57.石見の戦国時代の幕開け
57.1.大内道頓の変
57.1.1.少弐・大友の乱
少弐氏は平安末期から筑前、肥前などの北九州に在した御家人・守護大名である。
この頃、少弐氏は大内氏に追われ対馬の宗氏の下に身を寄せていた。
応仁の乱勃発すると、大内政弘は西軍に味方し大軍を率いて上洛する。
これを見た、少弐教頼(のりよし)は筑前大内政弘の留守を突いて勢力回復を図るため挙兵し一時博多を占領したが、結局破れて戦死した。
少弐氏再興は子・政資(まさすけ)(頼忠)に引き継がれた。
一方大内政弘が入洛し参戦すると、劣勢だった西軍が優勢となった。
東軍の細川勝元はこれに対応するため、大内政弘の国元を撹乱し政弘の足をすくおうとした。
そこで、細川勝元は、少弐政資(まさすけ)、筑豊の豪族大友親繁、周防の大内道頓らに反乱を呼びかけるのであった。
文明元年(1469年)5月、少弐政資(まさすけ)は細川勝元の勧誘に応じて父祖代々の肥筑の失地回復を決意し筑豊の豪族大友親繁とともに東軍に味方して兵を挙げた。
少弐・大友の両軍は大内領の筑前・豊前の奪取に挟撃態勢を布き、少弐頼忠はその旧地太宰府に侵入した。
当時、筑前守護代陶弘房は、応仁元年の相国寺合戦に討死、その子弘護はいまだ十五歳の弱年で周防にいたので、少弐は大内の手薄な防備に乗じ容易にその勢力を北九州に拡大していった。
57.1.2.大内教幸
大内南榮道頓は大内教幸が出家して名乗った名前である。
この大内教幸は大内家第11代当主大内盛見の子であり、第12代大内家当主大内持世は従兄弟(伯父である、第10代当主大内義弘の子)である。
第12代当主大内持世は大内教幸の弟の教弘を養子にしていた。
持世は嘉吉元年(1441年)に起こった嘉吉の乱(第6代室町将軍足利義教が暗殺された事件)に巻き込まれ死去する。
大内持世の後は教弘が家督を継いだ。
大内教幸は、弟の家督継承に不満を持ち抵抗していたが、それを断念し出家して「道頓」と名の利用になった。
寛正6年(1465年)この大内教弘が死去すると、家督は教弘の子の政弘が継いだ。
応仁元年(1467年)が発生すると、大内政弘は西軍の山名宗全に招かれ、東上を決意する。
大内政弘の留守を守ることになったのが大内道頓である。
大内政弘が入洛し参戦すると、劣勢だった西軍が優勢となった。
細川勝元はこれに対応するため、大内政弘の国元を撹乱し政弘の足をすくおうとした。
勝元は、道頓に反乱を持ちかけた。
道頓は、細川勝元の勧誘に応じ、翌文明2年の春、大内の一宿老仁保弘有とともに長門の赤間関(下関)で挙兵したのである。
挙兵した道頓は、周防留守居役の陶弘護も誘い仲間にいれた。
しかし、陶弘護は一旦仲間となったが、後に叛旗を翻すことになる。
長門に勢力を拡大した道頓は、周防・安芸・備後方面の西軍を制圧せよという勝元の指令を受けて、文明2年冬、周防玖珂の鞍掛山に進出したところ、陶弘護に要撃されて、12月22日、あえなく敗れ、安芸廿日市方面に逃れ、ついで津和野の吉見信頼を頼って石見に入った。
「後太平記」によると、津和野の吉見三河守勝頼が3千騎を率いて南榮(道頓)を救い、支援したとある。
<後太平記 24巻 太宰少弐亦蜂起之事、並 大内南榮逆心之事の条より>
だが事実は、吉見三河守勝頼ではなく吉見能登守信頼のようである。
また三河守は信頼の父である成瀬の称号である。
57.1.3.石見豪族の動向
①史料によると、周布氏は大内道頓の挙兵後に将軍義政からの再三道頓に加勢する勧誘を受けており、半年後ようやく道頓に味方して出兵している。
・周布、長門国進発のこと、度々仰せられ乾んぬ、今に遅引甚だ然るべからず、所詮、大内入道道頓に相談、不日出陣しめ戦功を抽んずべく候なり
六月二十九日 義政より周布因幡守 元兼へ
・大内左京大夫入道道頓合力として進発せしめ候由、注進到来、尤も神妙、弥戦功を抽んずべく候なり
十二月二十三日、義政よ り周布因幡守へ
*元兼とは第11代周布家当主の周布元兼である。
(なお、第14代も元兼と名乗っているが、それは約80年後のことである)
②益田・吉見・三隅・福屋・小笠原の石西(石見西部)諸族が道頓に加勢している。
