こんな気持ちでいられたら

還暦病理医の日々と生き方考え方

ごめんねと言えたお父さん

2018年07月31日 | 家族のこと

昨晩の夕食どきに、息子と話すうち女性に多い病気のことになった。その時に私が息子には通じる言い方で女性患者さんに比較的多くみられる特徴を息子に向かって話したら、娘が「パパ、そんなこというと、セクハラになるよ!」と横から叱られた。「え、こんな言い方でもそうなるの?それに、外ではこんな言い方はしないよ、第一お兄ちゃんに対して話していたつもりだったし」と応じたけど、虫の居所が悪かったのか、プンプン怒っている。息子が「そんなに突っかからなくてもいいじゃない」と息子がなだめても、「だって、(病気のことが)わからない人にとってはそう聞こえるんだから」と取りつく島もない。結局、「俺が悪かったよ、もうやめるよこの話は」とその話題を打ち切った。妻はことの成り行きにあっけにとられていたが、珍しく黙っていた。もちろん、一家団欒はそれで終わり、子供達は部屋に戻ってそのまま寝てしまった。たしかに一家団欒で、私と息子にしか分からない話しをしたというのもよくなかった。

元はというと、私の同僚の女性医師と話題にしたことがあるような話で、もちろん医師である彼女は客観的事実として、その疾患にまつわる傾向を把握していて、その話題にしても医者同士だったら特に問題にはならない。でも、そういった背景を持たない人にとっては、苦痛なのかもしれないし、もし私自身だって何らかの特徴的な傾向を有する疾患が持病にあったら嫌な思いもするだろう。気をつけなくてはいけないのかもしれない。医者同士とか医療従事者同士の専門知識を暗号の様に使ってやりとりするのを聞いたら、嫌な思いをしたり、それこそセクハラ、パワハラと思ったりする人もいるだろう。私も昔、意地悪な臨床医出身の病理医に臨床医でしか通じないような会話を臨床医との間でわざとされてとても嫌な思いをしたことがあるのを思い出した。でも、難しいのは、普通の会話をしていても相手が医者だとわかると、医療相談の様なことをしてくる人が少なからずいるということ。そういう人は自分が話題となっている疾患に該当していると、興味深く会話に参加してくる。何れにせよ、誰かと病気とか医学についての会話をするときは医者として内容に対して責任を持ち、さらにはそこにいる誰かに不愉快な思いを持たれない様にしなくてはいけない。

それはさておき、娘とまた険悪な雰囲気となってしまった。寝る前に、妻から「あの子は、パパに’セクハラになることもあるから気をつける様に’って言ったつもりなのよ。」と言われた。娘の本意がどうだったのかはわかないけど、妻のいう通りに考えてみたら、家族としてありがたいことだ。明日の朝、起きたら私から謝ろうと決めて寝た。

・・・

だが、目覚めてからが大変だった。「どのタイミングで謝ろう」と考えると、なかなかその’タイミング’が見つからない。山行があるので、すでに娘も起きていてアレコレと身支度をしている。むしろ赤の他人だったら簡単に謝りもできるのだけど、娘だとかえって難しい。走行するうち、朝食のシリアルをコーヒーで流し込みながら食べていたら、娘の方から全く別のことで話しかけてきた。ある意味、事務的な連絡事項で、まあ当たり障りないことだった。家族というもの、喧嘩をしても翌朝はケロっとしているもので、娘としてもそうだったのだろう。私もそれに倣って、昨夜のことはうやむやにしてしまえばいいのかもしれない。でも、それでは朝から悩んでいた甲斐がない。それに娘が言っていたことは、正しい。医者がエラそうに専門知識を隠語の様に使って、専門外の人の前で会話してはいけないのだ。

先に出かけようとする娘の名前を呼んで「昨日はごめんね」とやっと謝った。娘は「ああ、別に。じゃあ、行ってきます!」と言って、重そうな大きなザックを担いで出かけて行った。

そうしたら、出掛けて2分後に「登山靴忘れた!」と取りに戻ってきた。私がしおらしく謝ったのに動揺でもしたのだろうか。そうだとしたら可愛いところもある。

いつまで経っても、娘との付き合いは難しい(人にはやさしく、そして自分を幸せに 2007年09月09日)。でも、娘も成長したと考えると、彼女の意図を理解するようにしたら、私も彼女から学ぶことがあるということだろう。

いつまでたっても成長しない私

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消えてなくなれ、12号!

