けろっぴぃの日記

最近、政治のことをはじめとして目を覆いたくなるような現状が多々あります。小さな力ですが、意見を発信しようと思います。

「論理的な正当性の他人からの評価を感じ取ること」の重要性

2012-11-24 23:54:40 | 政治
今日はどうでも良い話からさせていただく。家内といろいろ話していると、話がかみ合わないことが良くある。その背景と似たものを最近の政治の世界に感じることが多い。

順番に話を整理しよう。私はバリバリの理系で、家内は文系出身である。過去のブログでも書いたが、日本人には馴染みの深い理系/文系の概念は、実は日本だけでしか通用しない。日本人はついつい「数学的な論理的な思考の強い人」を理系、「文学の様に論理的な議論と一線を画すところの人」を文系とも解釈し、非論理的=文系と考えがちであるが、そんなことがある訳がない。文系の中の経済学は極めて論理的且つ数学的な思考が重要であり、そこで利用される数学のレベルは非常に高いとも聞く。文学という情緒的なものは論理的な議論と異なるから、これが理系/文系のギャップのような誤解につながるのであるが、情緒的と論理的は全く異なる概念であるから、相互に直交した関係で情緒的で且つ論理的ということは矛盾しない。言い換えれば、非論理的な思考を情緒的な思考で正当化するのは間違いであり、論理的/非論理的は純粋にそれだけで評価されるべきものである。しかし、世界から見ると特殊なこの理系/文系の概念を誤解しながらも使い続けるのと同様に、論理的か非論理的かを曖昧なままで許容する、ないしは許容してもらえると考える傾向が日本人にはある。

最初の家内の話に戻れば、家内は自分の主張に論理的な一貫性があるか否かについて全く無頓着である。これにはふたつの側面があり、自分が論理的な思考をするのが苦手というのと合わせて、他人が自分の言い分に論理的な正当性があると思ってくれているか否かについても無頓着である。前者はともかく、後者は大変厄介なものである。つまり、「正しいと信じていたものが実は間違っていた」ということは良くあるし、それは人間だから仕方がない。しかし、その間違いに気がつくためには、他人が自分の言い分に論理的な正当性を認めてくれるか、ないしは逆に論理が破綻していると思われていることを認識した上で、相手の言い分を良く聞き、もう一度自分なりの考え方を整理し直す必要がある。しかし、他人が自分の言い分に論理的な正当性があると思ってくれているか否かについても無頓着であると、自分なりの考え方を整理し直すチャンスも生まれない訳である。

ついでなので変な例え話を引用させて頂く。山で遭難する人としない人の差は、「道を間違えた」と気がついたときに引き返すか引き返さないかにあるという。道を間違えたことに気がついたとき、その道を進んでも何時かは本線に合流できると信じて進むと、本線に戻れないだけではなく、もと来た道にすら戻れなくなる危険性がある。だから、如何に早く自分のミスに気がつくか、そして気がついたら如何に早く正しい本線に復帰するために出直す(引き返す)かが生きるか死ぬかを分けることになる。家内の場合には、どれほど論理的に破綻した議論でも、そして自分でも無茶だなぁと感じても、決して引き返すことなく突進する傾向がある。もちろん、夫婦の間であれば「分かっちゃいるけど止められない」そんな猪突猛進の思考の背景にある情緒的な何かを早期に汲み取り、大人の視点で論理的な議論を軟着陸させ、円満な状態を回復することは可能である。しかし、国民を代表する選ばれた国会議員にはそのような温かい目で大人の対応をすることは出来ない。というか、それが出来なければ「退場いただく」しかない。にもかかわらず、国会議員の中には自分の言っていることの論理的な整合性を他人がどの様に感じているかに無頓着な人が多いのである。

先日の田中文科相の問題などはその典型である。大学が乱立している状態を何とかすべきという議論なら誰もが納得する。しかし、国会やマスコミでの議論は、有識者に認可の妥当性が諮問され、ここでOKが出たのに全く落ち度が認められない新設大学を、大臣の裁量権で勝手に不認可とすることが法的・制度的に許されるかどうかだけに論点が絞られていたはずである。にもかかわらず、官僚の助け舟かどうか知らないが、「私は不認可とは言っていない」と強弁すれば逃げきれるという感性が、既に他人が自分の言い分に論理的な正当性を認めてくれるかどうかを冷静に感じ取れなくなっていることを物語っている。

