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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−137(正平一統の破断−2)

41.正平一統の破断

41.3.足利直冬と山名時氏

41.3.1足利直冬の存在

観応2年/正平6年(1351年)2月、尊氏は直義と和議を結ぶが、高師直・師泰兄弟は直義方に殺害された。

こうして直義が政界に復帰し、直冬は直義の求めに応じた尊氏から3月に九州探題に任命された。

この任命により一時的とはいえ直冬の立場が完全に抜きんでる形となった。

石見国内でも足利直冬の勢力が伸張し政治の安定がみられた。

そして大宰府の直冬の下へ馳参じて所領の安堵を受けるものが増えていた。

 

しかし、尊氏と直義の間で再び不和が生じ、同年に尊氏が南朝と一時的に講和する正平一統が成立し、尊氏は南朝の後村上天皇から直義討伐令を得た。

直冬に対しても再び討伐令が下り、一色氏が征西府と協調して勢力を巻き返した。

文和元年/正平7年(1352年)、鎌倉で直義は尊氏に降伏し、2月26日に急死する。

 

正平一統は破綻し、九州において直冬は孤立したが、依然として直冬は九州中国で一大勢力を保っていた。

直冬が使用する年号も、南朝の「正平」でも、北朝の「観応」でもなく、 「貞和」を使い続けていた。

直冬としては、観応の改元は、直義が師直の圧力で出家引退させられた時期におこなわれたもので、認めることはできないというわけである。 

直冬の指令に服する武士たちも貞和の年号を用いて、直冬党であることを明らかにし た。

 

直義は亡んだが、かれの養子直冬をかれの後継者と仰ぐ直義党は健在であって、その党類は全国に散在し、ことに中国・北九州ではあなどりがたい勢力をもっていた。

 

・師直・師泰以下与党伐のこと 

中国大将軍として石州に下知せしむる所なり。且つ此の間の軍忠の次第殊に以って神妙、早く馳 せり軍忠致すべきの状件の如し
貞和六年(1350年)七月二十九日               佐兵衛佐(足利直冬)
井尻四郎太郎殿

 

・石見国西鳥居小五郎兼光軍忠の事を申す

右土居又次郎宜時、城郭を構へりし間、今年正月三日夜半彼城に押寄せ、退治せしめんぬ。

何所の人武田弥太郎・蓮田十郎 知り乾んぬ。

次に雲州田地頭古荘二郎左衛門尉 大勢を率い、同十七日波祢庄に打入りし間、馳せ向ひ散々合戦致し逐ひ帰し んぬ。是等の子細 同前合戦の人鳥居次郎左衛門、鳥越弥二郎見知りんぬ。

御大将雲州御発向の時同国田次郎左衛門尉御方に参りし間、所々の城同前、是等の次第、御目前の上たれば、早く御証判を賜 はり、後訴に備へんとして言上、此の如し

貞和七年(観応2年/正平6年(1351年))二月日          (承了判)


・国に於いて忠節致せし条尤も神なり。

向後弥忠節を抽んずべし。 状すること件の加し

貞和八年(観応3年/正平7年(1352年))七月四日      足利直冬(判)
​​井尻八郎太郎殿

 