2018年07月30日 | 日々思うこと、考えること

消えてなくなれ、といってリュウゼツランの写真があるからといって、その花の話ではもちろんない。

上から、2番目の房(?)まで開花した。明日か明後日かには一番上まで届くだろう。花の周りにはたくさんの虫が飛んでいる。さすがはテキーラの原料になるという植物だ。あま〜い蜜を吸うことができるのだろう。

さて、今回、東海から中四国地方を横断した台風12号は、前代未聞の進路をとった。明日には、九州を抜けて西の洋上に抜けてくれそうだけど、東シナ海あたりの海水温が高くて勢力を盛り返すなんてことにならないで、このまま消えてなくなって欲しい。

(Google 災害情報より)

などとタカをくくっていたら、この台風(ジョンダリ)、屋久島のあたりで一回転して本当に勢力を盛り返したらしい。ホラー映画じゃないんだから、ほんと、とっとと消えてなくなってくれ!

異常気象の原因はもちろん人間の活動。日本だけでこれほど自然を破壊したのだから世界中を合わせたら一体どれほどだろう。人間のどの行動が温室効果ガスの排出と気温上昇に関わっているのかはわからないけど、おそらくそのほとんどなのだろう。知恵を絞って二酸化炭素の削減を目指しても、即効性は期待できないから政治家はあまり動かないだろう。空気中の二酸化炭素を集める技術というのはすでにあるようだから、息をするのが苦しくなる前に二酸化炭素濃度をコントロールするぐらいにはなってくれないか。

私たちの生活改善も

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倒れなかったリュウゼツラン

2018年07月29日 | 鎌倉暮らし

台風一過、と言っても東から真西へと進んでいった台風12号が通り過ぎた後の鎌倉の朝。空がスッキリ晴れ渡るというわけではないが、天候は間違いなく回復に向かっている。昨晩はものすごい風雨だったけど、さいわい裏山は崩れてこなかった。

フゾクのリュウゼツランが昨晩の強風で倒れちゃいないかと心配で、細かな雨がミストシャワーよろしく降る中、気もそぞろに妻とナイトと様子を見に行ったら、そこには何事もなかったかのようにすっくと立つリュウゼツランがあった。感動的だった。花は8分咲きぐらい。フゾクの先生方も心配していたのだろう、茎の真ん中にロープが張ってあった。

雨上がりということもあって、幸運なことに大きな虹のおまけがついた。黒い犬(ナイト)を引っ張りながら喜んで写真を撮っているのは私で、後ろ姿を妻が撮ってくれた。今日は午後から1本プレゼンがあるのだけど、これはまったく幸先がいい。

フゾクの前の道はあいにく電線が多いので、虹の写真を撮ろうと、鶴岡八幡宮まで足を延ばした。延ばしたといっても、この写真の奥にある鳥居が東側の参道の入り口。源氏池まで行ったら虹が端から端まで全部が見えた。ただ、虹は大き過ぎてスマホのカメラでは一つのフレームに収まりきらなかった。

すれ違った近所の方が、風でリュウゼツランの種が道に落ちていることを教えてくれた。これを育てあげたら、私が生きているうちにもう一度花を見ることができるだろうか。

家に帰りついた途端、また土砂降りとなった。午前中いっぱいは降ったり止んだりだろうか?