ただ、この田中文科相の話を引き合いに出したのは単なる例であり、本当はもっと政治の世界では直視しなければならない論理の破綻の問題を抱えている。それは、憲法9条の問題である。多分、日本語を解する平均的な日本人が憲法9条を読んだとき、自衛隊と憲法9条が整合しており矛盾がないと感じることは間違いなくないだろう。誰もがそのことに気づきながら、「憲法にどの様に書いてあろうが、国際法上、自衛権が認められるのは当然であり、余りにも当然だから9条にはそのことが書かれておらず、この条文を読むときにはこの当然の『行間』を補って読まなければならない」という無茶なロジックをここに導入し、あくまでも解釈で自衛隊を合憲と位置づけている。しかし、この憲法というのは誰もが知っての通り、時の為政者が暴走して好き放題にできないように、国の基本的なあり方をそこに明記しておき、時代の変化に合わせて憲法改正は可能としながらも、コロコロ勝手に変えることができないような歯止めをそこに設けている。だから、「憲法改正」を党是に掲げる自由民主党が長いこと政権を握りながら、それでも戦後67年が経過しても憲法の改正はこれまでできなかったのである。しかし、その様な歯止めがありながらも、憲法解釈だけで憲法を変えずに一見真逆の判断ができるというのでは、これは憲法としての意味がない。あくまでも憲法9条だけに宿る矛盾なのかも知れないが、長いこと政治家が「これで良い!」と放置して平気だったのは、他人(国民)が自分(国会議員)の言い分に論理的な正当性を認めてくれるかどうかを冷静に感じ取れなくなっていることの証明に近い。同様のことは、非核三原則にも読み取れる。「核を持ち込ませない」ということが、現在の様に政府が言い続ければそれで非核三原則が守られているとみなすことが可能というロジックは、誰がどう見ても破綻しているのは間違いない。変な例えであるが、物理学の世界で「シュレーディンガーの猫」という言葉がある。詳細はここでは説明しないが、不確定性原理の世界では、観測をしなければ状態が確定せずにあくまでも例えば「Yes」の状態と「No」の状態が確率的に重なり合った状態として存在し、絶対的に「Yes」でもなければ「No」でもないと解釈しなければならないということである。だから、本当に米軍の第7艦隊の原潜や潜水艦に核ミサイルが搭載されているかどうかは観測しない限りは実情はなんとも言えず、日本政府が非核三原則を宣言した上で、同盟国である米軍が核を持ち込むはずはないと言い切れば、不確定ではあるが「核を持ち込ませない」ことが実現できているというのがこれまでの日本政府の主張である。しかし、最初から最後まで米軍の第7艦隊が日本に寄港する前に核ミサイルを何処かに置いてきて、丸腰状態である核抜きの状態で「良し」としていたとは誰も信じないだろう。もちろん、ある程度の「ブラフ」が定着した今現在に本当に核を搭載し続ける必要があるかどうかは知らないが、少なくとも過去のある時点までは核の持ち込みがあったのは事実だろうし、今後も北朝鮮や中国の情勢しだいで丸腰状態では済まない状態が来ることは容易に想像できる。その時、米軍としては日本に正直に「核を持ち込ませて欲しい」と言って揉めたらそれこそ取り返しがつかないから、米軍はダマで核を持ち込むことは当然のことだろう。ブラフがブラフでなくなった瞬間が本当は最も怖いから・・・。

この様に考えると、何処かで憲法9条の問題を正面から議論しなければならないが、それは中国、韓国との関係が良好なときにはやり難い。折角上手く行っている状態を自ら進んで泥沼に陥れることは勇気がいるが、幸いなことに現在の中国、韓国との関係は冷え切っており、物事を見直すタイミングとしては実は非常に好条件の時である。ここで一気に言うべきことを言い、相互に言いたいことを言い切ったところで「その状態」を新しい原点としてリセットすれば、その後はその前提のもとでの中国、韓国との関係改善が図られることになる。だれがどう見ても、自衛隊は自衛のための「軍隊」である。専守防衛の原則を維持するうえで、「自衛軍」も「国防軍」も実効的には差などない。公明党との関係で名称を「自衛軍」とすべきならそれならそれで良い。いずれにしても、現状に憲法を合わせることと、詭弁や解釈で物事を進められるという論理の破綻を、国家ぐるみで行い国民を欺くのは宜しくない。この辺で、この様な矛盾にオサラバし、国民に対して論理的な議論と論理的な説明ができる政府にしていこうというのは方向性として正しいと信じる。

この点では、自民党と日本維新の会、そして少々意味が異なるが共産党の主張には論理的な一貫性があると私は認める。これに反論できる人は、この3党以外にいるのだろうか?

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