しかし、京都岩清水(男山)八幡陥落から半年後の、文和元年/正平七年(1352年)11月に、直冬も南朝に降った。 

直冬は三年前九州に走って以来少弐氏に助けられて、 北九州と中国西部に大きな勢力を築いたが、尊氏と南朝が和睦すると形勢が変わって孤立状態になった。

そして、ついに尊氏党の九州探題一色道献のために九州を追われて長門にのがれる始末となった。

直冬は、山名時氏の誘いもあり、敗勢挽回の手段を南朝との和睦にもとめた。

一方南朝方も、自力で幕府を倒せないことを身をもって経験した以上、直冬党との連合は渡りに舟であった。

ことに直冬党諸将の根拠地は比較的宮方勢力の残っている地域である。

 直冬党が南朝との連合によって、それらの宮方勢力を掌中に収めようと狙ったのと全く同様に、南朝もまた直冬党勢力の取り込み、そして切り崩しを考えたのである。

こうして、直冬は南朝に降伏し勢力を盛り返していくのである。


石見の新守護

直冬が南朝に降伏したちょうど同じ時期に石見守護として荒河詮頼が任命された。

石見の南北朝動乱時期の石見守護であった上野頼兼は、観応元年/正平5年(1350年)高師泰に替り、その高師泰の後任として、 荒河詮頼が任命されたのである。

詮頼は足利氏の一族である。

石見国凶徒退治の事、

荒河遠江守詮頼を差遣さるる所なり、早く忠節を致すべきの状件の如し。
文和元年(正平七年)十一月二十五日   (足利義詮 判)

周布左近将監 (兼氏)殿

 

荒川詮頼は石見国守護職に任じられ、足利直冬とそれにくみする勢力追討のため石見に赴いた。

 

41.3.2.山名時氏

山名氏は武家の名門清和源氏の一支流で、新田義重の子義範が上野国多胡郡山名に住し、山名三郎を称したことに始まる。

嘉元元年(1303年)時氏は山名政氏の息子として生まれた。

母方が上杉重房の娘であったため、足利尊氏、足利直義兄弟とも縁戚である。

そのため足利軍の一武将として室町幕府の成立まで戦っている。

その勲功から建武4年/延元2年(1337年)に因幡・伯耆の守護に、暦応3年/興国元年(1340年)に丹波の守護に、暦応4年/興国2年(1341年)に出雲・隠岐の守護に、康永4年/興国6年(1345年)に侍所頭人となり、幕府でも重要な地位を占めるようになる。

出雲の守護は佐々木道誉(別名京極高氏)が(1343年 - 1349年)の間就いていたが、尊氏・直義和睦の後は再び山名時氏が出雲の守護に就いた。

観応の擾乱が起きると観応2年/正平6年(1351年)以降足利直義派として行動する。

翌年直義が亡くなると、将軍派に転身する。

この頃の武将は、尊氏派と直義派を行ったり来たりすることが多かったが、山名時氏もその例に漏れなかった。

岩清水八幡の合戦における論功行賞に不満を抱き領国に帰っていった。

山名時氏は、足利義詮に対抗するため、九州の直冬に密書を送り南朝軍と盟約を結び、京の足利軍を討とうと持ちかけた。

直冬はただちに腹臣の神田太郎右衛門と桃井左京亮を因幡の時氏の許へ使いを立て、秘かに時期を窺い京都攻略の大画策を計った。


同年5月、山名時氏・師義父子は、兵を挙げて出雲・因幡・隠岐を攻略する。

その後、南朝方に降り、伯耆を出発し、京都に侵攻する。

文和2年/正平8年(1353年)6月山名時氏、楠木正儀らの南朝軍が京に迫った。

6月13日南朝軍に大敗した足利義詮は、後光厳天皇を伴って美濃国小島に逃れた。

しかし、体勢を立て直した幕府軍は7月26日に京を奪還した。

 

41.3.3.後光厳天皇の即位礼

京を奪還した幕府軍は12月27日に後光厳天皇の即位礼を挙行した。

色々あったが、北朝が復活したのである。

 

<後光厳天皇>

しかし、神器なしでの即位ということで、北朝の権威は弱体化することになり室町幕府はこれが痛手となる。

なお、文和3年/正平9年(1354年)3日22日、賀名生へと送られた光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王(皇太子)は天野山金剛寺(大阪府河内長野市)に移動させられ、観蔵院をその行宮とした。

また、同年10月28日には後村上天皇自身も到来し、塔頭・摩尼院を行宮として、南朝の本拠地に定めた。

<金剛寺>

 

<続く>

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