西日本の方はお気をつけて

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自分だからできて当たり前だと思ってた

2018年07月28日 | 生き方について考える

昨晩の研究会は無事終了。金曜日の夜なんて、1週間のお疲れの溜まっているところであるにもかかわらず、多くの先生に参加していただいた。教室のスタッフ、すなわち医者もコメディカルの方も会場の設営、受付、撤収等を本当によく手伝ってくださった。私は人の手を借りなくてはいけなくて何かする時、私の能力こそがあるからやれるのだと思っていたのだけど、どうやらそうではなかったみたいだ。

これまでのことを思い出す。

高校の体育祭で優勝したときのこと。色分けというそれぞれの区分に別れてそれぞれのみんなが勝利に向けて頑張っていた。団長だった私は、そのみんなのそれぞれの意思を理解していただろうか。頑張るのが当たり前、などと思っていなかったか。また、バスケットボール部が東医体で優勝したとき、チームメイトと勝利を分かち合った時に、自分の功績ばかりを意識していなかったか。ベンチを温めていた仲間を含め、練習の段階からのみんなの努力、貢献があったことを意識していただろうか。病理医となって講演とか大きな発表をさせてもらう時、また大型の研究班に参加させてもらう時、それらは私だけの功績だと思っていなかっただろうか。私に仕事を与えてくださった先生の思いを理解していただろうか。私は天狗になっていなかっただろうか。

昨夜、私がお世話した研究会が成功したのは、私だけの力でできたのではない。これまでの人生の中で、とてもとても多くの人に助けてもらって生きてきたということを知らずに過ごしてきた。なんでも、お膳立てから最後まで、自分だからできて当たり前と思って生きてきた。

人生の後半をすでに大きく過ぎてしまってから、こんなに大事なことに気がつくというのは遅すぎたけど、このことを知った今こそが人生のスタートだと思い、感謝の気持ちと謙虚さを忘れないようにして生きて行きたい。

もちろん家族へも

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人間の視覚調整能力

2018年07月27日 | 日々思うこと、考えること

昨晩、鶴岡八幡宮の鳥居の上に、雲がホウオウの様な形で照らし出されていた。雲は結構な速さで動いていたみたいで、写真に収めることができたのは左の翼に月が隠れてしまう寸前だった。

普段から、目を使って情報を得て、それを統合して診断するという仕事をしている割に、自分自身の視覚というものがどの様な仕組みで、それらの情報がどの様に調整・処理されてアウトプットに至っているのか、細かい仕組みについてはあまり理解していない。

夜明け前の空のほんのすこしの明るさの差、機械(スマホのカメラ)は一つ一つのものの形態をはっきりと記録する。記録の再現性はほぼ永久だ。ただ、私がこの写真から得ている情報というのはここに映っているものではない。

私がこの写真を撮った時に感じたのは、東の空の明るさだけではなくて、カメラのフレームの枠外の風景を含めた辺りの明るさだ。

人間は、注目すべき所見を抽出し、そのことについて特によく解析する。

病理診断で言えば、正常組織の中に埋れているがん細胞を見いだすことだ。絵画でいえば、人物画では人の顔は詳細に書き込むが、周囲はむしろ大雑把に描くという様なこと。仮にいくら詳細に見えるといっても、今乗っている電車の車窓からの風景を眺める時に、窓枠に目が行くことはまずない。でも、写真だと、枠が入ってきて、「なんだこれ、邪魔だな」となる。

リュウゼツランの花は後、3段ぐらいが残っている。この写真のフレームのすぐ外には電線が写り込んでいる。トリミングして消したけれど、配置が少しずれてしまっている。頭の中ではリュウゼツランだけが見えているのだけど、写真だとそうもいかない。

花を見るにしても、下の方のすでにしおれてしまった花にはあまり目がいかない。とくに、先端部のつぼみの膨らみぐらいに興味がいって、そこを頭の中でズームしている。

昨日、書いたことだけど今週末は大型の台風がやってくる。今夜は私が主催する小さな研究会がある。小さめといっても、事前の参加予定者は30名。仕事帰りに参加してくださることを考えたら結構な人数だ。粗相のない様にしたい。明後日は割合大きめの学会でのシンポジウムでのプレゼンがある。準備状況は最後の詰めを残し、七割ぐらい。明日でなんとかなると思っている。

