848)体に優しいがん治療(その2):がん組織をアルカリ化するとがん細胞は死滅する

図:がん細胞ではグルコースの取り込みと解糖系での代謝が亢進し、乳酸と水素イオン(H+)が増え(①)、水素イオンはV型ATPアーゼ(V-ATPase)で細胞外に排出され(②)、がん細胞外に水素イオンが貯留して酸性化している(③)。がん細胞では低酸素誘導因子-1(HIF-1)の発現と活性が亢進してピルビン酸脱水素酵素キナーゼの発現を誘導し(④)、ピルビン酸脱水素酵素の活性を阻害している(⑤)。その結果、ピルビン酸からアセチルCoAの変換が阻止され、ミトコンドリアのTCA回路での代謝と酸化的リン酸化によるATP産生が抑制されている。ジクロロ酢酸ナトリウムはピルビン酸脱水素酵素キナーゼとHIF-1(低酸素誘導因子-1)を阻害する機序で、ピルビン酸脱水素酵素の活性を亢進してミトコンドリアでの代謝とATP産生を促進する(⑥)。2-デオキシ-D-グルコース(2-DG)はヘキソキナーゼとヘキソース・フォスフェート・イソメラーゼの活性を阻害し解糖系での代謝を阻害する(⑦)。プロトンポンプ阻害剤はV型ATPアーゼの活性を阻害して、水素イオンの細胞外排出を阻止する(⑧)。重曹(重炭酸ナトリウム)はがん細胞外に貯留している水素イオンを中和し、がん組織をアルカリ化する(⑨)。発酵小麦胚芽エキスの活性成分の2,6-ジメトキシベンゾキノンはグルコースの取り込みと解糖系と乳酸産生を阻害し、ミトコンドリアの酸化的リン酸化を亢進する(⑩)。これらの相乗効果によって細胞内pH(pHi)を低下させ、細胞外pH(pHe)を上昇して、pHiとpHeを正常細胞に近づけることによって、がん細胞の増殖や細胞死抵抗性を抑制し、抗がん剤治療や免疫療法の抗腫瘍効果を高めることができる(⑪)。


848)体に優しいがん治療(その2):がん組織をアルカリ化するとがん細胞は死滅する

【がん細胞は大量の水素イオンを産生している】
細胞のエネルギー源は主にグルコース(ブドウ糖)であり、グルコースを分解してエネルギー(ATP)を産生します。この際、細胞質では酸素を使わない解糖でATPが少量産生され、さらにミトコンドリアで酸素を使った酸化的リン酸化で大量のATPが産生されます。
がん細胞の代謝の特徴は、酸素が十分にあってもミトコンドリアでの酸化的リン酸化によるATP産生が抑制され、酸素を使わないグルコースの分解(解糖)が亢進していることです。そのため、グルコースの取込みが増え、乳酸と水素イオンの産生が増えています。

解糖系ではグルコースからピルビン酸、ATP、NADH 、H+が作られます。嫌気的解糖(乳酸発酵)では、NADH と H+を還元剤として用いてピルビン酸を還元して乳酸に変換します。乳酸に変換する反応でNAD+を再生することによって解糖系での代謝が続けられます。(下図)

図:解糖系ではグルコースからピルビン酸とATPが作られる。嫌気性解糖系(乳酸発酵)では、NADH + H+を還元剤として用いてピルビン酸を還元して乳酸にする。乳酸に変換する反応によってNAD+を再生することによって無酸素状態で解糖系での代謝が続けられる。乳酸はイオン化して水素イオン(プロトン)を増やす。その結果、解糖系が亢進すると、細胞内で乳酸とプロトン(H+)が増える。

解糖系が亢進すると、細胞内で乳酸と水素イオン(H+)が増えます。嫌気的解糖の反応をまとめると以下のような化学反応になります。

グルコース+ 2 ADP → 2 ATP + 2 乳酸 + 2 H+ + 2 H2O

水素イオン(H+)が蓄積して細胞内のpHが低下して酸性になると細胞内のタンパク質の活性や働きは阻害され、pH低下が顕著になれば細胞は死滅します。そこで、がん細胞は乳酸や水素イオン(プロトン)を細胞外に積極的に排出しています
乳酸はモノカルボン酸トランスポーター(MCT)という輸送担体で細胞外に排出され、水素イオンは液胞型プロトンATPアーゼ、モノカルボン酸トランスポーター(MCT)、Na+-H+交換輸送体1(NHE1)などによって細胞外に放出されます。(図)

図:がん細胞は解糖系によるグルコース代謝が亢進して乳酸と水素イオンの産生量が増える(①)。細胞内の酸性化は細胞にとって有害になるので、細胞はV型ATPアーゼ(V-ATPase)やモノカルボン酸トランスポーター(MCT)やNa+-H+交換輸送体1(NHE1)などを使って、細胞内の乳酸や水素イオンを細胞外に排出する(②)。その結果、がん細胞の周囲はpHが低下してがん組織は酸性化している(③)。組織が酸性化すると、がん細胞の浸潤・転移や血管新生が促進され、免疫細胞の働きが抑制される(④)。

がん組織の微小環境は血液やリンパ液の循環が悪いので、水素イオンはがん組織に蓄積します。その結果、がん細胞の周囲の組織は水素イオンの濃度が高くなってpHが低下します。正常の組織のpHは7.3〜7.4程度とややアルカリ性ですが、がん組織の微小環境のpHは6.2〜6.9とより酸性になっています。
がん組織の酸性化した微小環境は、がん細胞の生存にとって様々なメリットを与えます。組織が酸性化すると正常な細胞が弱り、結合組織を分解する酵素の活性が高まるため、がん細胞が周囲に広がりやすくなり、さらに血管新生が誘導されるので、がん細胞の浸潤や転移が促進されます。組織が酸性になるとがん細胞を攻撃しにきた免疫細胞の働きが弱ります。
薬品はイオン化すると脂質二重層の細胞膜を通過できません。塩基性の抗がん剤は、酸性の組織ではイオン化したものが増えるので、がん細胞内に入り込むことができなくなります。

