#540: スワニーなんて見たことない

2013-06-21 | Weblog
前稿に引き続き、アル・ジョルソンとその周辺について書く。

その昔といっても戦後まもなくの頃、ジョルソンは黒人だと思っていた日本人が少なからずいたようで、スターの人名録にもはっきりと黒人と記した例があったそうだ。

イラストレイターの和田誠さんは、ジョージ・ガーシュウィンの伝記映画『アメリカ交響楽』(1945)に本人役で特別出演したジョルソンが、顔を黒く塗った姿で登場したのを見て早合点した人が多かったのだろう、と言っている。


(黒塗り姿のジョルソン)

映画でジョルソンは、ジョージ・ガーシュウィンの出世作となった“SWANEE”(スワニー)を歌った。


1919年10月24日、ブロードウェイに新しくニューヨーク・キャピトル劇場が開場した。
そのこけら落としに、まだ無名だったジョージ・ガーシュウィンが書き上げたばかりの“SWANEE”が使われた。

その年の春にかけて軽快な曲が流行していたこともあって、作詞のアーヴィング・シーザーは、軽快でアメリカ的な歌を作ろうとガーシュウィンに提案した。
ある日、二人は夕食を共にしながらアイデアを練り、スティーヴン・フォスターの『スワニー河』をヒントにして曲の構想をまとめると、わずか15分ほどで曲を完成したという。
シーザーもガーシュウィンもこの曲には自信を持っていたのだが、二人の自信とは裏腹に“SWANEE”は全く受けなかった。

そのキャピトル劇場の向かい側にあった老舗のウィンターガーデン劇場では、前年からアル・ジョルソン主演のショウ『シンバッド』がロングラン上演中であった。
間もなく、シーザーとガーシュウィンは、ジョルソンが主催するパーティーに招待された。
その場で、ガーシュウィンのピアノ、シーザーの歌で“SWANEE”を披露すると、ジョルソンは興味を持ち、ステージで歌わせて欲しいと申し入れた。

ジョルソンが、ウィンターガーデン劇場の「日曜ショウ」で歌ってみるとなかなか評判が良い。
当時、日曜日は劇場は休演で閉館するというのが普通であり、普段は仲間のショウを観ることができないショウビジネス関係者のために開く特別公演が「日曜ショウ」だが、そこでの評判をきっかけに、ジョルソンは『シンバッド』で使うことにし、やがてそれが大反響を呼ぶことになるのである。

前述のとおり、映画『アメリカ交響楽』では、その『シンバッド』の一場面がジョルソン自らの出演で再現されているのだが、このステージで披露したことをきっかけに“SWANEE”が大ヒット、ガーシュウィンが一躍有名になるという劇的な場面の重要なナンバーとして扱われている。
また、ジョルソン最大のヒット曲のひとつだということもあるのだろう、ジョルソンの伝記映画『ジョルスン物語』では、ジョルソン役のラリー・パークスに代わって、“SWANEE”を歌う場面だけはジョルソン自身が出演して歌っている。

♪ ♪

“SWANEE”はジュディ・ガーランドの持ち歌でもあった。
彼女の代表的な映画『スタア誕生』(A Star Is Born‐1958)で歌い、さらに高い評価を得るようになった。
“BORN IN A TRUNK”(トランクで生まれて)という長いナンバーのクライマックスとして“SWANEE”が出てくる(こちら)。
ジュディはしばしばジョルソンと比較されるエンターテイナー(女ジョルソン)だが、この歌は彼女にふさわしい歌であった。
何度も登場させて恐縮するが、彼女のカーネギー・ホール・コンサート(1961年)は古今東西のライヴ・アルバム中の名盤というべき2枚組である。
このライヴ盤でも“SWANEE”はアンコール曲として扱われていて、ジュディにとっても大事なレパートリーだったことがわかる。

余談だが、音楽にも造詣の深い和田誠さんは、ある高名なジャズ評論家のセンセイが、このライヴ盤をかつて「ジャズではないから認めない」と書いたことに憤慨した、と告白していた。
私も和田さんの意見に全く同感で、いかにジャズ評論家だとはいえ、ジャズしか認めないというのは、何とも愚かしい狭量な考え方で、音楽を論ずる資格などないと思う次第である。

ジャズの素材として取り上げられて演奏されることはほとんどないが、ポピュラー・ソングのスタンダードとして今や古典とも言うべき曲である。
コニー・フランシスもジョルソン・メドレーの一部として歌っているが、サラリと歌っているのもいい感じである。
日本では、前稿“ROCK-A-BYE YOUR BABY”を歌っていてもおかしくないと書いた雪村いづみがジュディ・ガーランドばりの熱唱を残しているし、江利チエミの歌唱も余裕があってとても上手いと思う。
今どきの日本の歌手で、こういう歌を堂々と歌いこなせる人はなかなか見当たらないが、寂しい限りである。

♪ ♪ ♪

I've been away from you a long time
I never thought I'd missed you so
Somehow I feel your love is real
Near you I long to be…
長いこと離れていて こんなに恋しいとは
何となく感じていたけど 君の愛は本物だ
君のそばにいたい
鳥は歌い バンジョーも聴こえる
君も僕が恋しいのか 君の呼ぶ声がする
スワニー! どんなに君を愛しているか
ディキシー 僕の愛するふるさと
おっかさんが僕を待っている
スワニーの岸辺で 僕のために祈ってる
僕がスワニーに着いたら 北部の人々ともう会うことはないだろう…

歌の内容はこんな感じであるが、ディキシーとかディキシーランドというのは「アメリカ南部」の愛称のようなものである。

かつてフランス領だったニューオーリンズで流通していた10ドル札に「DIX」(フランス語の10)と印刷されていたことからその紙幣が流通した地域のことを「ディキシー」と呼んだという説、“ROCK-A-BYE YOUR BABY WITH A DIXIE MELODY”の歌詞にも出てきた「メイソン・ディクソン・ライン」のジェレマイア・ディクソンの名前からきているという説、マンハッタンの奴隷商人ヨハン・ディキシーという人物が南部に送り込んだ黒人奴隷たちが、主人の土地をディキシーランドと呼び始めたという説など、いろいろあるようだ。

♪ ♪ ♪ ♪

ガーシュウィンについて、改めてふれるつもりはないが、作詞のアーヴィング・シーザー(1885-1996)について若干コメントしておきたい。
100歳を超える長寿の人だったが、生まれも育ちもニューヨークで、作詞家、作曲家、脚本家として活躍した。
少年時代は、コメディアンとして一世を風靡するマルクス兄弟が近所にいて遊び友達だったという。
24歳の時に作詞した“SWANEE”で国民的な人気者となり、その後も“TEA FOR TWO”、“SOMETIMES I'M HAPPY”、“CRAZY RHYTHM”など、現在も親しまれているスタンダード曲を手掛けた。

スワニー河(見出し画像)は、ジョージア州からフロリダを経由してメキシコ湾に注ぎ込む河川だが、想像するほどの大河ではないようで、フォスターが歌を作らなければ、おそらく世界中に知られることは決してなかったと思う。
真偽のほどは定かではないが、そのフォスターはスワニー河を実際に見たことはなかったというエピソードが残されている。
アル・ジョルソンもスワニー河を見たことはなかったそうだ。
生粋のニューヨーカーであったアーヴィング・シーザーも見ていなかったろうし、同じくニューヨーカーのガーシュウィンも、おそらく見ていなかったはずである。

組織という大河に浮かぶ木偶ノ坊 (蚤助)

この「木偶の坊」っていうのは、あっし(蚤助)のことで…


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