やっぱり心配なのは台風。今夜はしのげても、明後日は厳しそうだ。私自身が会場に行けるか少し心配。

みなさんお気をつけて

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たとえ焼け石に水でも

2018年07月26日 | 日々思うこと、考えること

台風12号が本州に接近していて今週末には直撃するかもしれないという。

一番東寄りのコースを取って、そのまま北上してくれたら、少し涼しい空気が入ってくるからと期待するのだけど、どうもそう都合よく行きそうにはない様だ。いずれにしても、この台風のおかげで気温だけは多少下がる様だ。気象予報士の誰だかが、「台風の影響で気温は下がりますが、一時的なもので、台風が過ぎ去った後は、また暑くなります」とかなんとか言っていたけど、たとえ一時的で焼け石に水程度であっても、気温が下がるのとそうでないのとでは全く話が違う。

それはそれで、台風は直撃してくるものと覚悟して十分な備えをしておかなくてはいけない。

心配なのはフゾクのリュウゼツランだ。あと一息で全ての花が咲こうというところで、最後の力を振り絞っている。その姿は感動的で涙を誘う。いよいよ茎も痩せ細ろえてきて、台風の強風に倒されしないかと心配で、以前倒れてしまったど根性ひまわりのことが思い出される(ここのところのあれこれ 2015年07月09日)。あの様なことにだけはならないで、最後まで開花をまっとうしてほしい。

そもそも、こんな頭でっかちな状態で咲いていること自体が奇跡的で、茎がよほど強靭なのだろう。すべては自然の中での出来事といえばそれまでかもしれないけど、このおかしな気象状況を招いたのが地球上の生物のうち、私たち人類であって、他の生物には責任がないということが情けなくなる。

手をこまねいているだけでは

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医学生が陥りやすそうな勘違い

2018年07月25日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

息子の24歳の誕生会をした。近所の医学部に通っていて、今6年生。来年には家を出て行く。そういうわけで”わが家の子供”として家で誕生日を祝うのは昨日が最後だった。神様からのお預かりもそろそろ終わりと思うと感慨深い(よいこの育て方 エピローグ  子供は親のものではない 2009年09月23日)。試験期間中の娘も急いで(とは言っても昨日は鎌倉花火大会で駅は殺人的に混んでいて、抜け出すのは大変だった)帰ってきて、4人で祝うことができた。

食事をしているうち話題が娘の試験の話へとなり、娘が昨日試験があったナントカ法の話をしてくれた。娘は法学部に通っている。息子が、「覚えることがたくさんで大変でしょ?」と言うと、娘は「お兄ちゃんがやってる医学部の勉強の方こそ暗記ばかりでしょ?私が今度受ける法医学の試験もほとんど暗記だったし。それに比べて、法律の勉強って暗記以外のことが多くて大変なんだよ。」と言い返した。なんでも、欧米の法律と違って、日本の法律はその”解釈”が重要だと教えてくれた。その辺りの勉強は暗記だけでは追いつかないほどらしい。その後兄妹で多少やりとりがあって息子も娘の言いたいことがわかったようだった。二人とも勉強があるからと部屋に戻り、誕生日会はお開きとなった。

子供たち二人のやりとりを聞いていて考えたことがあった。医学生というのは自分がしなくてはいけない勉強量がとても膨大で、とても難しいものだと考えている。たしかにそうだけど、それは別の分野の人からは果てしない単なる暗記勉強にしか映っていないのかもしれない。解剖学は暗記以外の何物でもなかったし、他の基礎科目も覚えることばかりで、薬理学なんて気が狂いそうになった。先人たちの残した膨大な知識、そういったことをまず覚え、それを基礎としてそれらが組み合わさった臨床医学の勉強に発展し、そこでもまた気が遠くなる様な暗記勉強をする。それらを組み合わせる能力を養うのが医学部の教育で、ペーパーテストが主の国家試験は仕上げの医療シュミレーションテストだ。

