仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

前期終了間近:さあ、これからは

2007-07-14 23:58:31 | 生きる犬韜
前期も終了間近である。首都大学OU、上智史学会の報告など、上半期の山もほとんど越えた。上智の講義はほぼ来週で終わりだし(概説のみ23日まで)、大妻の方は8/1まであるものの、あとはほとんど事務仕事となる(会議と奨学生の面接など)。というわけで、今週からいよいよ溜まりに溜まってきた原稿に手を着けられそうだが、スイッチの切り換えがやや難しい。講義準備などは短期間に締め切りがやってきて、しかもできていなければ確実に破綻するので、とにかく集中してやりとげる。しかし原稿の場合は、明日でいいかという甘えが出て、どうしても先へ先へと延ばしてしまう。締め切りまで、さほど余裕があるわけではないにもかかわらず、である。怠惰な性向にも困ったものだ。

11日(水)は、大妻の講義、学科会議、上智史学会理事会を終えて首都大OUの2回目講義へ。諸子百家から伝奇小説までを90分で語り倒す。かなり強引な時間配分で、聞きに来てくださった方には難しかったかも知れないが、中国の夢文化が一気に爆発する瞬間は捉えられたのではないかと思う。猪股さん、三品さん、ぼくと来て、来週からは宗教学の佐藤壮広さんが担当。沖縄を主な舞台に、よりコアな世界が展開されるだろう。
講義終了後は、飯田橋の「春夏秋冬」にて飲み会。猪股さんと佐藤さんは、ご自分の夢をある程度コントロールできるらしい。猪股さんは睡眠に至る導入の夢が存在し、その訪れを待っているとやがてあちらの世界へ誘なわれるという。最近は、夢での自由度を増すべく訓練中とのこと。佐藤さんは、現実世界でのわだかまりを夢で解消し、生のあり方を変えてゆくという明恵のような実践をしているもよう。論文のアイディアも夢のなかで得ることがあるという。驚くばかりである。一方の三品さんとぼくは、中学・高校を舞台に「試験前なのに準備ができていない」「必修なのにちゃんと出席していなかったことに気づく」といった夢を未だにみていて、どうも学校教育のストレスが異常に強かったことが判明。夢を使いこなしたいとは思うが、ここ10年ほどは「寝ようとして寝るのではない」生活を続けており、睡眠に落ちるときは疲労しきっているので、ほとんど夢をみることがない(みていたとしても、覚醒時にはまったく覚えていない)。もう少し余裕をもって生きねばならないか。

14日(土)は、上智史学会例会での報告。台風の接近にもかかわらず、院生の皆さんもある程度参加してくれた。毎回、きちんと出てくる学部1年生も2人いる(素晴らしい)。ぼくの論題は、「礼拝功徳、自然造仏」。『三宝絵』論集に間に合わなかった、例の長谷寺縁起に関する分析である。三宝絵研での報告は昨年だったが、朝鮮の野談史料などもパラパラとみて、少し解釈の仕方が違ってきた。席上、大澤先生からは、中国の江南文化と日本の宗教文化との繋がりや、木を「引く」ことの意味についてご質問いただいた。応答するなかで、自分のなかで曖昧だった考えも整理することができ、非常にありがたいご指摘だった(後者の件は、終了後に院生の吉野君とも意見交換して刺激を受け、「引く」ことの儀礼性をしっかり考え直すいい機会になった。吉野君にも感謝します)。また、山内先生からは、「長谷寺縁起にみる祟る樹木の菩薩化には、五行が意図的に配されているのではないか」との、ハッとするようなご意見をいただいた(これは、徳道・道明/為憲の、述作主体を判断するのに役立つかも知れない)。漢学の伝統をちゃんと踏まえた東洋史の先生方は、ぼくのいい加減な中国史理解や、同様にいい加減な漢文の訓み方を正確に訂正してくださるので、本当に感謝するばかりである。

