仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

家族の活躍

2011-04-21 21:52:25 | 生きる犬韜
今週も、授業の合間、合間に会議、会議である。委員長を務めるホフマンホール運営協議会や、副委員長を務める学生生活委員会もあった。ぼくの数倍の仕事量を次々とこなす谷センター長をみていると弱音を吐いてはいられないが、しかしどうも今年度は開始早々体調が悪い。春季休暇のあいだ治まっていた咳も酷くなりだしたし、極度の肩凝りや偏頭痛も多く、疲労も毎日嵩んでゆく。頭の働きも異常に鈍く、瞬時の判断がしっかりできない。先が思いやられるが、何とかリズムを整えてふんばらねばならない。

今週からプレゼミ、ゼミも始まった。前者は哲学科から編入のO君を含めて6人だが、一人ひとりの個性は強いものの、まだお互いのフィーリングが噛み合っていない印象である。当然といえば当然だが、これから、それぞれが発言しやすい雰囲気をどう作ってゆくかが問題だろう。外歩きに連れ出す、というのはそれなりにいい結果を導くものだが、ま、追々考えてゆくか。
後者は、院生も加えて15人の大所帯。ゼミ室にぎりぎりの人数となった(隔年でこのような情況が訪れる)。2ヶ月ぶりでも懐かしさを感じるもので、落ち込み気味だった気持ちも少し盛り上がった。3年生のパワフルさが目立っているが、これから主役を担ってゆくのだから、いい傾向だろう。わいわいがやがや、何でも意見のいいあえる環境がいちばん素晴らしい。4年生は、もはや氷河期を通り越してアイスボール状態の就職活動のなか、やはりあまり元気がないようだった。不安や焦燥感でいっぱいだろうが、少しでも気を紛らわし、疲れた身心をリセットしてほしいものである。

原稿の校正ラッシュは相変わらずで、平凡社や勉誠出版、学会事務局などとのやりとりが続いている。『アジア民族文化研究』を皮切りに、『環境という視座』、『日本書紀の謎と聖徳太子』、『聖地と聖人の東西』、『人間の尊厳を問い直す』など、今度は刊行ラッシュとなってゆきそうだ。昨年の講義、シンポジウムの成果も含まれている。とくに、『環境という視座』に掲載の「〈負債〉の表現」には苦労した。抽象的で大雑把な内容にならざるをえなかったので、妥当な結論に至っているかいまでも不安である。読者諸賢に判断していただくしかない。

さて、先輩や友人たちからも研究成果をいただいているので、追々ここで紹介してゆきたいが、まずは家族の活躍から。先週、次兄から左の本が届いた。大学の教科書として作ったものだろう、次兄は「第2章 幸福の指標化と政治:世論に基づく政治から幸福感覚の政治へ」を執筆している。相変わらず鋭い批判的まなざしで、国民の幸福を指標化し政治的に利用しようとする権力の思惑や、それを支える社会調査の欺瞞と危険性を暴き出している。「調査が意見を創り出す」という議論は、学生時代に次兄によく聞かされ「教育」を受けたものだが、その論旨を追ってゆくといつも、歴史学の史料読解の危うさに思い至る。数値化のもたらす未来への警告も、実際に「成果の数値化」を強制されている教育・研究現場に身を置いていると、背筋の寒くなるような恐怖がある。クリティカルな態度を培ってもらうために、学生にぜひ読ませたい本である。
家族といえば、義姉もさらに活動の場を拡げている。以前にも紹介した原発・地震に関する海外報道の翻訳はそのまま、今度は「温暖化新聞」のライターも始めたとのこと。やはり、英語の温暖化関連報道を翻訳・要約したものらしい。ぼくの専門とも関わるので、今後も愛読してゆきたい。

最後にわが愛妻のモモだが、先日酔った勢いで故郷秋田の『秋田魁新報』読者の声欄に投稿したところ、これがなんと採用され、4月13日付の同紙朝刊に掲載されてしまったのである。『魁新報』は秋田人の過半は購読している?という超定番紙なので、地元では大騒ぎとなったらしい。内容は、東北の震災復興に関して「秋田の出番」を期待するもの。読みたい方はpdfファイルをお送りしますので、ぜひご一報ください。

家族もそれぞれに活躍している。ぼくも力を尽くそう。
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