医学生のなかには、自分たちこそがすごい勉強をしている特別な存在だと思っている人が少なからずいると思える。最難関と言われる入試を突破した自分たちがしている勉強というのは、学生としては最もハイレベルの内容であると考えている人がいるかもしれないが、それはたぶん違う。それにそもそも受験テクニックに長けた学生にとって医学部の勉強なんてそれほど難しいことではない。人と同じにやっていたら、合格率9割の試験に落ちるわけがない。

ある意味、全国の医学生の上位9割に入らなくてはいけない試験という側面もないわけではないが、それでもものすごく大変な競争ではない。だから、少なくとも自分たちの勉強が世の学生の中で最も大変だと思わないように気をつけなくてはいけない。ずっと難しい学問に挑戦している同世代の人はたくさんいる。大学入試が少々うまくいって医学部に滑り込んだだけのことで、自分はすごいとか勘違いして、おかしなプライドを持って、入学後の人生を慢心して過ごす様なことがあってはいけない。そして、そういう医学生の側面が自分にあったということを思い出すと、顔から火が出るほど恥ずかしくなる。

常に謙虚であれ

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男の片意地

2018年07月24日 | 日々思うこと、考えること

週末、妻が暑気あたりで調子が良くないので、昨日からナイト(フラットコーテッドレトリバー、7歳)の散歩は私が担当している。出勤前なので、ちょっと慌ただしいのだが、仕方ない。犬を一日中家の中に閉じ込めておくなんてわけにはもちろんいかない。竜舌蘭の開花を追うのも楽しみだ。

それに、これはこれで思わぬ発見があった。たったの二日だけど、夏の間の犬の散歩のタイミングがわかって来た。5時には起きだしてぐーすか寝ているナイトを起こして散歩に連れ出す。日の出前の空全体がぼんやりと明るい中というのは案外気持ちがいい。小鳥のさえずりもたくさん聞こえてくる。妻もこれなら苦にならないので、早くに起きだして散歩に出ていたのだろう。

竜舌蘭の開花は順調に上の方に向かっているが、下の方のは早くも散り始めている。

日の出前に歩いて驚いたのは、この時間帯に散歩している人が随分いるということ。朝は犬の散歩の人が4分の一、あとは普通の散歩の人というところだが、男性も女性も私よりも年上、団塊世代ぐらいの人が多い。カップルで歩いている人はほとんどいなくて大抵は一人。そういう人とすれ違うごと、挨拶をするのだけど、挨拶を返してくれる人とそうでない人がいる。男性の三割ぐらい、女性の一割ぐらいは”おはようございます”と挨拶しても何も返ってこない。全く無視されている場合もあるし、いかにも犬の散歩が目障りです、というふうの人もいる。犬を連れていない人同士の方がより仲良く挨拶をしている様にも見える。

私とナイトが歩いている先で、単独散歩のおじさん同士がすれ違いざまに、「おはようございます、暑いですね。今日はお早いですね」とこちらから歩いている人が声をかけたら、向こうからきた人が、「おはようございます。いや、今日はこれでも遅いんですよ」と返事をしていた。”おいおい、それはないだろう。”と心の中でつぶやきながら、そのおじさんとすれ違った。

こういうのを”男の片意地”というのかとふと思った。”片意地”とは広辞苑(第6版)によると”頑固に自分の考えを立てとおすこと。また、その性質”で、厳密にいえば私の使い方はこの場合違っているかもしれないけど、なんとなく語感が合った。

声をかけた人はともかく、声をかけられた人は人生の中でずっとそうやってきたのだろう。

「いい仕事したね」「いや、こことここ、失敗したからダメだよ」

「いい天気でよかったね」「いや、少し曇っているぐらいの方がよかったのに」

「お子さん、ご立派に育って」「いや、大学進学で失敗して」

とか、そんな感じだろうか。これでは話も弾まない。いつもそんな話に持って行くものだから、話が途切れ、話をする機会がどんどん減ってしまって、余計に話し下手になる。そうすると、余計意固地になって自分の世界に閉じこもってしまうことになる。随分と気の毒な、というか寂しい人生だ。

とかなんとか、実はその人たまたま口からそう出てしまっただけで、いつもは違うかもしれない。あくまでも私の勝手な想像だ。

自分から人との関わりを持とうという人、ハナから人と関わりなど持ちたくない人、関わろうと思っているのにできない人、色々な人がいる。

どんな子供だったのだろう

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スマホ忘れて、公衆電話はどこにある!