したがって、がん組織の酸性化を抑制しアルカリ化を促進すれば、がん細胞の浸潤や転移を抑制し、さらに抗がん剤治療や免疫療法の効き目を高めることができることになります。さらに、水素イオンの排出メカニズムを阻害してがん細胞内のpHを低下させれば、がん細胞を死滅させることもできます。
これが、がん組織をアルカリ化する「がんのアルカリ療法」ががん治療に役立つ根拠です。がん組織をアルカリにする方法は多数あり、これらを組み合わせてがん組織をアルカリ化できれば、がん細胞の増殖を抑え、さらにがん細胞を死滅することができます。
オットー・ワールブルグ博士は「がん細胞はアルカリ性と酸素が豊富な環境では生きていけない」と言っています。

【がん細胞と正常細胞では、細胞内と細胞外の酸塩基平衡が逆転している】
がん組織は正常組織より酸性化しています。正確には、がん細胞内はアルカリ性で、がん細胞外が酸性化しています
がん細胞では解糖系の亢進によって、乳酸水素イオン(プロトン)の細胞内での産生が亢進しています。したがって、「がん細胞内も酸性化している」と思うかもしれません。しかし事実は逆で、がん細胞内では正常細胞よりアルカリ性になっていることが明らかになっています。
そして、細胞内をアルカリにすることが、細胞の発がん過程の初期から起こっており、これが解糖系を亢進する重要な要因になっているのです。がん細胞でワールブルグ効果(解糖系亢進と酸化的リン酸化の抑制)が成立する前に細胞内のアルカリ化が起こっていることが明らかになっています。

水素イオン指数(pH:potential of hydrogen)は水素イオンの濃度を表す物理量です。pHの読みは「ピーエイチ」(英語読み)、または「ペーハー」(ドイツ語読み)です。pHは数値が低いほど酸性(水素イオン量が多い)、数値が高いほどアルカリ性(水素イオン量が少ない)になります。
細胞内のpH(pHi)と細胞外のpH(pHe)のpH勾配は正常細胞とがん細胞では逆になっています。すなわち、正常細胞では細胞内に比べて細胞外の方がよりアルカリ性で、がん細胞では細胞内がアルカリ性で細胞外が酸性になっています。

がん遺伝子を導入して細胞をがん化させる実験で、細胞ががん化する過程で、細胞内のエネルギー産生系がミトコンドリアの酸素呼吸(酸化的リン酸化)から解糖系にシフトします。この実験で、細胞のがん化が進むにつれて、細胞内がよりアルカリ性になり、細胞外がより酸性になることが示されています。このpH勾配を少なくする、あるいは正常化する(細胞内を酸性にして、細胞外をアルカリ性にする)ことががん治療のターゲットとして注目されています。

細胞内のpHは、細胞増殖の制御、増殖因子やがん遺伝子の活性、ミトコンドリアの活性、酵素活性、DNA合成、細胞分化など様々な細胞機能に影響しています。正常細胞では細胞内のpH(pHi)は6.99〜7.05とほぼ中性で、がん細胞では細胞内のpH(pHi)は7.12〜7.7とアルカリ性です。一方、細胞外のpH(pHe)は正常細胞が7.3 〜7.4とアルカリ性であるのに対して、がん細胞の細胞外のpH(pHe)は6.2〜6.9と酸性です。したがって、細胞内外のpH勾配は正常細胞とがん細胞では逆になっています(下図)。

図:正常細胞では細胞内pH(pHi)は6.99〜7.05とほぼ中性で、細胞外pH(pHe)は7.3〜7.4とアルカリ性になっていて、pHeがpHiより高い。一方、がん細胞では細胞内pH(pHi)は7.12〜7.7とアルカリ性になって、細胞外pH(pHe)は6.2〜6.9と酸性になって、pHiがpHeより高い。

【重炭酸ナトリウム(重曹)は食品や洗剤や医薬品として利用されている】
重炭酸ナトリウム(sodium bicarbonate)重炭酸ソーダ(略して重曹)や炭酸水素ナトリウム(sodium hydrogen carbonate)とも呼ばれます。化学式は NaHCO3で表わされます。
重炭酸ナトリウムは加熱によって二酸化炭素を発生する性質を利用してベーキングパウダー(ふくらし粉)として調理に使用されます。口中で炭酸ガスを発生させるソーダ飴などには粉末で封入されます。水に重炭酸ナトリウムとクエン酸を混ぜると炭酸ガスが発生し炭酸水となるので、飲料の材料としても用いられます。砂糖を加え「サイダー」にしたり、レモンを加え「レモンソーダ」にすることもできます。
台所や風呂場の掃除に使う洗剤や洗濯の洗剤としても使用されています。
歯磨き粉にも使用されています。歯を白くすると宣伝されています。
医薬品としては、胃酸過多に対して制酸剤として使われたり、酸性血症(アシドーシス)の治療に使われています。過剰に摂取するとナトリウムの過剰摂取が問題になりますが、適切な量であれば、安全性の高い化合物です。

さらに、重曹はスポーツサプリメントとしても広く使用されています。オリンピック出場レベルのアスリートが運動パファーマンスを高める目的で重曹を摂取しています。
スポーツ栄養学の学会が重曹の有効性を公式見解として報告しています。
中距離走の1〜2時間くらい前に重曹(0.2〜0.3g/kg体重)を摂取すると400m走や800m走の陸上競技のタイムが平均2〜3%程度良くなることが報告されています。
国際スポーツ栄養学会は公的見解として、「重曹(0.2〜0.5 g/kgの用量)の補給は、筋肉の持久力活動、ボクシング、柔道、空手、テコンドー、レスリングなどのさまざまな格闘技、および高強度のサイクリング、ランニング、水泳、ボート漕ぎのパフォーマンスを向上させる。重曹の運動能力向上効果は、主に30秒から12分間続く高強度の運動で認められる。」と報告しています。(J Int Soc Sports Nutr. 2021 Sep 9;18(1):61.)