土曜、雨のなかを帰宅してから、水曜にケーブルで録画しておいた韓国製ホラー映画『狐怪談』を観た。女子校を舞台に、願いが叶えられるという狐の階段によって、平和な日常を狂わされてゆく少女たちを描いている。前半は、主人公のふたりを軸に女子校独特?の人間関係が丁寧に綴られてゆくが、話が怪談じみてきてから描写がかなりいい加減になる。画作りがいいのでごまかされてしまうが、観終わってから考えると、人間関係もどこぞの少女漫画の引き写しのステレオタイプだったような…。恐怖描写は中田秀夫『リング』のものまね。窓の外から亡霊が入ってくるシーンは、貞子がテレビから這い出てくるシーンのパロディであった。問題の階段の描写もあっさりしていて、願いの深刻さに応じて増えるという「29段目」もさほど強調されず、少女たちの思い込みによって増えるのか、怪奇現象として増えるのかがはっきりしなかった。前者の設定で強調した方が、学校という特殊空間の心理劇としては成功した気がする。
怪談といえば、季節がら、このところその手の出版物が多い。ぼくは趣味と実益を兼ねてこれらを渉猟しているが、先日も、毎号購読している『幽』の最新号、『新耳袋』の著者コンビそれぞれの新刊が出ていたので購入した。
『幽』は、「真景累ヶ淵」に取材した中田秀夫『怪談』の公開に合わせ、三遊亭圓朝の特集。東アジア怪異学会の大江篤さんのインタビューが載っていた。木原浩勝『隣之怪』は、『新耳袋』より恐らくは創作性の高い短編怪談。中山市朗『なまなりさん』は、呪い・祟りに関する一事件のノンフィクション・レポートという形をとる。どちらも恐怖度はさほどではないが(むしろ哀れを誘う)、前者の校正ミスの多さは非常に気になった。著者の確認能力、編集者の力量が疑われる(人のことはいえないが)。
怪談というと、一種の都市伝説を題材にしたところのアニメーション『電脳コイル』(教育テレビ)の出来が非常によい(プロモーション映像はこちら)。日常空間と電脳空間の重複する近未来(といっても、風景は現在と同じ)を舞台に、小学生たちの一夏の冒険が描かれる。現代の子供たちにとって、日常空間は探検する魅力のないものとなってしまったのかも知れないが、電脳空間の存在によって、子供たちのみる世界がかつての神秘性を取り戻しているかっこうである。怪しげな違法プログラムを「呪符」として売る駄菓子屋のばあさん、未修復の古い空間の裂け目に顔を覗かせる他界、そして出所不明の電脳生物イリーガル…。廃工場や深夜の学校、神社の裏手が、新たな意味を得て立ち上がってくる。そこから生まれる様々な都市伝説に、死者の記憶。物語りも画作りも上質で、みどころ満載の作品である。かつて『.hack』というネットRPGを題材にしたアニメーションがあったが(まさに、ネット上のキャラクターとPCの向こうにある実在との関係を問う内容だった)、『コイル』はあらためて、ネット世界とは現代的心性において他界として現前し、PCは境界以外の何ものでもないことを思い知らせてくれた。かつて必要とされつつも恐怖された境界が、いまは個人の部屋にひとつずつあり、電話という形でひとりひとりに携帯されている(そうそう、電話自体が境界であることは、呪いの電話、死者からの電話などの都市伝説モチーフが明示している)。パワーユーザー=呪術師ならともかく、普通の人間では「向こうからやって来る危険」に対応できまい。ネット犯罪等々の被害者が年々増加するのも、そのように考えてゆくと別の意味で頷ける。
『精霊の守人』といい、今年のNHKはちょっと違う。
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2 Comments

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ロックな夢ですね (ほうじょう)
2007-07-17 23:58:17
コメントありがとうございます。
そうですね、中国で成立した本来の夢オチというのは、「なんだ、夢だったのか…」で終わるのではなく、夢から醒めると現実が変容している、その真の姿が立ち現れてくる…そのあたりに本質があったのだと思います。『荘子』のいうように、朝晩聖人と語っているのと同じになる、世界を覚知するあり方が変わるという。しかし、そんな夢が「降りて」きたら、もう日常の暮らしは営んでいられないかも知れませんね。
それにしても、イノさんの夢はロックですね。「野ばら」はシューベルトの方でしょうか。シューベルトもロックですよねえ。曲を奏でる、歌をうたうというのは、何か意味があるんでしょうかね。神話的に解釈すれば、神を呼んでいるんでしょうけれど。ベースは琴なり。ゲーテの歌詞も、何か預言的で意味深です。
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夢オチのこと (イノ)
2007-07-17 20:22:56
ホージョーさんのお話をうかがっていて、「夢オチ」というのは、夢への侮りが前提となってはじめて成立するものであったな、といまさらながら思いました。一見落としつつ、すぐれた物語やアニメやといった表現は、「夢」の時空を紛れもない体験と化そうとしているのではありますが。
ところで、一昨日だったかは自分がライヴでベースギターを弾く夢を見、昨夜は古代歌謡ならぬ「野薔薇」をうたうステージに立つという夢を見ました。研究発表の夢ではなく。至福の時。と、夢に溺れてはなりませぬ、と自戒(笑)。
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