2018年07月23日 | 日々思うこと、考えること

鎌倉駅のホームに着いたときに、スマホをカバンから取り出そうと思ったら無い!しまった、家で充電しっぱなしだった!

駅まで送ってきてくれた妻はまだ帰る途中だろうと、公衆電話を探すが、ない。

ホームの売店の横にあったと記憶していたのだけどそこにはなくて、階段を降りて探しても無い。

駅構内の何処かにあるのかもしれないが思い当たらない。

改札を出てあたりを探してもすぐにはなくて、昔からあった交番の横の電話ボックスが目に入った。

観光客の波を避けながら、蒸し風呂の様な電話ボックスの中からSOSの電話を妻にしたら、途中まで引き返してくれて、次の電車に間に合い事なきを得たが、ずいぶんと焦った。

この記事を書いていて、そもそも電話ボックスという言い方を忘れかけていたのにも驚いたが、テレホンカードの使い方が下手になっているのにもびっくりした。

慌てて番号を押すものだからうまくかからず、2度ほど失敗してしまった。

”ピピー、ピピー”という音を嫌というほど聞かされた。

幸い、妻の番号は携帯電話の頃から変わっていないので、覚えていたけど、息子や娘の番号は知らない。

何処かに控えておかなくてはいけない、と思ってまずスマホのメモを思い浮かべる様ではなんだかなー、だ。

公衆電話がどんどん減っているというのは聞いていたけど、鎌倉駅のボックスもこれほど減っていたとは驚きだった。

私が電話をしている横に中学生ぐらいの女の子が電話をかけに入ってきていたから、携帯を持っていない人も少なくないだろうと思うと、便利になったのか不便になったのかよくわからない。

固定電話を契約しない家庭も増えているようだけど、そういう人たちは私の様にスマホを家に忘れるなんていう事自体なくて、絶対にスマホを忘れたりはしないのだろうか。

スマホと一心同体

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今日はお休み

2018年07月22日 | 日々思うこと、考えること

あまりの暑さに、頭が働かないのと、持ち帰り仕事もてんこ盛りで、今日はブログモードになりませんのでお休みにします。

附属の竜舌蘭は真ん中まで咲きました。

あとちょっと

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ナスで暑さを吹き飛ばせ

2018年07月21日 | 日々思うこと、考えること

上司が家庭菜園で取れたからといって、ナスを持ってきてくれた。私も長ナス、丸ナス、中長ナスの三本をいただいた。

昨晩は妻がナイトの仕事関係(ナイトの仕事 2013年11月23日)の暑気払いの会があり、私が夕食の準備をすることになっていたので、この三本も食卓に載せようと張り切って準備した(たったの三本だが)。ちなみにナイトは留守番。

家に帰ったら、”きょうの料理ビギナーズ ナス特集”が置いてあった。ここから選んで作ったのが、長ナスのバジル風味鍋しぎ、中長ナスのラー油和え、丸茄子のナスそうめん。ついでに、わが家のきゅうりで、にんにく炒めを作った。ナスそうめんはクックバッドにあったレシピで、そのほかは”きょうの・・・”のレシピ。

左上がキュウリのにんにく炒め、右上がナスそうめん、左下がバジル風鍋しぎ、右下がラー油和え。インスタ映えするような出来上がりではなかったけど、味はまあまあで、息子と娘の評価はまずまず。コロ健的にはどれも美味しく、ビールと一緒に美味しくいただいた。

キュウリもナスも体を冷やす効果のある夏野菜。たくさん食べて酷暑の夏を乗り切ろう!

