Today on NicoNico Douga: A Free Screening of “The Cove”
極めて面白い議論で、ザ・コーブの上映禁止のためにデモと、外人犯罪裏ファイルのコンビニでの販売停止を呼びかけたJPその他の活動を比較している。
前者が、太地町の漁師さんたちを不当に犯罪者扱いし、後者が外人さんを不当に犯罪者扱いしている点では同じで、そうした不当な描写に対する反対活動としては同様ではないか、という問題意識であろう。
対日本人と対外国人との処理で、公平な感覚をもつ外国出身者がいるのだ、というところに着目していただきたい。
個人的には前者の抗議する権利については、認めるものの、稚拙で、チンピラ風の抗議態様には否定的である。映画をみていないからわからないが、上映を前提として、賛否を論じる中で、例えば、この映画がいかに事実誤認し、また、不当な描写をしており、人種差別的でさえある、と説得した方がよい、と考える。
反捕鯨活動に関しては、
Japan’s Vote Buying at the IWCのコメント欄をみてもきちがいじみている。
イスラム教徒は、豚を食わないが、豚を食う国家や人々に対してとやかくいわない。
反捕鯨国家・活動家は、
1)捕鯨されている鯨が絶滅の危機にない。
2)同様に知性や感覚をもった豚やその他の動物は食用・実験用に殺害されている
にもかかわらず、あの手この手で執拗に反捕鯨を押し付けてくる。
どちらにも原理主義者はいるが、”白人”反捕鯨原理主義者の方がわれわれ日本人にとっては身近かもしれない。(なぜか、”黒人”反捕鯨活動家というのはみたことがない。)どっちが強烈かといえば、なんともいえない、となってしまう。
もっとも、コメント欄でこうした不整合を指摘している外国出身者がいるのも注目していただきたい。出身による一般化や差別がいかにくだらないか、また、日本に利をもたらさないか、わかると思う。
個人的にいえば、どの動物に対する殺害禁止でも、どの国家、どの国民に対しても同様、同程度に、求める菜食主義者・非動物食主義者は外国人でも日本人でも、尊敬するが、他国のことには目をつむって日本・日本人をねらい撃ちする輩には嫌悪感を感じる。
Some people
菅直人氏が4月に財務大臣としてアメリカに行った時、アーリントンには参拝し、大臣としては靖国には参拝しない、ことについての不整合について指摘している。
靖国参拝についてはいろいろ議論があるが、しかし、前者・後者について支持、あるいは、前者後者について不支持、というならば筋が通るが、それをくつがえす特別な理由がない限り、前者は支持して後者は不支持というのはおかしいだろう、という問題意識であろう。
個人的には、思想・宗教の自由の観点から、私人としての参拝であれば、大臣就任中も参拝可 というのが持論である。(もっとも、参拝してもよい、という主張、と、参拝すべきだという主張との違いにも注意)
ここでもやはり、外国出身者がこうした公平な観点をもっっていることに着目ていただきたい。再び、出身による一般化や差別がいかにくだらないか、また、日本に利をもたらさないか、わかると思う。
Hiroshima: Breaking the Silence
Howard Zinn with an introduction by Yuki Tanaka
Introduction to The Bomb by Howard Zinn
via
mozu
We did do indiscriminate bombing―not atomic, but with enormous civilian casualties―of German cities. Yet, we know that racism is insidious, intensifying all other factors. And the persistent notion that the Japanese were less than human probably played some role in the willingness to wipe out two cities populated by people of color.
In any case, the American people were prepared, psychologically, to accept and even applaud the bombing of Hiroshima and Nagasaki. One reason was that although some mysterious new science was involved, it seemed like a continuation of the massive bombing of European cities that had already taken place.
No one seemed conscious of the irony―that one of the reasons for general indignation against the Fascist powers was their history of indiscriminate bombing of civilian populations. Italy had bombed civilians in Ethiopia in its conquest of that country in 1935. Japan had bombed Shanghai, Nanking, other Chinese cities.
日本による中国の都市の無差別爆撃も許されないが、アメリカによる日本の都市の無差別攻撃も許されるものでなかろう、という問題意識である。
論者によっては、時代の基準から言えば、その当時としては、前者も後者も許容範囲であろう、という人もいる。これはこれで筋が通っている。ジン氏は、前者も後者もおかしいだろう、という側の論者のようで、これも筋が通っている。
現状では、前者は間違っているが、後者は許されるというのが国際的には、大勢であろう。
個人的にはどちらかというとジン氏の論調に与する。
日本では、日本の犠牲ばかり強調して、日本の過去の加害事実を軽視する日本人の人達がいる。これは間違っている。
英米でも、日本の加害事実ばかり強調して、英米の加害事実を軽視する英米人がいる。これはも間違っている。
そんな英米人に感銘してか、日本の加害行為だけ強調し、英米の加害事実を言及することをタブーにする日本人もいる。これも間違っている。
いずれにせよ、やはり、ここでも公平な観点をもったアメリカの論者もいることに着目したい。再び、出身による一般化や差別がいかにくだらないか、また、日本に利をもたらさないか、わかると思う。
日本の戦略としては、日本の過去、現在の不正は認めて是正し、正しいことに関しては、他国の不整合さを指摘しながら、その基準を世界に公平に適用して、監視・先導していく立場に立つのがいいと考えている。