仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

繁忙期ほぼ終了:ようやく原稿が書ける

2009-02-12 09:37:50 | 生きる犬韜
さて、1年で最も忙しい時期がほぼ終わった。ストレスでぼろ布のようになっていたが、なんとか乗り切れたようである。まだ学科の入試二次、修論の口頭試問、大学院入試などが残っているが、それほど大変ではない。ようやく原稿が書ける状態になったわけだ。
ということで、早速書きかけになっていた京都造形芸術大学の教科書の原稿を入稿。ちょっと題材を間違えた感もあるので、今週は時折見直しつつ、よりよい内容のものを目指したい。「地域学」の教科書なので、どこか特定の場所に腰を据えた内容の方がよかったのかも知れないが、自分の認識枠組みをローカルと捉えて、時間軸・空間軸を自在に動かしつつ考察する方法を示してみた。しかし、何となくしっくりこないのだ。まだ自分のなかで充分熟成されないままアウトプットしてしまったからだろう。出版までそんなに余裕はないのだが、許される限りで粘ってみたい。これと併行して、2月中に(1月の締め切りに間に合わず、延ばしてもらった)熊野の原稿、3月中にさらに2本。3月初旬に研究会報告と学内研修会の報告があるが、それほどの負担ではないのでなんとかいけそうである。

昨日11日(水)は、休日にもかかわらず新入生奨学金の面接のため出勤。その後、紀元節反対集会を終えた妻と待ち合わせして、半ば義務的に「観にゆかねば」と思っていた『』を鑑賞。道元の生涯を描いた正当な伝記映画だったが、あまりに主人公が立派すぎて感情移入できなかった。ぼくは、あんまり立派な人は信用できないし受け付けないのだ。最後の最後まで葛藤してドタバタしている人の方に魅力を感じる。道元を批判的に描いているところなどほとんどなくて、讃嘆してばかり(当たり前か)。求道者的苦悩も一向に深みを増さない。それだけでは物語として成立しないので、周辺の弟子たちを掘り下げてみるが、どうも類型的な描き方にしかなっていない。大悟の境涯をイメージしたCGや、現代的なセリフ回しも違和感あり。とくにセリフは、「政治的権力が云々」などなど、生硬でこなれていない気がした。回想シーンの挿入の仕方なども上手とはいえず、脚本・演出に冴えがなかった。それでも「大ヒット」だというので、曹洞宗がかなり動員をかけたのだろう。宗門内でみる映画としてはいい作品なのかも知れない。
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