イエス・キリストという神と人間を取り結ぶ仲介者を崇拝することで成り立つ宗教である。イエス・キリストを通じてのみ、人間は、原罪と自罪を許され、神と結びつくことができるとする。それゆえ、神秘主義者が、イエスを介さずに神と直接合一することを求めるならば、イエス・キリストの存在が無意味になってしまう。
 キリスト教の神秘主義は、修道院を中心に実践されてきた。修道院は東方正教会で発達し、西方にも広がった。東方正教会では、宗教体験を重視するので、その教義は、神秘主義と因和的である。これに対し、ローマ・カトリック教会では、公認の教義である神学の体系をはみ出す神秘思想を厳しく取り締まった。そのため、神秘思想は、西洋文明の表層ではなく、深層を流れる隠れた伝統となった。13世紀後半から14世紀初期のドミニコ会士であるマイスター・エックハルトは、神との神秘的合一を果たすには神の想念を離れるべきとし、神性の無を説いた。異端告発を受け、死後に異端宣告が下され、著書の発行・配布が禁止された。宗教改革後のドイツでは、17世紀前半のヤーコブ・ベーメが、靴屋だったが啓示を受ける体験をした後、聖書・カバラー・錬金術等を独学し、象徴的な表現で独自の神秘思想を説いた。プロテスタントの信仰復興運動である敬虔主義やロマン主義、シェリング、ヘーゲルなどに影響を与えた。
 カバラーは、ユダヤ教のカバラーという神秘主義思想の文献である。カバラー神秘主義は、ユダヤ教の伝統に基づく創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想である。終末の救済の秘儀にあずかるために、律法を順守することを説き、また神から律法の真意を学ぶことを目的とした。それゆえ、正統的なユダヤ教から外れるものではないと見られている。西方キリスト教社会では、深層の潮流に隠然とした影響を与えた。
 他の宗教では、イスラーム教には、スーフィズムと称されるイスラーム神秘主義がある。哲学の方法を取り入れた神学と、神秘体験を重視する神秘主義の間に隔壁がなく、神学が神秘主義を考慮したり、神秘主義が神学を摂取したりすることが、自由に行われた。
 ヒンドゥー教では、ウパニシャッド哲学で、宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と人格的な自己の原理であるアートマン(我)が同一無差別であると説かれる。そして、梵我一如の体得が信仰の目標とされる。瞑想やヨーガなどを実践して、その体得を目指す。この場合、イエス・キリストのような仲介者は必要ない。ヒンドゥー教から出た仏教では、禅定(ディヤーナ)を実践して悟りを目指す。仏教は本来、「神を立てない宗教」であり、法(ダルマ)の真理を理解・体得するために修行する。仏陀は、真理に目覚めた人、悟りに達した人を意味する。釈迦は、イエス・キリストのような仲介者ではなく、修行者の目標である。イエス・キリストは唯一人の特別の存在だが、仏陀は誰もが成り得る。釈迦牟尼仏陀は、人類史上初めての仏陀でも、最後の仏陀でもないとされる。

 次回に続く。
コメント