筋肉に水素イオンや乳酸が蓄積するような無酸素運動や、高強度の運動の前に重曹を体重1kg当たり0.2gから0.3g(体重60kgで12gから18g)を運動の1時間から3時間くらい前に摂取すると、運動パフォーマンスを有意に高めることができることは間違いないということです。
この重曹の運動能力向上の有効性に関してはIOC(国際オリンピック委員会)の公式見解でも認めています。(Br J Sports Med. 2018 Apr;52(7):439-455.)詳細は788話で解説しています。
このように、重曹(重炭酸ナトリウム、炭酸水素ナトリウム)は極めて多様な目的で日常生活に利用されています。

図:重曹(重炭酸ナトリウム)はベーキングパウダー(ふくらし粉)、歯磨き、洗剤、胃酸過多の治療、炭酸水の作成、運動能力を高めるスポーツドリンクなど、極めて多様な目的で利用されている。

【野菜や果物は体をアルカリ化し、肉は酸性化する】
食品は栄養成分に応じて体に酸性またはアルカリ性の負荷をかけますが、体はこの負荷を緩衝して、安定した血液pHを維持します。
高タンパク食品(肉、魚、乳製品)は有機酸と硫酸の生成を増加させ、酸の負荷を増加させます。野菜や果物のようにクエン酸カリウムやリンゴ酸カリウムなどのカリウム塩が豊富な食品は、重炭酸カリウムに代謝され、体液をアルカリ化する効果があります。
果物や野菜などのアルカリ性食品が少なく、肉や魚や乳製品などの酸性食品を多く含む食事は、血液が酸性に傾いた状態(代謝性アシドーシス)を導き、そのことが様々な病気の発症に影響を与える可能性が指摘されています。

アルカリ食の一般的な概念は、血液をアルカリ性にするというものですが、血液のpHは7.35から7.45のアルカリ性pHで非常に厳密に調整されているため、アルカリ食で体内がアルカリ化するわけではありません。同様に酸性食品で血液のpHが酸性状態に変化することはありません。血液のpH緩衝能は高いので、酸性食を多く摂取しても血液pHが酸性化することはありません。しかし、体内の酸塩基平衡において、酸性に傾いた状態に導きます。
食事の酸塩基バランスを表す指標に潜在的腎臓酸負荷(potential renal acid load : PRAL)があります。PRALは以下の式で算出されます。

PRAL(mEq/d)=0.4888×たんぱく質(g/d)+0.0366×リン(mg/d)-0.0205×カリウム(mg/d)-0.0125×カルシウム(mg/d)-0.0263×マグネシウム(mg/d)

つまり、食事中のタンパク質とリンの量は潜在的腎臓酸負荷(PRAL)を増やし、カリウム、カルシウム、マグネシウムはPRALを減らします。
動物性タンパク質は、イオウ含有アミノ酸であるメチオニンとシステインを多く含み、体内で硫酸と水素イオンを形成するため、食事の酸の最大の供給源です。水素イオンは、食事中のリン酸塩の代謝からも提供されます。動物の肉や卵も、体内で水素イオンを形成する成分を多く含みます。動物性タンパク質、特に肉、卵、チーズは、体内で大量の酸を形成する原因となります。
一方、果物や野菜は、クエン酸塩、リンゴ酸塩、グルコン酸塩などの有機アニオンを多く含み、体内で重炭酸塩に変換されます。重炭酸塩は、酸を中和する塩基です。
したがって、動物性食品は正の潜在的腎酸負荷(PRAL)ですが、植物性食品は負のPRALを持っています。さまざまな食品のPRALを下の表に示します。一般的に、肉、魚、乳製品、穀類は食事性酸負荷を高め、野菜と果物と豆類はアルカリ性食品と言えます。油脂類は酸負荷はほとんどありません

表:様々な食品の可食部100g当たりの潜在的腎臓酸負荷(potential renal acid load:PRAL)を示す。PRALがプラスは酸性食品で、マイナスはアルカリ食品になる。(参考:Nutrient. 2020 Apr; 12(4): 1007)

【がん組織の酸性化に関与するV型ATPアーゼ(V-ATPase)】
がん細胞の水素イオンの排出に大きな役割を果たしているのがV型ATPアーゼ(V-ATPase)です。V-ATPasse (vacuolar ATPase)は液胞型ATPアーゼ、V型ATPアーゼ、液胞型プロトンポンプなどと訳されています。
ATPアーゼとはATP(アデノシン三リン酸)の末端高エネルギーリン酸結合を加水分解する酵素群の総称で、ATPを使って生物活動に行うタンパク質の多くがこの活性を持っています。
V型ATPアーゼは液胞のプロトン(水素イオン)の能動輸送を行うATPアーゼ活性をもったタンパク質で、ATPのエネルギーを使ってプロトン(水素イオン)を能動的に細胞膜を通して輸送します
V-ATPase は、10数個の異なるサブユニットから構成される分子量約 800 KDaの分子複合体で、ATP の加水分解反応と共役した回転触媒機構により水素イオン(プロトン)を輸送し、空胞内部を酸性化します。

図:V-ATPase(V型ATPアーゼ)は液胞のプロトン(水素イオン)の能動輸送を行うATPアーゼ活性をもったタンパク質で、ATPのエネルギーを使ってプロトン(水素イオン)を能動的に細胞膜を通して輸送する。V-ATPase は、10数個の異なるサブユニットから構成される分子量約 800 KDaの分子複合体で、ATP の加水分解反応と共役した回転触媒機構により水素イオン(プロトン)を輸送し、空胞内部を酸性化する。


がん細胞ではこのV型ATPアーゼの発現が亢進しており、がん組織の酸性化に関与しています。V型ATPアーゼの発現量が多いほど、がん治療に抵抗し、再発しやすく生存期間が短いという報告もあります。
V型ATPアーゼの阻害薬ががんの治療薬として開発が行われていますが、胃酸分泌阻害剤として使用されているプロトンポンプ阻害剤がV型ATPアーゼを阻害する作用があることが知られています。

胃潰瘍の治療に使われるプロトンポンプ阻害剤は、主に胃のH+/K+ATPasesを阻害しますが、V型ATPaseも阻害します。
実際に、動物の移植腫瘍を使った実験などで、プロトンポンプ阻害剤が腫瘍組織の酸性化を改善して抗がん剤や免疫療法の効果を高める作用が報告されています。
細胞膜を隔てた物質の輸送には、濃度の高い方から低い方に向かって行われる受動拡散と、濃度勾配に逆らって物質の輸送を行う能動輸送の2種類があります。
受動拡散の場合の膜を通るルートの膜貫通タンパク質はチャネル(channel)と言い、能動輸送に関与する膜貫通タンパク質はポンプ(pump)と言います。濃度勾配に逆らって物質を輸送するためにはATPによるエネルギーが必要です。

