KGセミナー塾長の日記 生徒との日々の生活と高校野球 個人塾型予備校を始めて、36年目になります。

初めての人は、2008年2月26日の「みんなに伝えたい話」を読んで下さい。私がこの仕事をやり続ける支えとなった話です。

野村克也

2020年02月13日 | スポーツ

 「俺は、南海ホークスに行く。杉浦、一緒に行こう!」と誘ったのは、長嶋だった。立教大学の2年先輩だった南海の外野手、大沢啓二を通じて、栄養日という名目で、当時の大学初任給より高い金額を長嶋に手渡していた南海ホークス。今のようなドラフト制度がない時代。あのまま、もしも長嶋が南海ホークスに入団していたら、野村克也の「月見草」は、きっと生まれていなかった。いやそれどころか、プロ野球が今ほど人気を博していなかったかもしれない。

 長嶋が巨人に行くということで、慌てた鶴岡一人は、杉浦に会いに行く。「心配ですか。僕がそんな男に見えますか。」とだけ言って、ほほえみを浮かべた杉浦。この時に、鶴岡と杉浦には、男と男の目には見えない絆がしっかりと結ばれた。後に、広瀬、杉浦、野村らの前で、酒が入って気持ちが高ぶった鶴岡は、「何が三冠王や、何が本塁打王や。ちゃんちゃらおかしいわ。本当に貢献したのは、杉浦だけや!」と言い放ったと伝えられている。鶴岡との深まっていく溝。野村は、ついに、南海ホークスを追われてしまった。

 南海ホークス。かつては関西地方で圧倒的な人気を誇った球団だった。それが、だんだんと、「南海ファン」と口に出すのが恥ずかしくさえなっていく。ユニフォームが、明るい黄緑になったころからが狂い始めてしまったのか・・・。かつてはモスグリーンが基調だった。そしてあの当時のヘルメット。確か、苔が生えているような感じのヘルメットだったような気がする。プロ野球を見に行くこと、それは、あのすり鉢のような、難波球場に南海の試合を見に行くことだった。

 父に何度も連れて行ってもらった難波球場。試合なんかほとんど忘れてしまったが、あの応援団長のだみ声は、いまだに耳に残っている。ただ、あの試合だけははっきりと覚えている。私が小学4年生ぐらいだったのだろうか。野村が1試合に3本ホームランを打ったのだ。父も私も大喜びで、南海電車で和歌山に帰ってきたのを覚えている。野村が1試合で3本ホームランを打ったのは、3017試合の中で4試合だけ。父も今年の1月に亡くなり、野村も亡くなった。新しい時代になり、スポーツも、明るく、楽しい、ただそれだけのものになってしまった気がする。だからこそ余計に、あのダミ声が耳の奥でうねってくる。

 杉浦は、昭和33年に入団してわずか7年で、164勝を挙げたが、その後右手の血行障害で満足な投球ができなくなっていたので、彼の全盛時代を知らない。野村克也。幼かった私にとって、彼こそが一番のスターだった。しかし、いくら活躍しても、いくらホームランを打っても、マスコミに大きく取り上げられることはなくなっていく。だからこそ、野村は、ボヤくのだ。

 しかし、南海ホークスを追われたからこそ、監督、野村克也が生まれる。彼こそ、自分に起こったすべてのことを、自分にとってプラスに変えていった1流のポジティブシンキングな人だった。プロ野球で監督をやった人が、社会人野球の監督を普通の神経の人はできるはずがない。彼は、「~するはずだ。」という固定観念を自ら破壊していった人だ。究極のポジティブな人が、「ぼやく」からこそ、そのボヤキに輝きが増す。おやじ、野村もそっちに行ったよ。


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