爺の社会科見学

年金生活12年目に突入。好きな地理と写真を生かした、一味違ったブログを目指して。

「狛犬と社寺めぐり」~上野公園散策~

2018-12-27 11:30:56 | 日記

毎月おこなわれている「退職者の会」日帰り散歩の幹事Mさんの紹介で、別団体主催の「知られざる上野の山の歴史と狛犬を訪ねる」のテーマに参加した。上野公園は、「退職者の会」でも訪れてはいるが、企画者により観点が違い、新しい発見があるものである。
集合場所の「鶯谷駅」から21名で寛永寺に向かう。
寛永寺は、増上寺と並び二大名刹でもある。古さからいうと増上寺の方が古いが、寛永寺は、徳川家により建立された寺で庇護を受けてきた。創建は、年号をとって寛永寺とされ、山号は京都の鬼門を守る比叡山に対し、東の比叡山との意味から「東叡山」とされた、当時この地は大名の下屋敷があったところで古地図からも広大な敷地で強大な権勢を持った寺院である。講師の方のお話では15人の将軍の内6人が寛永寺、増上寺に6人、日光東照宮に2人、慶喜は将軍職を退いたため谷中霊園に祀られているとの事である。
権勢を誇った寛永寺も彰義隊と新政府軍との上野戦争でほとんどが焼失しました。

焼失した寛永寺の40万坪は明治政府に接収され、明治4年寛永寺復興の許可がおりたが、敷地面積は大幅に縮小された。明治10年に天海(寛永寺・日光東照宮の創立者)ゆかりの川越喜多院の本地院を移築し、現在の本堂とした。江戸時代の本堂は東京国立博物館前の噴水あたりと言われている。

寛永寺から上野公園の方に歩いていくと古い建築物が眼に止まる、国際子ども図書館とある、子ども図書館にしては重厚な感じの建築物で、とても子ども向けの図書館とは思えない。前進は、1906年に建設された帝国図書館で後に国立国会図書館支部上野図書館として運営されてきた、急速な蔵書の増大、子どもの図書離れ等から「国際子ども図書館」として設置された。
敷地内には「小泉八雲記念碑」があった、小泉八雲の肖像のレリーフの上部に壺を囲む天使達の群像がある。これは土井晩翠が建てたもので、晩翠は小泉八雲の帝国大学の教え子で八雲に傾注していた子どもが亡くなり遺言に基づいた昭和10年に建てた。

隣にある黒田記念館(東京国立博物館黒田記念館)も古い建築物である。日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝が大正13年に亡くなり遺産の一部を美術の奨励のため役立てるようにと遺言され、昭和3年に竣工した。現在では登録有形文化財に指定されている。

日本最古の洋式音楽ホールである旧東京音楽学校奏楽堂の前をとおり公園内に、左手に堂々たる門が見える。講師の方の説明では、旧因州池田屋敷表門(黒門)とのこと。移築現存しているが東大の赤門(加賀藩・前田家屋敷門)と対比されている、なお、門を赤く塗れるのは将軍家の姫が嫁いだ家だけに許されたました。外様大名ではあるが親藩に準ずる格のある池田家である。大名は1万石以上の禄高を持つ武家で約300家ほどあったそうです。池田家の門は、左右に唐破風の番所があり、これは10万石以上で最も格式の高い門です。大名屋敷そのものは都内には現存せず、門だけが残っているだけである。

上野公園は、いろいろな銅像・記念碑の多い公園でもある。最初に紹介されたのが「ボードワン博士像」である。表記からいうとボードウィンが正しい呼び名であるが、ボードワンは、上野戦争後の上野に病院建設が予定され医師のボードワン博士に相談したところ、公園を築くことを提唱し現在の上野公園となった。昭和48年に建立されましたが資料の錯誤で弟の像が建立され、平成18年に像が交換されたという逸話があります。

もう一つの像は、小松宮彰仁親王像で、日本赤十字の総裁を務めるなど文武ともに貢献された親王。講師の方から銅像に関するクイズがあり、(Q)日本では銅像はいつからあるか?(A)明治時代からで日本初の西洋式銅像は靖国神社の大村益次郎像である。他に上野公園の西郷隆盛、皇居の楠木正成騎馬像の三つを東京三大銅像というそうです。小松宮彰仁と大村益次郎像の作者は文展審査委員の大熊氏廣で埼玉・鳩ヶ谷市(現在の川口市)出身とのことである。戦時中の銅・鉄の拠出により多くの銅像が失われた。