ATPのエネルギーを使って、水素イオンを能動的に輸送するトランスポーターとしてがん細胞における水素イオンの細胞外への排出に関与しているのがV型ATPアーゼ(vacuolar ATPase, V-ATPase)です。つまり、ATP依存性のプロトンポンプです。
V-ATPase は、細胞のゴルジ体、液胞、リソソーム、細胞膜等の膜系に存在し、10数個の異なるサブユニットから構成される複合体です。ATP の加水分解反応と共役した回転触媒機構により水素イオン(プロトン)を輸送し、空胞内部を酸性化します。
例えばリソソームは細胞内に蓄積された不要物を分解したり、細胞外から取り込んだ物質を分解する小胞で、リソソームの内部は酸性条件下で活性化される加水分解酵素が含まれています。このリソソームの空胞内部に水素イオンを輸送して内部を酸性にするのがV-ATPaseです。
細胞内では、外部の物質を取り込んで消化するエンドサイトーシスや、細胞内の古くなった小器官などを消化するオートファジーなど、細胞内での物質の分解は膜で囲まれた小胞内で行われ、この内部の加水分解酵素の活性化に必要なpHに下げる役割がV-ATPaseです。
そして、がん細胞では、細胞内で大量に生成した水素イオンを細胞の外に排出する役割も担っています。

【V-ATPaseを阻害するとがん細胞の増殖・転移は抑制される】
Vacuolar ATPaseはATP依存性のプロトンポンプで、プロトン(H+:水素イオン)を細胞膜を通して外に排出します。正常細胞では細胞内pHの調節に重要な役割を果たしています。
がん細胞では、さらに重要な役割を担っています。それはがん細胞では、解糖系の亢進によって乳酸と水素イオンの産生が増えて、細胞内が酸性になりやすい状況になり、細胞内の酸性化を防がないと細胞死を起こすからです。
したがって、がん細胞ではこのV-ATPaseの発現量が顕著に増えています。V-ATPaseの発現量増加ががん細胞の浸潤や転移や抗がん剤抵抗性と関連していることが明らかになっています。

がん細胞の周囲が酸性になると、正常細胞(特に免疫細胞)がダメージを受けて働きが抑制され、結合組織を分解する酵素が活性化されて、転移や浸潤や血管新生が促進されます。
さらに、がん細胞の周囲が酸性だと、多くの抗がん剤は塩基性であるため、がん細胞内に集まりにくくなります。
そのため、がん細胞におけるプロトンポンプの働きを阻害すると、がん細胞の浸潤や転移や抗がん剤抵抗性を抑制できると考えられています
V-ATPaseそのものの阻害を目的にした抗がん剤の開発も行われていますが、まだ臨床で使えるものはありません。しかし、胃潰瘍の治療に使用されるプロトンポンプ阻害剤が、このV 型 ATPaseを阻害することが報告されています

図:がん細胞は解糖系によるグルコース代謝が亢進して乳酸と水素イオン(プロトン、H+)の産生量が増える(①)。細胞内の酸性化は細胞にとって障害になるので、細胞はV型ATPアーゼ(vacuolar ATPase:液胞型ATPアーゼ)やモノカルボン酸トランスポーター(MCT)などの仕組みを使って、細胞内の乳酸や水素イオン(プロトン)を細胞外に排出する(②)。その結果がん細胞の周囲はpHが低下してがん組織は酸性化している(③)。組織が酸性化すると、細胞傷害性T細胞のようながん細胞を攻撃する免疫細胞の働きが阻害される。塩基性の抗がん剤は酸性の組織に到達しにくくなり抗がん剤が効かなくなる。さらに、周囲の正常細胞がダメージを受け、タンパク分解酵素が活性化してがん細胞の浸潤や転移が促進される。腫瘍を養う血管の新生も誘導される(④)。胃酸分泌阻害剤として使われているプロトンポンプ阻害剤はV型ATPアーゼ(V-ATPase)を阻害することによって、がん組織の酸性化を抑制し、がん細胞の浸潤や転移を抑制し、抗がん剤や免疫療法が効きやすくする(⑤)。さらに、がん細胞内の酸性化が亢進すると、がん細胞を死滅できる(⑥)。

プロトンポンプ阻害剤(Proton Pump Inhibitor: PPI)は胃の壁細胞のプロトンポンプに作用し、胃酸の分泌を抑制する薬です。医薬品としては、オメプラゾール(オメプラール、オメプラゾン)、ランソプラゾール(タケプロン)、ラベプラゾールナトリウム(パリエット)、エソメプラゾール(ネキシウム)など多数の薬が販売されています。
がんのアルカリ療法では私はエソメプラゾール(商品名:ネキシウム)を使っています。エソメプラゾールは別のプロトンポンプ阻害剤のオメプラゾールの光学異性体(S体)です。ラセミ体のオメプラゾールに比べ、血中への移行が良好で、高い血中濃度が得られます。また、薬の代謝に個人差がそれほどないため、ばらつきのない より安定した臨床効果が期待できます。
エソメプラゾールは、他のプロトンポンプ阻害剤と同様に、壁細胞の酸性環境に対して高い特異性を持っており、そこで蓄積され、活性化され、プロトンポンプを共有結合的に阻害します。

【プロトンポンプ阻害剤は抗がん剤の効き目を高める】
動物実験のレベルでは、プロトンポンプ阻害剤ががん細胞の抗がん剤感受性を高める効果、がん細胞に対する免疫細胞の働きを高める効果、がん細胞内の水素イオン濃度を高めてがん細胞を死滅させる効果などが多数報告されています。
臨床試験での有効性も報告されています。以下のような報告があります。

Effects of omeprazole in improving concurrent chemoradiotherapy efficacy in rectal cancer.(直腸がんの同時化学放射線療法の有効性の改善におけるオメプラゾールの効果)World J Gastroenterol. 2017 Apr 14;23(14):2575-2584.

