仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

トーテムの内的世界:歴史の枠組みを超えてゆく方法

2008-07-05 17:02:11 | 書物の文韜
ここのところ、会議や講義の準備がいらない帰りの電車のなかでは、先に紹介した『神なるオオカミ』の世界に没頭している。この書物、思った以上に奥が深い。今年目に触れたもののなかでは、間違いなく、ぼくの知や感性をいちばん刺激してくれるものである。狩猟・遊牧を生業とするモンゴル民族の価値観から、農耕民と規定される漢民族の文化・文明を相対化するベクトルも強く、こりゃ偽名で書かざるをえないものかもな、と納得する。
基本的には、文化大革命でモンゴル高原に下放された知識青年陳陣を主人公にした物語なのだが、彼が見聞するモンゴルオオカミの生態や遊牧民の生活習俗、言説や伝説は具体詳細を極めており、明らかに著者自身の経験に基づくものと感じられる。陳陣が新たな体験をする度に思考する内容や、漢民族としての自分と敬愛するモンゴル民族との間に抱く葛藤も、恐らくは当時著者自身が感じたものなのだろう。これは立派な民族誌であり、80年代以降の懐疑主義を超えてゆくひとつの成果といってもいい。
興味深いのは、純粋ゆえにやや単純とも思える陳陣の思考が、生態的知識から世界史の枠組みを更新してゆこうとする、そのダイナミズムである。彼は、人間や他の動物を相手に「権謀術数」の限りを繰り広げるオオカミの群れに圧倒され、遊牧民として生活するなかでその生態を詳しく調査し、モンゴル民族の軍事的知識が何千年にもわたるオオカミとの戦いによって、オオカミを師として培われたものであり、それゆえにチンギス・ハーンの帝国は世界を席巻しえたのだというアイディアにゆきつく。その世界最大の範図を持った帝国が東西をより深く結びつけ、以降の世界史のあり方を決定的に変えてしまったのだとしたら、モンゴル高原におけるオオカミと人との関わりのなかには、世界史の謎を解く鍵がある。その思索の往還には、環境/文化、ミクロ/マクロといった、「みせかけの隔たり」を軽々と飛び越えるエネルギーが溢れている。
オオカミ・トーテムに対する考察も、文化の内的理解を自然になしとげていて感動的ですらある。狩猟の担い手としては競合し、ときに家畜や自分自身さえも襲うことになるオオカミを、モンゴル民族が神として、祖先として崇めているのはなぜなのか。表面的・現世的な感情だけでは推し量ることのできない遊牧民の宗教観、オオカミに対する複雑で深い認識がそこにはある。ぼく自身も、トーテムについては、今まで概念として理解しているにすぎなかった。しかし、陳陣の思考を通じて、その内面的世界に少しだけ近付くことができた気がする。そこには確かに、〈種〉なるものの違いを超えた繋がりがあり、いいかえると、(正反対のいい方のようだが)まったく異なる存在を全身全霊をかけて理解しようとするベクトルがある。それは本当に感動的で美しく、「そんなのは人間の一方的な押し付けでしょ」という浅薄な相対主義的批判を寄せ付けない崇高さがある。ぼく自身の歴史学の立ち位置というものも、再認識させてくれる本である。
 陳陣が認めなければならないのは、輝く天の道理は、遊牧民族の側にあることだ。草原民族が守っているのは「大きな命」であり、--その草原と自然の命は人命よりも大切だ。一方、農耕民族が守っているのは「小さな命」であり、--世のなかでもっとも貴重なものは人命と生きることだ。しかし、「大きな命がなければ、小さな命もあるはずがない」陳陣はこのことばを繰り返して口にしているうちに、心が少し痛くなってきた。/ かれは歴史上、草原民族が農耕民族を大量に殺戮して追い払い、畑を牧場にしようとした数々の行為を思い出しながら、腑に落ちなくなってきた。これまでずっと後れた野蛮人の行為だと思ってきたが、老人のいうように、大きな命と小さな命という見方で判断すれば、「野蛮」という行為だけでは決めつけられない気がした。この「野蛮」には、人類の生存を守る深い文明が含まれているように思えた。もし「大きな命」という立場に立てば、農耕民族が大量に野焼きをしたり、駐屯して開墾したりすることは、草原と自然という「大きな命」を破壊し、さらに人類という「小さな命」をおびやかしていることになる。この行為こそもっと野蛮ではないのか。東洋の人も西洋の人も、みな大地が人類の母だというが、母親を殺害するのが文明なのか。(上、84頁)
 陳陣はくりかえして考えた。モンゴル草原にはトラの群れ、ヒョウの群れ、ヤマイヌの群れ、クマの群れ、ライオンの群れ、ゾウの群れがいない。これらの動物はモンゴル草原の厳しい自然環境のなかで生存できない。たとえ自然環境に適応しても、草原の残酷な生存競争には適応できないだろうし、凶暴で賢い草原のオオカミと人間の包囲討伐に抵抗できないであろう。草原の人間とオオカミは、モンゴル草原の生物の激しい生存競争のなかで、唯一、決勝戦に残ったシード選手である。草原で、編制して人間と生存競争ができる猛獣の群れは、オオカミしかいない。いままでの教科書には、遊牧民族の卓越した軍事的才能は狩りからえたものだと書かれているが、陳陣は心のなかでこの説を否定した。もっと正確にいうなら、遊牧民族の卓越した軍事的才能は、草原民族と草原オオカミとの長期にわたる、残酷で、途切れることのない生存戦争からえたものであろう。この戦争は、勢力が伯仲する持久戦であり、数万年も続いている。持久戦のなかで、人間とオオカミは、その後の軍事学上の基本原則と信条をほとんど実践してきた。たとえば、知己知彼、兵貴神速、兵不厭詐、上知天文・下知地理、常備不懈、声東撃西、集中兵力・各個撃破、化整為走、傷十指不如断其一指、敵進我退・敵駐我擾・敵疲我打・敵退我追など。/ オオカミはほぼ世界中に分布しているが、農業文明地域の深い堀や高い城壁や古い砦がないモンゴル草原に多く集まっている。このモンゴル草原は人類とオオカミが長い間、知恵と勇気を比べあってきた主な戦場である。/ 陳陣はこの筋道にそって考えつづけた。自分が中国五千年の文明史というトンネルの入り口に立っているような気さえしてきた。(上、164-165頁)
そうそう、文化大革命における下放政策の印象を変えてくれたのも収穫のひとつだ。これまでぼくのなかには悲劇的な印象しかなかったが、この書物に登場する下放青年たちは、モンゴルの広大な大地で喜々として生活し、逆に中国文明の持つ矛盾に気づいてゆく。当たり前のことだが、歴史とは多様なものである。

※ 写真は、これも先に触れたアニメ『白い牙』のサウンドトラックと、特典として付いていた複製ラフ原画6枚組(よくみたらストーリーボードだった)。A4スキャナで写し取れる範囲での公開。それほど話題にはならなかった作品と記憶しているが、アルバムはなんと2枚組で、BGMとドラマの総集編が収録されている。その後、ビデオ化もされたが、いまはアルバムも含めて絶版で、滅多にお目にかかることはできない。DVD化を強く希望する次第である。...ところで、ぼくは割合と物持ちがいい方なので、こういうお宝はとてもきれいな状態で保存している。折に触れて、このブログでも紹介してゆこうか。
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