Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

坂口安吾『白痴・二流の人』

2009-03-10 01:21:25 | 文学
今日読んだ本というわけではないのですが、坂口安吾『白痴・二流の人』について。
収録作品は、「木枯の酒倉から」「風博士」「紫大納言」「真珠」「二流の人」「白痴」「風と光と二十の私と」「青鬼の褌を洗う女」の8つ。

ぼくは「風博士」が大好きで、何年も前に立ち読みで冒頭部分だけを読んでからのファンなのですが、通して読んだのはこの本が初めてでした。ナンセンス文学、ファルスの代表的な作品に挙げられますよね。

ところで久々に昭和初期の日本の作家の小説を読んでみて印象に残ったのは、その文体です。特に「木枯の酒倉から」は、言っちゃナンですがひどい悪文で、文意がきちんと把握できないほど。こういう文体の文章は、海外の翻訳小説では滅多に味わえないです。やはり学者先生が訳している場合がほとんどなので、文章が正しい文法に則っていて乱れがないのです。一方で文章を崩すとなると徹底的に崩すので、中間である「奇妙な味わいの悪文」にはお目にかかれません。

翻訳小説は文体がちっともおもしろくないことが多いということに、安吾の小説を読んで初めて気が付きました。翻訳は整頓されているんですよね。普通の叙述は一つの目的に向かって流れているように淀みがありませんし、意図的に可笑しな文体にするときでさえ、それは「可笑しな文体」という制約に嵌められているのです。つまり文体が良くも悪くも一つの型に捉われているということです。ところが安吾の文章は変幻自在です。これは「木枯の」に限ったことではありません。助詞の使い方などを見ても、翻訳ではこうはできないなあと思うこと頻り。やはり文学を深く理解するには、原文で読まないと駄目だってことなのかもしれません。

さて安吾の代表作は「白痴」ですが、この本で一番気に入ったのは「紫大納言」です。紫の大納言という人が月の国の侍女が落とした小笛を拾ったことから災難に巻き込まれてゆく顛末を描いています。終わり方に救いがまるでなくて、残酷物語のような結末になっているところがしびれました。それでいて幻想的な、美しい最後なんですよね。

その他の小説は、(「風博士」を除いて)あんまり好みではないかもしれません。そこそこおもしろく読めるのですが、全体的に平凡な印象を受けてしまいます。ただ、「風と光と」の最後のページにある一節はぼくの今の気持ちを言い当てているような気がして、どきっとしました。「私は少年時代から小説家になりたかったのだ。だがその才能がないと思いこんでいたので、そういう正しい希望へのてんからの諦めが、そこに働いていたこともあったろう」。たぶんぼくだけではなく、多くの人にも当てはまる文章ですね。もちろん、希望は「小説家」でなくてもなんでもいいのですが。

安吾の『不連続殺人事件』は日本のミステリ史に残る小説のようなので、次はこれも読んでみたいです。