この研究では、同じ術前化学放射線療法を受け、その後に手術を受けた125人の直腸がん患者を対象に、オメプラゾールを併用した場合の効果を検討しています。術前化学放射線療法中にオメプラゾール総使用量200mg以上をオメプラゾール併用群とし、オメプラゾール非使用または総使用量が200mg以下をコントロールとして比較しています。
術前化学放射線療法の奏功率は、オメプラゾール併用群が50.8%で、非併用群の30.6%と比較して有意に増加しました
再発率はオメプラゾール併用群で10.3%であり、非併用群の31.3%と比較して有意に減少していました
つまり、オメプラゾールは術前化学放射線療法の有効性を改善し直腸癌の再発を減少させるという相乗効果が認められています。
以下のような論文があります。

Proton pump inhibitor chemosensitization in human osteosarcoma: from the bench to the patients' bed.(ヒト線維肉腫におけるプロトンポンプ阻害剤による抗がん剤感受性の亢進;実験台の結果から臨床へ) J Transl Med. 2013 Oct 24;11:268. doi: 10.1186/1479-5876-11-268.

この臨床試験では手術可能な骨肉腫の患者を対象にして、プロトンポンプ阻害剤のエソメプラゾール(esomeprazole)を術前補助化学療法(メソトレキセート+シスプラチン+アドリアマイシン)の投与を受ける前の2日間の内服を受けています。そして手術後の腫瘍組織の病理検査で、抗がん剤治療によってがん組織が壊死した程度を、過去のデータと比較しています。
その結果、抗がん剤治療が良く効いた症例(good responder:壊死した腫瘍部分が90%以上)の割合は抗がん剤治療単独では47%に対して、抗がん剤にプロトンポンプ阻害剤を併用した場合は57%に増加するという結果が得られています
治療に抵抗性の軟骨芽骨肉腫(chondroblastic osteosarcoma)の場合は、抗がん剤単独ではgood responderは25%に対してプロトンポンプ阻害剤を併用すると61%になるという結果が得られています。そして、副作用の程度は両群で差は認められていません。
プロトンポンプ阻害剤を服用してがん組織のpHをアルカリ側にすることはがん治療にプラスになると言えそうです。 次のような論文もあります。

Lansoprazole as a rescue agent in chemoresistant tumors: a phase I/II study in companion animals with spontaneously occurring tumors (抗がん剤抵抗性腫瘍の救援成分としてのランソプラゾール:自然発症腫瘍をもつペット動物における第I/II相試験)J Transl Med. 2011; 9: 221.

ランソプラゾールはタケプロンという商品名の胃酸分泌阻害剤です。 
抗がん剤単独(犬10匹+猫7匹)と 抗がん剤+ランソプラゾール((犬27匹+猫7匹)で検討し、抗がん剤単独群では17%に短期間の部分奏功を認めましたが、その他は全て2ヶ月以内に死亡しました。ランソプラゾールを併用した群では部分奏功+完全奏功が67.6%で、奏功しなかった動物でもQOLの改善を認めました。 

【プロトンポンプ阻害剤とジクロロ酢酸ナトリウムは相乗効果でがん組織の酸性化を軽減する】
ジクロロ酢酸ナトリウムピルビン酸脱水素酵素キナーゼを阻害してピルビン酸脱水素酵素を活性化して、ミトコンドリアでの酸素呼吸(酸化的リン酸化)を亢進し、乳酸とプロトンの産生を抑制します。
ジクロロ酢酸ナトリウムは低酸素誘導因子-1(HIF-1)の活性を抑える作用もあります。HIF-1はピルビン酸脱水素酵素キナーゼの発現を誘導します。さらにHIF-1は乳酸脱水素酵素を活性化するので、HIF-1の活性阻害は乳酸とプロトンの産生を減らします。
ジクロロ酢酸ナトリウムでピルビン酸からアセチルCoAへの変換を促進すると乳酸の産生が抑制されます。プロトンポンプ阻害剤とジクロロ酢酸ナトリウムの併用は、がん組織の酸性化を抑制する効果を高めることになります。(下図)

図:がん細胞内では解糖系が亢進し、ピルビン酸を乳酸に変換する乳酸脱水素酵素(LDH)の活性が亢進して乳酸と水素イオン(プロトン)の産生が亢進している(①)。がん細胞内での酸性化を回避するため、液胞型プロトンATPアーゼ(V-ATPase)などのイオンポンプやトランスポーターなどを使って、プロトン(H+)を細胞外に排出している(②)。その結果、がん組織が酸性化する(③)。がん細胞では低酸素誘導性因子-1(HIF-1)の活性が亢進し、ピルビン酸脱水素酵素キナーゼの活性が亢進して、ピルビン酸脱水素酵素の活性が阻害されている(④)。ジクロロ酢酸ナトリウムはピルビン酸脱水素酵素キナーゼを阻害することによって(⑤)ピルビン酸脱水素酵素を活性化し、ミトコンドリアでの代謝を亢進する(⑥)。その結果、乳酸とプロトンの産生を減らす。ジクロロ酢酸ナトリウムは低酸素誘導因子-1(HIF-1)の活性を抑える作用もある(⑦)。HIF-1は乳酸脱水素酵素(LDH)を活性化するので(⑧)、ジクロロ酢酸ナトリウムはHIF-1の活性阻害を介してLDHの活性を抑制して乳酸とプロトンの産生を減らす作用もある。


線維肉腫細胞(HT1080)を移植したヌードマウスの実験モデルで、ジクロロ酢酸ナトリウムとオメプラゾールは相乗的に増殖を抑制するという報告があります。

Cotreatment with dichloroacetate and omeprazole exhibits a synergistic antiproliferative effect on malignant tumors. (ジクロロ酢酸とオメプラゾールの併用投与は悪性腫瘍に対して相乗的な増殖抑制効果を示す)Oncol Lett. 3(3): 726–728.2012年

線維肉腫細胞を移植したヌードマウスの実験で、ジクロロ酢酸ナトリウム50mg/kg+オメプラゾール2mg/kgの併用で著明な腫瘍の縮小が認められていますそれぞれ単独では腫瘍の縮小は認めなかったが併用すると著明な縮小効果が認められたという結果です。
正常な線維芽細胞に対しては増殖抑制効果は認めなかったと報告されています。 

