FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
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「共通」と「特有」の関係を問う

2017-09-17 13:25:28 | コラム
「共通」と「特有」という言葉で考えたこと
 現前の存在には、「共通」に見えたり感じたりするところと、「特有」に見たり感じたりするところが共存している。
 先日、ある合唱団の演奏を聴きに言ってきた。考えてみれば、合唱というのは、「共通」と「特有」の織りなすハーモニーだと思った。それぞれのパート(ソプラノ、メゾソプラノ、アルトなど)が特有性を発揮しながら、共通性を保つことで、合唱は成立する。それは音楽だけでなく、科学や芸術もこのハーモニーは重要だ。
 そう思った時に、以前から問題に思っていたことが、頭をよぎった。みなさんは、札幌の地下鉄が「特有」であることをご存知だろうか。電車や線路が「特有」な仕上げになっている。ゴムタイヤ式地下鉄になっている。確かに騒音は少ないというメリットもあるが、最大の欠点は、地上を走るJRの電車との相互乗り入れができないことだ。
 もしも、東京や横浜などの都市と同じように、地上も地下も同じ仕上げ「共通」になっていたら、もっと違った展開になっていただろう。札幌市の交通網は、もっと便利になっていたであろう。無理して「特有」(独自規格)を強調したあまり、それが出来なくなってしまっているのである。
 これにはおまけもついていて、たいがいの交通機関は、傷害のある人や妊娠中の人、高齢者の席は「優先席」という言葉を使っているが、札幌の地下鉄は「専用席」となっている。これも「特有」である。「専用席」となれば、普通の人は座れないが、「優先席」だと、該当者がいなければ、普通の人は座っても良いし、該当者が乗ってきたら譲ればよいことになる。(この座席問題は、そう荒立てる問題ではないが・・・。)
 今考えれば、どうしてこうまで「特有」を強調したのか、私にはわからない。あまり札幌を強調したい一心だったのかもしれない。(この地下鉄は札幌冬季五輪にあわせて作られた。)将来のことを考えなかったのだろうか、はなはだ疑問に思う。
 私たちがなにかを創造するとき、この「共通」と「特有」の見極めが大事になるだろう。「特有」だけを強調しすぎて、「共通」つまり他との共生を考えないと、あの札幌の地下鉄のようなことになってしまう。
 ご存知のように、こういう例はほかにもある。例えば、以前にビデオ戦争で有名なVHS対ベータマックスがあったが、結果的にVHSの企画に統一された。つまり、共通「規格」が一つに定まらないと、ユーザーにとってはまことに不便だからである。
 それはそれとして、「共通」と「特有」は、何事を考える上でも重要なことである。第一科学するとは、この「共通」と「特有」をどう見極めるかを追求することだと言ってもいい。
 現前の存在に出会った時に、そこに「特有」なものを見つけて、そのよって来る原因を追求することが、科学の使命である。そのことにより、その存在の特色や性質を捉えることになる。また、「共通」を見つけることも科学の使命である。そのことにより、法則や公式を作り上げることができる。あるいは法則や公式まではいたらなくても、情報処理して傾向性を把握することができる。その場合蓋然性という問題もあるが。
 芸術や哲学もまた、別な方法でこの「共通」と「特有」を課題にするだろう。いやそこまでいかなくても普段でも、わてわれが考えたり感じたちするとき、現前の存在にある「共通」と「特有」を自分の感性で見分けることから始まるのだろう。
 私たちにはそれぞれ「特有」(個性)があるのだが、互いに「共通」も存在する空間に住んでいるということも事実である。そこを尊重しなければならないのだ。自分が自分がと自己主張(特有の強調)もいいが、世の中はそうはいかない。そういうわけで、ビデオテープも、自社、自社と言い張って、いくら付加価値をつけて開発したものの「共通」に目を向けなった。札幌市も我が市は「特有」な地下鉄を作ったと胸をはっても、今となって考えればあの始末である。
 しかし、共通を国家権力が国民に強いるとどうなるか、これも問題である。この場合、特有(個性)は否定されてしまい、共通を押しつけるとう思想統制となる。ある特性(大抵は権力者の特性、思想)を重んじると、今までの共通を排斥し、独りよがりな共通を作り上げ、それが独裁政治となる。それは歴史が示している。国家の仕事は、共通と特性がうまく共生する社会を目指すことである。
 日本のような空気を読む社会も、なんとなく「共通」が支配してしまい、「特有」が排除されることが多い。これも問題だ。ここに国家権力がつけ込むこととなる。
 それではどうすればようのだろうか。おれがおれがと「特有」を強調せず、また、あまり根ほり葉ほり「特有」を探し出して、排除するのではなく、自然にわき出る「特有」(これこそ優れた個性の表出)を見取るような感性をもち、共通部分を見いだして共生していくことしかないのであろう。我ら地球の住人という「共通」としての自覚と、互いの「特有」を認め合うことしかないのであろう。
 「共通」と「特有」どちらも重要であり、どちらかが欠けても存在は意味を持たない。どちらが欠けても、それは「のっぺらぼう世界」となって、何も見えない世界になってしまう。われわれの感性が互いに、存在にある「共通」と「特性」を認識し、その共生をはかることしかない。「共通」と「特有」は互いに尊重し相思相愛の関係なのである。

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