仮 定 さ れ た 有 機 交 流 電 燈

歴史・文化・環境をめぐる学術的話題から、映画やゲームについての無節操な評論まで、心象スケッチを連ねてゆきます。

神雄寺その後

2009-08-13 19:33:52 | 議論の豹韜
以前に触れた木津の神雄寺で、今度は水の祭祀跡らしい遺構がみつかったという。事実とすれば、「古墳時代の導水祭祀にも遡る」と書いたとおりになったわけだ。
報道ではずいぶんとその「意外性」を強調しているが、初期神仏習合寺院の立地をみれば、大部分が水の祭祀場付近に建設されていることは明らかで、一昨年、仏教史学会の入門講座で行った講演「神仏習合と自然環境」でも指摘した。しかし神尾寺の場合、万燈会の関連からいっても金鐘寺の系統に含まれるのは確かである。水の祭祀と仏教とが直接習合したというより、飛鳥寺西槻・須弥山石の広場の伝統を踏まえたものとみるべきだろう。1999年に発表した拙稿「日本的中華国家の創出と確約的宣誓儀礼の展開」(『仏教史学研究』42-1。発表から10年経って、ようやく美術史などの分野で取り上げられている様子)で書いたように、飛鳥寺西槻・須弥山石の広場と東大寺―国分寺のネットワークは、儀礼の次第・空間において同一の構造を持つ。発表した当時は突拍子もなく聞こえたかも知れないが、須弥山本尊を持つ神雄寺の出現によって、この仮説は充分に裏付けられたと考える。ちなみに、神雄寺の背景には至近に本拠を持つ橘氏がいるのではないかとの見解があるが、『続日本紀』天平宝字元年七月庚戌条には、謀叛を企てた奈良麻呂らが、後の一味神水の原型ともいうべき自己呪詛の誓約を行ったという記述がある。これこそ、飛鳥寺西槻・須弥山石の広場から東大寺―国分寺のネットワークに至るまで一貫して用いられてきた儀礼の中核なのだ(上記拙稿参照)。未だ臆説に過ぎないが、橘氏の政治文化の方面からみても、この考え方は成り立ちうるだろう。

自説の正当性ばかり並べ立てていささか口幅ったいが、7月の古代文学会シンポ、11月の上代文学会シンポの内容とも深くリンクしてくる問題なので、絶好の機会と捉えて強調してゆきたい。
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