プロトンポンプ阻害剤はがん細胞に対する免疫細胞の攻撃力を高めます。プロトンポンプ阻害剤が骨肉腫や転移性乳がんや頭頚部がんの抗がん剤治療の効き目を高めることが臨床試験で示されています。 
ジクロロ酢酸ナトリウムの投与でがん組織の酸性化が緩和されると免疫細胞の働きが良くなって抗腫瘍免疫による抗がん作用が強化されることが報告されています。がん組織の酸性化が免疫細胞の働きを抑制するからです。 
したがって、ジクロロ酢酸ナトリウムとプロトンポンプ阻害剤の併用は抗腫瘍免疫の活性化にも効果が期待できます。 
プロトンポンプ阻害剤は抗がん剤治療による胃粘膜障害による副作用や消化器症状を緩和するという臨床試験の結果も報告されています。
したがって、抗がん剤治療中や免疫療法を受けているときに、胃腸症状を緩和する目的とがん組織の酸性化を軽減する目的でプロトンポンプ阻害剤を併用するメリットはあると言えます。実際に、多くのがん患者さんがプロトンポンプ阻害剤を服用しています。
プロトンポンプ阻害剤に加えて、ミトコンドリアを活性化するジクロロ酢酸ナトリウム、解糖系を阻害する2-デオキシ-D-グルコースやケトン食や重曹(炭酸水素ナトリウム)をさらに併用すると、がん組織の酸性化を抑制して、抗がん剤治療の効き目を高めることができます

【ジクロロ酢酸ナトリウムはピルビン酸脱水素酵素キナーゼを阻害する】
正常細胞では低酸素誘導因子-1(HIF-1)は細胞が低酸素状態におかれた場合しか活性化されません。
一方、多くのがん細胞では、低酸素状態でなくてもHIF-1の活性が亢進しています。がん細胞では、がん遺伝子のc-Mycの活性や増殖のシグナル伝達系のPI3K/Akt/mTORC1が恒常的に亢進しており、その結果としてHIF-1の活性が恒常的に亢進しているからです。
がん細胞の代謝の特徴である「解糖系の亢進とミトコンドリアでの酸化的リン酸化の抑制」というワールブルグ効果(Warburg effect)を根本で制御しているのがHIF-1と言っても過言ではありません。
HIF-1は乳酸脱水素酵素(LDH)などの解糖系酵素の発現を亢進し、一方、ピルビン酸脱水素酵素キナーゼ(PDK)の発現を亢進して、ミトコンドリアでの酸素呼吸を抑制します。
解糖系で産生されたピルビン酸がミトコンドリアで代謝されるとき、その第一ステップとしてピルビン酸脱水素酵素(PDH)によってピルビン酸がアセチルCoAに変換されます。
このピルビン酸脱水素酵素(PDH)をリン酸化して不活性化するのがピルビン酸脱水素酵素キナーゼ(PDK)です。このピルビン酸脱水素酵素キナーゼはHIF-1によって発現が亢進します。
つまり、がん細胞では、HIF-1によってピルビン酸脱水素酵素キナーゼ(PDK)の発現が亢進し、PDKがピルビン酸脱水素酵素(PDH)の活性を阻害し、ピルビン酸からアセチルCoAへの変換が阻害されるので、ミトコンドリアでの酸素を使った代謝が抑制されることになります。(下図)

図:正常細胞では、グルコースは解糖系でピルビン酸に変換され、ピルビン酸脱水素酵素(①)でアセチルCoAに変換され(②)、TCA回路(③)と呼吸鎖における酸化的リン酸化によってATPが産生される(④)。がん細胞では低酸素やPI3K/Akt/mTORC1シグナル伝達系の活性化によって低酸素誘導因子-1(HIF-1)の活性が恒常的に亢進している(⑤)。HIF-1は解糖系酵素や乳酸脱水素酵素(LDH)の発現を亢進し(⑥)、乳酸産生を増やす(⑦)。HIF-1はピルビン酸脱水素酵素キナーゼの発現を誘導し(⑧)、ピルビン酸脱水素酵素キナーゼはピルビン酸脱水素酵素をリン酸化してその活性を阻害する(⑨)。その結果、ピルビン酸からアセチルCoAへの変換が阻止されてミトコンドリアでの糖代謝(酸化的リン酸化)は抑制される。

ジクロロ酢酸ナトリウムはピルビン酸脱水素酵素キナーゼを阻害することによってがん細胞の解糖系を抑制し、副作用が少なく抗腫瘍効果を示すことが報告されています
高度に転移性の性質をもった乳がん細胞を移植した動物実験モデルで、ジクロロ酢酸ナトリウムは増殖を抑制し、肺への転移巣の数を減少させました。
ジクロロ酢酸ナトリウムはがん細胞における機能低下したミトコンドリアを活性化してアポトーシス(細胞死)を起こしやすくします。 動物実験では、ジクロロ酢酸単独で腫瘍の著明な縮小が観察されていますが、人間の腫瘍の場合は、ジクロロ酢酸ナトリウム単独では、腫瘍を縮小させる効果には限界があるようです。
 しかし、がん細胞を死滅する作用をもった医薬品と併用すると、がん細胞のアポトーシス感受性を高めるジクロロ酢酸ナトリウムの効果によって、腫瘍の縮小効果が高まる可能性があります。実際に、抗がん剤や放射線照射の効き目(感受性)を高める効果が多数報告されています。

服用量は1日に体重1kg当たり10から15mgで、1〜2回に分けて服用します。体重60kgの人で600mg~900mgになります。ジクロロ酢酸ナトリウムは熱で不活性化しやすいので、水に溶かして服用します。胃粘膜に刺激になるので食後に服用します。
注意する副作用は末梢神経障害です。ピルビン酸脱水素酵素はビタミンB1を補因子として使用するので、ビタミンB1が消耗すると神経障害がおこります。この副作用を予防(軽減)するために、ビタミンB1製剤を一緒に服用します。ビタミンB1は1日に100mg以上を服用します。
ピルビン酸脱水素酵素の補因子であるR体αリポ酸を併用するとさらに抗腫瘍効果を高めることができます。R体αリポ酸は体内で合成されるので、サプリメントでの補充は必須ではありませんが、サプリメントとして補充するとミトコンドリアの活性化を増強できます。(図)