上野公園内の「上野東照宮」に入る。藤堂高虎が敷地内に創建した、参道の両側には石灯籠が並び社殿の前には銅灯籠、社殿の脇には石灯籠が並んでいる全部で300以上あるそうです。灯籠の年月日は慶安4年4月17日となっているのがほとんどで、社殿が落慶した日に合わせたようです。社殿の両側の灯籠は徳川御三家が奉納したものです。
狛犬研究家のY氏によると、上野東照宮の狛犬は有名な石工・酒井八右衛門の作で胸板が異様に厚い立派な狛犬とのこと。立ち並ぶ灯籠の台座にも多くの狛犬が刻まれている珍しい灯籠です。Y氏は狛犬と台座となる銘文も見るのも面白いそうだ。狛犬も奥が深い・・・

   

   ※藤堂高虎は、築城の名手といわれ、石工衆、大工衆の棟梁などと深い繋がりがあり、
    城造りを任せられるほどの人物でる。高虎の城造りの特徴は、「の」の字を描くよう
    に通路や建物を配置することにより拡大発展が易くなるという先見性のある考えを
    もっていた。

上野東照宮を出て、「お化け灯籠」に。何が「お化け灯籠」なのか?とにかく大きい灯籠なのです、東照宮の灯籠も大きいと思ったが初めて見る大きさである。高さ6.06m、笠石の周囲3.36mもある、南禅寺、熱田神宮とともに三大灯籠というそうです。

上野精養軒の前を通り、裏手から大仏山という丘の上の上野大仏へ、度重なる天災により顔面のレリーフが保存されている。ここから「時の鐘」が見え、丁度、12時に鐘が撞かれ江戸時代の雰囲気を味わうことができる。

大仏山を降りて花園稲荷神社、五条天神社を訪ねる。上野公園に来てもこの神社の中に入ったことはなかった。パワースポットといわれているようですが、その雰囲気は十分パワースポットです。花園稲荷神社から入るが、朱い鳥居が続く階段を降りるが「インスタ映え」がある、降りると本堂があり狐がお出迎えである、この神社は縁結びの他、夫婦和合、子授けなどのご利益が・・・
この神社には、「お穴様」と呼ばれる稲荷がある、正しくは忍岡稲荷といい、天海が寛永寺を草創の際に忍ヶ岡の狐の住みかを失ったことを憐れみ洞を作り祀ったといわれている。パワースポットとは、これかもしれません。

もう一つ隣には五条天神社が、京都の五条天神を勧請したもので、こちらは健康にご利益があるそうです。(関東大震災後に移転)

上野駅に近づくと記念碑等が多くあった。
「時忘れじの塔」
落語家・故林家三平夫人の海老名香葉子さんらによって建てられた碑です、大震災・大空襲の犠牲者を忘れず悲惨な出来事を思い起こしてもらうために寄贈されました、海老名夫人は戦争では大変苦労された経験からの思いであり、私たちは過去の出来事を思い起こすことが大事なことでしょう。
「博士王仁碑」
百済から日本に渡来し、千字分と論語を伝えたとされる伝承上の人物である。
「天海僧正毛髪塔」
天台宗の高僧で徳川家の知遇をうけ、日光廟の造営指導、寛永寺の創建した。この地(本覚院)に供養塔が建てられ、後に本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ毛髪塔と呼ばれるようになった。
「彰義隊の墓」
彰義隊は、徳川家の警護などを目的としていたが、無血開城に反対し上野山(寛永寺)にたてこもり、上野戦争が起こった。力の差がはっきりし彰義隊は敗れた。墓石には賊軍であるため彰義隊の文字はなく、山岡鉄舟の筆による「戦死之墓」と明記している。
「西郷隆盛像」
上野公園のシンボル的な銅像である。状幕式は明治31年に盛大におこなわれたとのことです。隆盛の素顔が明らかでないため、製作者の高村光雲もだいぶ苦労されたようです。
しかし奥様は、「うちの人はこげな人じゃなか」と叫んだと伝わっています、二度と銅像前には来なかったとか。

 

上野散策も後半は小雨となりましたが、上野公園には、こんなに史跡があったのかと感心する一日であった。

【その他のPhoto】

 

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