水分補給も忘れずに

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写真に対する思い

2018年07月20日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

ブログには日々なるべく写真を載せるようにしている。ブログに載せる写真を撮る時、はじめのうちはデジカメを使っていたけど、今ではもっぱらスマホのカメラだ。ワンゲル部に入って、ほうぼうに出かけている娘の一眼レフで撮った写真を見ると、その美しさに驚くが、そんなに重いものを持って通勤などできない。それに画素数がどうのと、若かった頃なら気にするようなことも、今ではあまりこだわらない。どんな写真でも大して変わらないし、ブログにアップするには容量のことも考えなくてはいけない。元来、私が凝り性でないということが一番だろう。息子もあまりこだわらないようで、この間買い換えたiPhoneの一番新しいのの写真が綺麗で、インスタには十分だと喜んでいるレベルだ。

リュウゼツランの写真だけは娘のカメラで撮ってもらいたいのだけど、あまり興味が湧いてこないようだ。私と妻とナイトのように早起きで涼しい時間に起きたらいいのに、もう日がすっかり昇ってから起きるものだから暑くて見にいくこともままならない。それに、試験中ということもあって、時間が無いということもあるみたいだけど、やっぱり頼んでおこう。なんといっても、30年だか50年に一度の開花だ。少なくとも附属で見ることはもうあるまい。

写真についてこだわる病理医は多い。というか病理医のほとんどはわかりやすくて美しい写真を撮ることの意義を知っていて、その半分ぐらいは素晴らしい写真を撮る努力を怠らず、そのまた半分、すなわち病理医の一割ぐらいは写真に命をかけている(ように見える)。

病理医は標本を顕微鏡を使って診て、診断さえしていたらそれでいいのにこだわる人が多いのはなぜかというと、病理医の仕事はそれだけでは終わらないからだ。希少な症例、研究症例など、病理医のコレクションにしてここぞ(教育や講演)という時のプレゼンに使ったり、論文化したりするときのために、いい写真を撮ろうと気合いを入れる。写真を撮るときは、全体の構図はもちろんのこと、一つ一つの細胞の厚さどころか核の丸みまで気にして、核小体が塩梅よく写るようなピントを探る。免疫染色ではその一枚ですべてが説明できるような写真を撮る。電子顕微鏡写真を自分で撮ることは最近では全くなくなってしまったのだけど、技師さんが撮ってくれた写真が美しいと嬉しくなる。


仕事に関わることになるとそれなりに頑張るのだけど、だからといってブログに使う風景&犬の写真を手を抜いているつもりはない。顕微鏡写真を撮るときと同じように、撮影の時にはそれなりに出来上がりを考えて撮ってはいる。まあ、あんまり気合を入れず、日々気楽にやっているから続けていられるのだろうと思う。

PAS

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なかなか良いタイトルのはずだったのに

2018年07月19日 | 日々思うこと、考えること

年のせいだとはわかっているものの覚えておこうと思ったことを忘れてしまうと残念な気持ちになる。最近、忘れっぽいと実感するようになった。人の名前を忘れるなんてことは言うに及ばず、最近よくあるのは、思いついたブログのタイトルというか書くテーマをすぐに忘れてしまうということ。以前にも似たようなことを書いた記憶があるのだけど、その時どんなことを書いたか調べようと思ったのだが、検索ワードも出てこない。あれはいつ頃のどんな記事だったろうか。

それより、昨晩、夕食の前に思いついた言葉はなんだっただろう。妻の愚痴ともいえない話を聞いていて思ったことで、なかなか良いテーマだったはずなのだけど、忘れてしまった。妻が一生懸命話しているところで、「お、それブログのテーマにできる」などと言って、話の腰を折るのは失礼なことだし、結構シリアスな話だったから覚えているだろうと思って油断していたら、そのまま忘れてしまった。

一度考えた言葉だから、記憶のどこかに隠れているのだろうけど、今となっては妻が話していたことも半分ぐらい忘れてしまった。話の主題は覚えているけれど、その時自分が何をどう考えたかは覚えていない。何を考えたかを忘れてしまったおかげで、こうして今日のブログも書くことはできた。