図:低酸素誘導因子-1(HIF-1)はピルビン酸脱水素酵素キナーゼの発現を誘導して(①)、ピルビン酸脱水素酵素(ピルビン酸をアセチルCoAに変換する)の働きを阻害するので(②)、ミトコンドリアでの酸化的リン酸化によるATP産生が抑制されている。ジクロロ酢酸ナトリウムはピルビン酸脱水素酵素キナーゼの活性を阻害することによってピルビン酸脱水素酵素の活性を高め(③)、R体αリポ酸とビタミンB1はピルビン酸脱水素酵素の補因子として働き(④)、ピルビン酸脱水素酵素の活性を高めてピルビン酸からアセチルCoAの変換を促進し、TCA回路での代謝と酸化的リン酸化を亢進する(⑤)。ミトコンドリアでの酸化的リン酸化が亢進すると、活性酸素の産生が増え、乳酸産生が減少し、アポトーシスが起こりやすくなって、抗がん剤感受性が亢進する(⑥)。

ジクロロ酢酸ナトリウムの体内での半減期は約24時間ですので、1回服用したジクロロ酢酸ナトリウムが体内からほとんど排泄されるのに数日かかります。したがって、毎日服用すると少しづつ体内に蓄積して副作用が起こりやすくなります。高齢者では体内での代謝(分解と排泄)が遅くなる傾向にあります。 がんの進行状況や体調などによって、1日の服用量や1週間の服用回数などを調節します。1日おきの服用や、1週間のうち5日間服用して2日間休むというような服用法を考慮します。
副作用と思われる症状が現れたときは、その症状が消失するまで服用を中断します。副作用が消失した後、少量から再開します。ジクロロ酢酸ナトリウムの体内濃度を急速に上げたり中断するより、低用量を長期間にわたって服用する方が良いようです。
腫瘍の縮小がみられた場合は、ジクロロ酢酸ナトリウムの量を体重1kg当たり1日2~3mgに減らし、ビタミンB1を併用する維持療法が試されています。緑茶、紅茶、コーヒーを1日5~10杯くらい飲用するとDCAの効果が高まるという意見があります。これはカフェインによる効果であることが推測されています。 


【2-デオキシ-D-グルコースは解糖を阻害する】
2-デオキシ-D-グルコース(2-Deoxy-D-Glucose:2-DG)はグルコース(ブドウ糖)の2位のOHがHに変わっているグルコース類縁物質です(下図)。

2-DGはグルコースと同じトランスポーター(輸送担体)で取り込まれるので、グルコースの取り込みが亢進しているがん細胞に多く取り込まれます
細胞内では、ヘキソキナーゼによってリン酸化されて、2-デオキシグルコース-6リン酸(2-DG-6リン酸)に変換されますが、この2-DG-6リン酸は解糖系の先の代謝系には進めない(ヘキソキナーゼの先の解糖系酵素で代謝できない)ので、細胞内に蓄積します。
特に、がん細胞は2-DG-6リン酸を脱リン酸化して2-DGに戻すホスファターゼ活性が低下しているので、がん細胞内に2-DG-6リン酸が蓄積します。
蓄積した2-DG-6リン酸は解糖系酵素のヘキソキナーゼホスホグルコースイソメラーゼ(グルコースリン酸イソメラーゼ)をフィードバックで阻害する作用があり、取り込まれたグルコースの解糖系での代謝を阻害し、ATP産生や物質合成を低下させます。(下図)

図:2-デオキシ-D-グルコース(2-DG)はグルコース(ブドウ糖)の2位のOHがHに変わっているグルコース類縁物質(①)で、グルコースと同様にグルコーストランスポーター(GLUT1)によって細胞内に取り込まれる(②)。細胞内のヘキソキナーゼで2-DG-6リン酸(2-DG-6-PO4)になるが、それから先の解糖系酵素では代謝できないので細胞内に蓄積する(③)。蓄積した2-DG-6リン酸はヘキソキナーゼ(HK)とホスホグルコースイソメラーゼ(PGI)をフィードバック的に阻害するので、グルコースの解糖系での代謝を阻害する(④)。


【2-DGはペントースリン酸経路を阻害する】
解糖中間体は多くの生合成系へと流れていきますが、その一つがペントースリン酸経路です。
ペントースリン酸経路とは、解糖系の中間体のグルコース6リン酸から分岐し、同じく解糖系の中間体 グリセルアルデヒド3リン酸に戻る経路(回路)です。解糖系と同様に細胞質に存在する経路で、補酵素の一つであるNADPHを産生し、核酸の原料となるリボース5リン酸などの5単糖 (ペントース) を産生します。
NADPHは還元剤です。脂肪酸やステロイドの合成、抗酸化物質のグルタチオンやチオレドキシンの還元剤として使用されます。
解糖系はATPを産生します。ペントースリン酸経路はATP産生には関与せず、核酸の原料や還元剤(NADPH)の産生を行っています。
細胞が増殖するにはエネルギー(ATP)だけでなく、核酸や脂肪酸などの物質合成や、酸化ストレスを軽減する還元剤の需要も増えます。したがって、がん細胞では、解糖系とペントースリン酸経路が亢進しています
2-デオキシ-D-グルコースはヘキソキナーゼとホスホグルコースイソメラーゼを阻害するので、グルコースの解糖系と同時にペントースリン酸経路を阻害してNADPHと5単糖 (ペントース)の産生を阻害します(下図)。

図:解糖系は1分子のグルコースが2分子のピルビン酸に分解される過程で2分子のATPが産生される(①)。グルコース6リン酸から派生するペントースリン酸経路(②)では、還元剤のNADPHが2分子産生され(③)、核酸合成の材料になるリボース5リン酸が産生される(④)。がん細胞ではグルコースの取込みが増え、解糖系とペントースリン酸経路が亢進して、細胞分裂のためのエネルギー(ATP)と物質合成(核酸、脂肪酸、NADPHなど)が亢進している。2-デオキシ-D-グルコース(2-DG)は、ヘキソキナーゼ(HK)で代謝されて2-DG-6リン酸(2-DG-6-PO4)に変換され(⑤)、2-DG-6-PO4はヘキソキナーゼ(HK)とホスホグルコースイソメラーゼ(PGI)を阻害する(⑥)ので、グルコースのペントース・リン酸経路での代謝を阻害する。


