旅つづり日々つづり2

旅のような日常と、日常のような旅の記録と記憶。

ここにある豊かさの深さ

2018年09月02日 22時20分41秒 | 淡路島のこと
日曜日。
朝8時から近隣の方と“道づくり”初めて回覧板がまわってきた時は「はっ??」意味がわからなかった。
道?目の前にありますが・・・そうではなく、道のまわりにのびている草をみんなで刈って
道を広くしましょう、手入れしましょう、という大切な行事だった。納得。
ほとんどの方が草刈り機をかついで現れるのにびっくり。2時間ほどかけてしっかり草刈りをする。
自分の家とか空き家とか別荘とか関係なく、自分の住む場所を整えるという行為の清々しさよ。

その後は台風の片づけ(まだ終わらない、しかも次の台風がきてるし)
庭の草むしり。

先週とても気が滅入る出来事があって、土曜日は一日起き上がることができなかった。
実家に関わると恐ろしい量のエネルギーが吸い取られる。そして受け取るのは負のエネルギー。
それを発散しているのも、勝手に受け取っているのも全部私だけれど、何も手につかなくなるくらい
気が滅入るのは事実。どうやって気持ちを立て直そうか必死に行動してみるもののどれもダメだった。
・好きなだけお菓子を買い込んでバカ食い←本当にバカ。気持ち悪くなっただけ。
・図書館で本を借りて読む←この夏は西可奈子の本を片っ端から読み続けている。
・酒←ろくな酔い方をしない(そりゃそうだ)
・電話←誰にかけたらいいかわからない
・メール←状況を説明するのがめんどくさくてできず
・寝る←苦しい夢におっかけられて起きたらどっと疲れるばかり
・家事をしない←楽になるかと思いきや、してないことが余計ストレスになるこの性格にうんざり

きっと今日も一日重たい気持ちで過ごすしかないのだろうな、とあきらめていたけれど青が昼寝を
している間に草むしりを始めたら、なんだかどんどん充電されてきたのだ。なんだろうあの感覚。
しおれていた花が水を吸ってシャンと立ち上がる感じ。からっからの土が雨をどんどん吸い込んでいく感じ。
「あっ、私は今生き返っている!」そう気づいたらもうやめるわけにはいかない。どんどん抜いていく。
手当たり次第に引っこ抜いていく。役目を終えた植物は簡単に抜けていく。あっけないくらい軽い。
全身を使って引っこ抜いていく。ふりまわすくらいの勢いで植物ととっくみあう。なんだ?すごく気持ちいい。
満足するまで抜き終えた時には、すっかり気持ちは晴れ渡っていた。問題はなにひとつ解決していないのに
(一生解決することはない)この気持ちの違いは一体なんだ。

そのまま買い物にでかける。
このあたりのスーパーでは店員さんとお客さんがよく立ち話をしている。レジで会計が済んでいるのに
そのまましゃべっている光景にもすっかり慣れた。前は店員さんとお客さんが向かい合って話しているのを
みると「クレームか??」と身構えていたのに今は全然違う。どちらも島の人。ある意味対等なのだ。
どちらが上とか下とか、買ってあげてるとか買ってもらっているという気配があまり感じられない。
これはホームセンターやパン屋や魚屋でも同じ。果物がつやつや光っていたら「おいしそうですよねー」と普通に
話しかけてくるし、「今日は雨降ってあかんわ」とか聞いてもいないのに教えてくれる。
店員さんもどことなく自由にみえる。小銭をだすのが難しいお年寄りのしぐさをイライラせずに待っている。
「お客様は神様」だからサービスで待っているのではなく「人間が人間の相手をしているから」当たり前に
待っている。後ろの客がせかすことももちろんない。

家に帰ると子どもたちが外で遊んでいたので向かいのお母さんと立ち話。島の人に聞いて回っている
あの質問をしてみる。「魚食べたいなって思ったらどこで買うの?アラだけ欲しい時ってどうしてるの?」
「実家行ってピンポンして魚ちょうだい!って言う。そしたらいっぱいくれる。」「マジ??」
「だってうちの実家、魚の卸売りやってるもん」「えー!!そのピンポンって私もしていいん?」
「ええよ」ワッハッハ!そんなバカ話をして家に入りダンナ氏にペラペラ報告していたら彼女がトロ箱抱えて
やってきた。「もらってきたで」「うそやろ??」箱を開けると生きてるタイやらなんやら魚がどっさり。
「全部あげるわ。たこ焼きする時は電話してな。タコ泳いでるから」狂喜乱舞とはこのことか。
中途半端に支度していたかわいそうなピーマンやなすびは瞬時に隅っこによけられて魚祭りの準備開始。
おさしみ、煮つけ、塩焼き、アラの吸い物・・・最高や。ここは竜宮城か?と本当に思った。
(ちなみに私は全くさばけない。なさけない。魚仕事は全てダンナ氏)

17時に夕焼け小焼けが聞こえると、子どもたちが「釣りいくでー、釣り、釣りー」と跳ね回っている。
つばさまで「ちゅりいこか。ちゅり」と靴をはいてスタンバイ。父ちゃんと子どもたち(うちの子3名
よその子1名)が下の漁港に消えていく。「ウキウキ」とみんなの顔に書いてある。
その間に家を整えたり、風呂の準備をしたり、明日の準備をしたり、やることはいくらでもあったけれど
なんだか突然私も海に行きたくなった。よしいこう!青をおんぶしてブーンと追いかける。
いたいた。夕凪の海で釣りをする小さな姿が見えた。ゆっくり近づいていく。空が広い。うんと広い。
淡路島に越すまで夕方になると毎日「夕焼けがみたい」そればっかり思っていた。切り取られた四角い空ではなく
どーんと沈んでいく夕日と、刻々と色を変えていくあの空をみたい、そればっかり思っていた。
あれだけ焦がれていた夕方の時間がここには全部ある。福が自分で魚を釣れるようになって目を輝かせている。
海に落とす強い眼差しがダンナ氏と驚くほど似ていることに気づく。

帰り道、隣のご夫婦とすれ違う。しっかり手をつないでゆっくりと歩いている。これぞ散歩っていう散歩。
私たちを見てブンブン手を振ってくれる。ただそれだけのことなのに心のトゲがここでも抜けていくのを感じる。

お風呂。ご飯。晩酌。そして今。

私にとっての豊かな暮らしとは、たとえばこんな休日のこと。
みんながちょっとづつ周りの人のことを思いやっている。そのちょっとに救われるのだ。

台風の翌日、家からでてきた人たちが誰の命令でも指示でもなく集落の端からほうきで掃きだした。
前の家では「お宅がこの樹を植えたら、うちに葉っぱが落ちてくる。子どもがたくさんいるのに掃除は
きちんとできるのか」と詰問されたことを思い出して涙がボトッとでた。傷は癒えないけれど、こんな力強い
光景が上書きされることで少しづつ忘れていきたい。台風がきてもここなら大丈夫。きっと生きていける。

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