小馬太郎兵衛@タコのイカ踊りぃっ!!

ブログの老後をユラユラ楽しむ悦楽ブログって言ったけどさ、もう一発くらい狙ってもいいのかな。やってもいいかな?

すばるステークスと聞いて思い出す

2007-02-10 21:07:43 | 競馬の話をしようか
今日の京都競馬のメインレースは、オープン特別、すばるステークス。
このレースが来ると、いつもあいつのことを思い出すんだ…。
あれからもう、10年が経ったのか…。

10年経っても、競馬好きと言われる他の友達にも一切話すこともなく、ずっと胸の中にしまい込んでいた。おそらく、重賞を取ったこともない、馬券にすらいつも絡むかどうかも分からない馬のことを話しても、仕方がないと思っていたからだ。
話しても分からない話をされても、お互いに不愉快だろう。
あいつは、俺の記憶の中で、そして、熱狂的な一部ファンの間で、ずっと、韋駄天ぶりを発揮していることだろう。

それゆけスリーコース。
影は誰にも踏ませるな。
それゆけ韋駄天スリーコース。

世が世なら、ダート短距離界も交流重賞として整備されているから、おそらく札幌1000メートルの北海道スプリントカップか東京盃、あるいはJBCスプリントも取れたかも知れない。それくらいの逸材であったことは間違いない。世が世なら東京盃でハナセールと本当にハナを競っていたかも知れない、いや、簡単に競り落としていたかも知れない。とにかくテンのスピードなら日本競馬史上1、2を争うとさえ思う。
当時こそ「地方・中央交流元年」と言われ、地方競馬の大レースが中央馬にも開放され、文字通り「どちらが強いか走って決めようじゃないか」というレースを作ってはいたのだが、大レース故、当時はマイルから中距離のレースがほとんどだった。
この交流元年により、「ホクトベガが行くところ黒山の人だかり」と、街頭テレビを彷彿とさせるようなフレーズが生まれたのも、トウケイニセイとライブリマウントの一騎打ちが話題を呼んで水沢競馬場がパンクしたのも、1995年だった。

彼女の名を知らしめたのは1995年根岸S。
なにせ当時、良馬場の府中のダートコースを33秒4で入って、3着に粘ったのだから、当時のファンはもとより、競馬関係者も舌を巻いたほどであった。普通なら間違いなく「逃げ一杯」である。

スリーコースは、世代的にはナリタブライアンと同じ世代の女の子。
デビューは名古屋競馬で、4勝という成績をひっさげて、牝馬クラシック戦線に名乗りを上げたものの、同じ東海公営笠松からやってきた、オグリキャップの妹オグリローマンに話題をさらわれた格好になった。
その後は芝でもダートでも短距離を中心に使われて、やがて能力が開花。5歳秋(旧年齢、現在の4歳)に条件戦を卒業すると、ダートで勝ち星を積み上げてきただけに、使われたのがダート重賞、先述の根岸ステークス。

その後もとにかくスタートを決めたら、あとはとにかく遮二無二逃げろや逃げろ、つぶしに来る奴は競り落とせ…というレースは続くが、逃げ馬の宿命で、勝ちに行ったところを後ろから差される…というレースが続き、なかなか馬券に絡むことはなかった。しかし、我々ファンは、とにかく逃げて逃げて逃げまくる彼女に快哉を叫んでいたものだった。

それゆけスリーコース。
影は誰にも踏ませるな。
それゆけ韋駄天スリーコース。

1997年2月1日。
あの日は、底冷えがする1日だった。
スリーコースの韋駄天ぶりを後世に残すべく、彼女も北海道へ旅立つ日がやってきた。
引退レースに選ばれたのは、これまた彼女には願ってもない条件、京都ダート短距離戦、すばるステークス。
このレースが終われば、来週には暦の上では立春。
彼女の引退レースのファンファーレが鳴る。
ゲートインは粛々と行われて、さあスタート…という団になって、1頭の馬がゲートの中で暴れ出し、転倒。係員がゲートの前に集まる。
なにせスタート地点は向正面だから、スタンド側の映像では詳しいことは分からない。
KBS京都のアナウンサーは「えー、ゲートの所に係員が集まって、サンエムキングでしょうか…、いえ、スリーコースです。スリーコースがゲートの中で…転倒しています」

おい…。
映像は、ゲートの中で転んで足をかき回してもがいている彼女を、非情にも映し出していた。
普通、ゲートで馬が転んでも、係員が腹に帯を回して引っ張り出せばすぐに立ち上がり、「見た目」でのダメージは避けられるのだが…。
様子がおかしいことに気づいたのは、ほんの1秒、2秒たつまでもない頃だろう。

立ち上がれない…。

まさか。まさか…。

競馬の神様は、所々で気まぐれに、とんでもないところでとんでもない馬に矢を放つ。それがスリーコースを射抜いてしまった。

彼女に下された診断は、左(だったかな?)第一指関節開放脱臼。予後不良。

彼女は、引退レースで韋駄天ぶりを発揮することなく、北海道とも違う生まれ故郷へ、韋駄天ぶりを発揮して帰って行った。

あの日はやけくそになり、バイトが終わった新宿で飲んで荒れたっけなあ…。


今でも、すばるステークスがあると、スリーコースのことを思い出さずにはいられない。
いや、もし奴の子供がいたら、とか、もうちょっと現役を続けられていれば…とか、そんな話はよそう。いつまでも俺たちの記憶の中で韋駄天ぶりを発揮している。それだけでいいじゃねえか。

翌年1998年のすばるステークスの日、おいらは京都競馬場へ出向いて、馬頭観音にお祈りを捧げてきた。
せめて彼女には、天国で他の馬を寄せ付けぬ韋駄天ぶりで駆け回ってくれているものと願っている。

それゆけスリーコース。
影は誰にも踏ませるな。
それゆけ韋駄天スリーコース。

スリーコース生涯成績。

  


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