ぼやかせていただいております。

惜しかった 他。

2010年06月30日 12時14分37秒 | Weblog
サッカー残念だったけど、よく頑張ったね。


Bad ideas that never die

Posted by ampontan on Monday, June 28, 2010



Anpontanさんとのころで、格差是正や自由主義について論考をしている。
その一つの民主党による高所得者の負担増について言及している。
増税路線を追認 高所得者負担増も迫る 政府税調専門家委
2010.6.22

、所得税と消費税を「車の両輪」と位置づけ、格差の拡大・固定化を防ぐため「(高所得者ほど負担が重くなる)累進構造を回復させる」とし、所得税の最高税率(現行は40%)の引き上げを示唆した


 格差是正に熱心のあまりみんなが平等に貧乏であるより、格差はあっても全体として、そこそこ豊というほうがいいのは確かである。

 私は、格差について、ある程度許容、ある程度是正必要、ではないか、という立場だが、

 累進課税がそもそも正当化されるか?
 格差是正に有効か?

といったことはまた別問題である。

 累進課税に関しては古くから批判があるようである。

ハイエクの租税論-累進課税の問題を中心として-を参考に主なものをあげると、
368項
1)立法者の恣意
2)より脱税へ誘惑しやすい。
3)資本蓄積を抑圧して、国内の投資抑制、海外への資本流失を招く
4)累進課税の根拠が希薄
373項
5)累進部分から得られる税収は税収全体のわずか
376項
6)累進課税で得をするのはもっとも貧しい者ではない。

 公共財のためみなが負担すべきだ、というところまでは、ほとんど人が納得するだろうが、しかし、誰から、どれだけ徴収すべきか、というのはかなり難しい問題だ。

仮に、100倍の所得のあるひとが100倍の負担をすべきとしても、それなら、一律の税率で済ませるのが筋なわけである。(p87経済倫理学のすすめ



2010年06月21日 00:40
「分配の公平」についてのブックガイド(池田信夫ブログ)
でも紹介されているWhat the right thing to do ? Justice with Sandeのを飛ばし飛ばし見てみると、ここらへん面白い。

 リバタリアンからすれば、おおざっぱに言えば、自由市場で、正当な根拠で正当な方法で得られた労働の成果である所得について政府が介入して再分配するのはけしからん、盗みにも等しい、ということになる。(episode 3)
 貧乏人に自由意志で寄付などするならともかく、格差も致し方なかろう、という立場であろう。
 
 リベラルからすると、努力や能力や運など恣意的な事情によって、所得が配分されるのは、公平ではない、とする。(Episode 8)
 能力や努力といえども、遺伝子や育った環境に左右され、自分で支配できない事情により、ある人が他の人より、より多くの財を受け取るのは不公平である、という議論も説得的であろう。

 ところで、池田氏はマルクスをリバタリアン的とみているようであるが、

リバタリアンとしてのマルクス
 

 しかし、これはなにをもってそう考えられたのかなかなか見当がつかない。

 引用されているゴータ綱領批判をみると、


ある労働者は結婚しているが、他の労働者は結婚していないとか、一方の者は他方のものより子供が多い、等々。

 従って、相等しい労働を遂行して、それ故に社会的消費基金に同じ持分を有する場合でも、一方の者が他方のものよりも事実上多く受け取り、一方のものが他方のものよりも豊かである、など。

 これらの欠点の全てを避ける為には、権利は、平等である代わりに、むしろ不平等でなければならなくなるでであろう。
 
 しかしこうした欠点は、長い産みの苦しみの後に資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会の第一段階では、避けることができない。

 権利というものは、社会の経済的な構造、及びそれによって条件付けられる社会の文化的発展よりも決して高度では有り得ないのである。

共産主義者社会のより高次な段階において・・・・その時初めて、ブルジョア的権利の狭い地平的限界が完全に乗り越えられ、そして社会はその旗の下に次のように書くことができる。各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!
 


 とあり、最終的には、必要に応じたものを受け取る”権利”がある、のだからリバタリアン的とはいえないだろう。

 なおググると、池田信夫センセイが初歩的な間違いを(@∀@)9mプギャ という論評もある。


 むしろ、労働者の不当の搾取という観点からみた資本主義の批判で、その是正方法についてはいろいろ解釈があろうが。やはり、資本主義の自由市場が産んだ格差に対して否定的な態度を取っている、というのがマルクスの標準的な読解だろう、と思う。

 
 いずれせによせ、分配・再分配についての正義、あるいは、善などについて様々な学説・原理があるわけだが、論争ある特定の道徳的・法律的問題について、それについてこうすべしという直観や判断とその背景となる原則を行き来し、さらに、その他の原理などとの整合性などを考慮しながら、当初の判断ないし、原理を調整して均衡状態にもっていくーー(Reflective Equilibrium反省的均衡参照)ーーように、様々な異なる見解、食い違う主張に対して、それはそれで、ご勝手に、自由だよ、と無視するのではなく、それらの主張や論拠に耳を貸し、議論していくことような社会こそが正義を体現する社会かもしれない、といところに、話を落としている。(Episode Twelve)

これは上記ブックガイドでも紹介され、、以前取り上げたこともあるSenの議論とも相通じるところがある。ペラペラめくってそのままにしてあるのだが、レビューを頼りに、思い出してみる。
 多少話(page 14)を修正して紹介すると、フルートが一つあって、それが誰に分配されるべきか、について、太郎は、「それは僕のものだよ、僕が一番その楽しみ方を知っている」(功利主義)、花子は、「それは私のものだわ、私がそのフルート作ったんですもの」(リバタリアン)伝助「いや、そればあちきにいただきたい、あちきが一番貧乏でがんす](平等主義者)(ついでに、さきのサンデルの抗議のアリストテレス主義者なら「それは当然ぼくのです。僕が一番上手にフルートを演奏できますから」)となるだろう。で、これに関してそれぞれの言い分はもっともなところもあり、どの原理が妥当すべきか単純に決着がつかない。ここで、理想的で完全な正義の社会を云々することは不要・無益であり、いま日本で、あるいは世界で起きている具体的な不正に対処することが重要で、その際、その文脈の中で、様々でより多くの視点・見解を比較しながら、また、そのことによって、自らの偏見から距離をおき、議論していく過程が重要である、という。

(日本に適用するなら、公開の根回しのような作業も有効かも知れない。)

 というわけで、ここでも民主的議論の重要性が指摘されている。が、しかし、分配的正義についてこれ!!といった最終的結論めいたことが言えるわけではない。

 ただ、言えるのは、今回の民主党のように、議論を避けたり、あるいはいままでおおくあったように、一部の政治家や官僚によって裏でこそこそやっていては正義の実現もへったくれもない、ということだ。

 この点、メディアが国政について様々な見解を提供し、国民的議論にしていく使命もある、と思うのである。
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