道頓の苦戦に対して義政は改めて石見国衆の道頓への加勢を求めた。
備後安芸周防三国凶徒退治の事、 大内左京太夫入道道頓に仰せつけられ畢んぬ、然らば時日を移さず道頓と相談、軍功を励まば神妙たるべく候なり
(二月四日、益田左馬助へ)
③出羽・高橋・佐波の諸氏についてはその徴証がなく、この道頓の変には関係しなかったと思われる。
④ところが、後太平記によると、文明3年(1471年)冬、益田・吉見・三隅・福屋の諸族は、今度は陶弘護に味方して道頓軍を豊前馬岳に攻めている。
<後太平記 24巻 太宰少弐亦蜂起之事、並 大内南榮逆心之事の条より>
これは、前述したように石西諸族が東西両軍に応分に一族一党を出征させ、どっちに転んでもなるべく損をしないようにと、していた実例であるといえよう。
57.1.4.大内道頓の最後
さて、吉見の全面的支援を得た道頓は、さらに石西諸族の附属によってその勢力を回復し、長門大津郡豊田の江良城に拠った。
しかし道頓は各地において陶弘護の猛攻を受け、ついに赤間関に退去のやむなきに至る。
一方、在京中の大内政弘は分国の内乱を憂慮し、 弘護を通じて防長の諸族を督励するとともに、文明3年5月、益田貞兼を下向させて陶弘護を援助させた。
また大内政弘の母は、石見国の領主たちの中で最も有力な益田氏へ何度も手紙を送り、見返りを約束して味方に引き入れるなど政治的役割を担い、手腕を発揮したといわれている。
益田貞兼は、下向の前に「神文」を大内政弘に送って誠意を誓っている。
それは、大内政弘が、益田一族の動静に憂慮していることを察した貞兼があえて忠誠心を示そうとしたからである。
これに対して、政弘はなおいっそうの忠誠を求めている。
長々の御在京御辛労祝着候、かねてまた御進退については縦者親子兄弟の御中自然如何の躰の子細候といへども、 等閑なく申し承 るべく候、如在あるべからず候儀に候 (五月二十七日、政弘より益田治部少輔へ)
この文書と同時に政弘は、貞兼の父益田兼堯にも同趣旨の文書を送ってその協力を依頼している。
益田貞兼は下向とともに弘護を援けて、道頓・吉見を主軸とする反乱軍に対して猛攻を開始したので、形勢一変して反乱軍は各地において制圧された。
道頓勢の主力は長門豊浦郡豊田奥村の一の瀬山や同郡枝村下山の江良城などを前進基地として、なお抵抗を 続けていた。
しかし、大勢はすでに決して、吉見を津和野に追い込めた貞兼勢は弘護の主力に合流して長門豊田城を陥れ、赤間関に進撃したので、道頓は豊前に奔り、京都(みやこ)郡稗田の馬岳に拠る。
道頓勢を追って九州に渡った弘護勢は、下の関の対岸企救部に入り、小倉城などを攻略するに至って、道頓勢には脱走者多く、文明3年(1471年)12月、反乱軍最後の拠点馬岳も陥り、道頓は自殺して事変は終った。
道頓の変後、美濃郡内の吉見領は益田氏の領有するところとなったが、吉見の勢力は必ずしも衰えていたとは言えない。
文明7年(1475年)冬、吉見信頼は大挙して長門の徳佐城を攻めた。
陶弘護は大兵をもって徳佐を援け、益田貞兼は弘護に呼応して鹿足郡吉見領に侵入、長野・吉賀地方を占領するに至ったので、信頼は津和野へ敗退した。
その後
吉見信頼は応仁の乱終結後に帰国した大内政弘に和睦を求め許された。
しかし、陶氏との不和は続いた。
文明14年(1482年)5月27日、大内政弘は諸将を招いて酒宴を催した。
その席に吉見信頼も出席し、政弘からの歓待を受けた。
ところが、その席上で吉見信頼は陶弘護を刺したのである。
信頼はその場で内藤弘矩(長門守護代)に討ち果たされてしまう。
吉見信頼は山口に出発する前に弟の頼興に家督を譲っており、決意するところがあって酒宴に臨んだようである。
陶弘護は、吉見信頼が大内道頓に味方したことはいかに善意に解しても大内家に対する誠実は認められず、将来の 禍根と受け取っていたのである。
陶弘護の妻は日頃領境を争っている益田の娘であって、弘護は益田を厚遇し、応仁の乱後の論功行賞に削減された領地が益田に与えられているのもすべて弘護のによるものと推測し、その刺殺を決意したものと思われる。
この事件はやがて吉見・益田両家 の多年にわたる不和怨恨に結びつく。
<続く>