FUNAGENノート

私の考えたことや、読書から学んだことを伝えます。
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おかしなおかしな世の中

2018-06-06 15:40:48 | コラム
おかしなおかしな世の中
 一連の疑惑を見ていると、それらに共通点のあることが見えてくる。自己保身、出世欲、権力欲、自己中心的な言動などなどだ。彼らには、倫理観などこれっぽちもない。それが、国家権力という中枢にまで及んでいる。まるで、かつての全体主義国家のようだ。しかも、それがもっと下の組織(日大アメフト事件、神戸市教委の情報の隠滅、大企業のデータ改ざんなど)にまで及んでいる。
 今私たちに求められているのは、現前の存在に対して、言葉にならないイメージ、感覚などから、一定の秩序を持っていることを感じ取りそれを表現する。その存在の背景から特徴のある姿を見いだし、そこから表現を創造することだ。そして、それが哲学することの意味なのだ。それぞれが哲学することにより、今騒がれている疑惑の様相も人ごとではなく見えてくるはずである。
 ところが、現在の世の中は、どう考えてもそいうことの行われる状況にないようだ。考えることのしない人間が増えている。促成栽培型社会(大地に根を下ろさず、今役立てば良いという人間の育成)がそうさせてしまっている。だから、疑惑の重大性に気づくことなく、今、お金が入ると良い、楽しければ良いのであって、疑惑など二の次だと思っている人間も多い。権力もそれを望んでいて、そのうちほとぼりが冷めるだろうと思っている。
 つまり、その時よければ良いという人間が増えている。それが、過去の歴史を振り返り、未来へ向けての展望をもって現在を語ることの逃避となって現れている。そういう時に全体主義が生まれるとは、アーレントの考えだ。
 そして、その考えは今も生きている。今の国家権力ぐるみの疑惑の数々をみていると、まるで、かつての全体主義(軍国主義)国家を思い出す。彼らは、戦争の大義を口実にして、国民をだまし、勝手な振る舞いを行ってきた。そいう意味では、現在の国家権力も大差ない。 こういう危機的状況の中でも、驚いたことに、現実主義のもと、未来がどうなるのかということに背を向けてしまっている風潮がある。そこにあるのは、今よければよいという生活態度だけだ。
 しかし、未来は厳しい現実がまっている。それはまぎれもない事実である。未来はバラ色のユートピアではない。ますます少子高齢化社会となり、人口減少はいっそう進む。エネルギー政策もこのままで良いとはいかない。放射能問題、資源の枯渇や地球温暖化も問題だ。格差社会や分断社会は、ますます広がる勢いだ。しかも、世界中の人々は反知性主義的に走り、その渦に巻き込まれてしまっている。
 現前の存在を前にして、SNSで発信したり受信したりするとき、そこには現代人の特徴つまり「根無し草」、「居場所の喪失」、「のっぺらぼう社会・陰陽のない社会」、「近くは遠く、遠くが近くなった社会」、「砂流化した個人」という様相の影響を受けた表現となって現れている。少なくても私にはそう見える。
 こういう表現を発信したり、受信したりに明け暮れしていることが、原因になって起こっているのが、各種残忍な事件、考えられないような事故、データ改ざん、人権思想、倫理観の欠落だ。それが政治の中枢にまで及んでいる。
 知性というものは、現前の存在にきちんと向き合うことによって得ることができる。現前の存在とは、私たちの前に繰り広げられる世界だ。自然や社会、動植物、友人、職場や学校の仲間、そして書物の著者や演劇、音楽などの芸術を語っている方々と、語り合うことだ、交流することだ。そこで、糸をたぐり自分の力で紡ぐことだ。それをしないで情報収集に明け暮れていても思考停止になるのがおちだ。
 しかし、残念なことに、思考停止という様相が国中に広がっている。物質的利害だけが存在するかのような風潮が、日本を危ふくしている。このままでは、日本はどうなるのか、もっと真剣に考えなければならない時なのに、景気が上向きだとか、株があがったとか、求人数が増えているとかという目先の利害だけで、有頂天になる時ではない。それではあまりにものんきすぎる。有頂天になっていられるのは、せいぜいオリンピックまでで、その後どうなるか、今から覚悟しておかなければならない事態に陥ること請け合いである。
 


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