がん細胞ではHIF-1(低酸素誘導因子-1)の発現と活性が亢進しています。HIF-1はLDH(乳酸脱水素酵素)や解糖系の酵素の発現を亢進して、乳酸の産生を増やしています。
さらに、HIF-1はピルビン酸脱水素酵素キナーゼの発現を亢進します。ピルビン酸脱水素酵素キナーゼはピルビン酸脱水素酵素をリン酸化して活性を阻害します。
ピルビン酸脱水素酵素はピルビン酸をアセチルCoAに変換する酵素です。したがって、ピルビン酸脱水素酵素の阻害はミトコンドリアでの代謝を抑制します。
正常細胞では低酸素の状態にならないとHIF-1は活性化しませんが、がん細胞では低酸素でなくてもHIF-1は活性化しています。そのため、がん細胞ではピルビン酸脱水素酵素の活性が低下して、ミトコンドリアでの代謝が低下しています。

有酸素運動でがん組織の酸素供給を増やすとがん治療の効果が高まる】
オットー・ワールブルグ博士は、がん細胞が嫌気的な生き物で、アルカリ性で酸素が豊富な環境では生存できないことを指摘しています。
がん組織の低酸素化は低酸素誘導因子-1(HIF-1)を活性化し、低酸素状態に適応したがん細胞は、より浸潤性と転移性を高める事が明らかになっています。細胞死(アポトーシス)に対しても抵抗性になります。

酸素を使わない解糖系での代謝が亢進すると、がん組織はさらに酸性化します。このがん組織の酸性化は、血管新生を誘導し、浸潤や転移を促進し、生体の免疫細胞からの攻撃を阻害します。
つまり、がん組織における低酸素という微小環境は、がん細胞の悪性度を高め、治療効果を弱めることにつながります。
がん組織の低酸素が放射線治療の効果を弱めることは、すでに1950年代に報告されています。
低酸素はヒト遺伝子の1〜2%ほどの遺伝子の発現を調節しており、これはHIF-1が行っています。HIF-1は低酸素で活性化される転写因子です。
がん組織の低酸素状態はHIF-1の発現と活性を亢進して、がん細胞はアポトーシスに抵抗性になり、放射線治療や抗がん剤治療に抵抗性になります。がん組織の低酸素状態を改善すると、放射線治療や抗がん剤治療の効果が高くなることが明らかになっています(下図)。

図:酸素や栄養素が拡散で到達できるのは数百μm程度であるため、血管から1〜2mm離れたがん細胞は高度な低酸素状態になっている。がん組織は血管網が不完全であるため、毛細血管から離れて低酸素に陥っているがん細胞が多く存在する。低酸素のがん細胞では低酸素誘導因子-1(HIF-1)の発現と活性が亢進している。HIF-1の活性亢進はがん細胞の浸潤性・転移能を亢進し、細胞死(アポトーシス)に抵抗性になり、放射線治療や抗がん剤治療に対する感受性が低下する。

有酸素運動は、がん組織の低酸素を除去する方法の一つです。
多くの研究結果をまとめると、 「運動はがん組織の血液循環を良くし、低酸素状態を改善することによって治療効果を高める」というのが現在のコンセンサスのようです。
つまり、がん患者さんが有酸素運動を積極的に行うことは、いろんなメカニズムで、がん治療や再発予防に役立つと言えます。以下のような報告があります。

Effects of exercise training on tumor hypoxia and vascular function in the rodent preclinical orthotopic prostate cancer model.(齧歯類における前臨床試験としての同所性前立腺がんモデルにおける腫瘍低酸素および血管機能に対する運動訓練の効果)J Appl Physiol (1985). 2013 Dec;115(12):1846-54. doi: 10.1152/japplphysiol.00949.2013. Epub 2013 Oct 31.

この論文では、ラットの前立腺がんの実験モデルを使って、トレッドミルによる運動をさせた群と運動をさせなかった群で比較しています。
その結果、運動はがん組織の微小環境における血液循環を良くして低酸素状態を改善し、その結果がん細胞の浸潤性や悪性度が低下し、生存率を良くすることを報告しています

がん細胞は酸素を嫌う嫌気的な生き物で、酸素が少ない方が生存に有利な細胞です。したがって、運動によってがん組織の血液循環と酸素供給を増やすことは、がん細胞の増殖抑制に有効と言えます。

また、抗がん剤治療に高圧酸素療法を併用して抗腫瘍効果を高める治療法も報告されています。
がん組織の低酸素化を改善して酸素が十分に行き渡ると、抗がん剤や放射線治療の効き目を高めることがあきらかになっています。高気圧酸素療法は放射線療法や抗がん剤治療との併用が保険適用されています。
サリドマイドや血管内皮細胞増殖因子(VEGF)の阻害剤は血管新生を阻害する作用によって抗腫瘍効果を発揮すると一般には考えられていますが、がん組織内の血管(腫瘍血管)を正常化(normalization)して、がん組織内の血液循環を良くして、抗がん剤や放射線治療の効果を高めるというメカニズムも指摘されています。
固形がんでは、腫瘍細胞の増殖に血管の増生や構築が間に合わなく、異常な血管が作られ、不十分な血管網を構築し、がん組織の至る所で低酸素状態に陥っています。
低酸素になると、がん細胞は様々な適応応答を発動し、その結果、抗がん剤や放射線による細胞死(アポトーシス)に抵抗性になります
また、放射線治療は活性酸素を産生してがん細胞を死滅させますが、この効果は酸素が無い状態では阻害されます。
抗がん剤の多くも、最終的に細胞死を引き起こすときに活性酸素が関与しており、酸素が乏しい条件では、細胞死が起こりにくいことが明らかになっています。
また、「がん細胞のミトコンドリアを活性化して活性酸素の産生を高めて、がん細胞を自滅させる」というがんの酸化治療においても、低酸素の条件ではがん細胞のミトコンドリアでの活性酸素の発生が低下するので、がん細胞を死滅させることができません。
免疫療法も、酸素の無い場所では、リンパ球などの免疫細胞も働けません。
つまり、多くのがん治療において、がん組織の低酸素状態は、治療効果を妨げていることになるのです

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