人間というもの、いろんなことを実によく考えるものだ。思いついたことを全て深く考えることはできないけれど、その都度少しずつ考えをすすめたら人間的に”深化”できるかもしれないと思うのだけど、それがどうしてかなかなかうまく行かない。人間はどうして物事をどんどん忘れてしまうのだろう。神経の伝達速度の限界だろうか。どんどん蓄積されていくたくさんの”記憶”を常に言語化するために蓄積しておくということは無理なのだろうか。この辺りは機械に劣るところで、さっきも”忘れた”とか”備忘録”なんて入れて探してみたのだけど、改めて凄いと感じる。出てきた記事をそれぞれ読むと書いたことは鮮明に思い出す。

何年か後も私が元気で、このブログを続けていて”物忘れ”だかなんだかの話を書こうと思ったときに、似たような記事を探そうと検索をかけたらこの記事がヒットしてくるかもしれない。その時には、内容よりもむしろこのフゾクのリュウゼツランの写真を見て、話はそちらにいってしまうかもしれない。それはそれで楽しみなテーマで、その時に私はこのリュウゼツランのことを思い出すだろうか。

明日は明日で

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暑過ぎます・・・熱中症にご注意!

2018年07月18日 | 鎌倉暮らし

連日、今回の豪雨の被災地の大変さ、とくに暑さに伴う過酷な状況が報道されているが、私が住んでいる鎌倉も暑い。地形的な状況が違うからどこかとここを単純に比べることはできないが、朝の凪いでいる時間などは日本中のどこと比べても一番暑いのではないかと思ってしまうほどだ。

日が昇りきってしまわないうちにナイトを散歩に連れ出し、例の竜舌蘭を見に行ったら、結構な人だかりだった(といっても 5、6人)。花は3分から4分咲きといったところだろうか。これが満開になったらさぞ豪華だろう。今週末あたりが満開だろうか、楽しみだ。

せっかくだからと鶴岡八幡宮の源平池まで足を伸ばした。涼しげに泳ぐ鴨が羨ましい。このあたりでもう汗が噴き出している。

ナイトの顔を見ると、ベロが赤くなり始めていて呼吸も荒い。これ以上は無理をさせるわけにはいかないし、私も仕事に出る準備をしなくてはいけない。もう一度フゾクの横の通りまで行って、竜舌蘭を眺める。

後ろに重なる雲が一瞬竜のように見えた。

家に帰って、シリアルとバナナとヨーグルトを、散歩に出る前に淹れておいたコーヒーで流し込んで少し落ち着いてから、昨晩の風呂の残り湯に1分ほどつかった。せっかくだからもう少しゆっくりしていたかったのだけど、仕事に出なくてはいけない。襟足のあたりが少々濡れていたがそのまま出てきた。

真冬同様、真夏も妻に車で鎌倉駅まで送ってもらっている。車載の温度計はすでに29度!朝のこの時間でこの温度は尋常ではない。

昨日職場で、昔は32、3度なんて一夏に数えるほどしかなった、などという話をしたが、日本の夏は本当に着実に酷暑へと向かっている。

送ってくれた妻に、熱中症には気をつけ、水分補給を忘れないように言って車を降りる。妻は頑張りすぎる傾向があって、こんな時期でも、冷房を入れず、水分補給を忘れて家事に没頭してしまう。昨日も軽い熱中症のような状態になったようだ。一緒に車に乗り込んできたナイトにも家のことよろしくと頼んで車を降りた。改札口を通る時点で汗が吹き出し、ホームで並んでいたら汗が垂れ落ちてきた。

どう考えても、暑すぎる。

頭痛には注意

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暑さに負けず班会議

2018年07月17日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと

昨日は、朝の散歩で竜舌蘭を見て、帰ってから水やりをしたり少し庭仕事をしたらぐったりしてしまった。軽い熱中症だったのかもしれない。しばらく、部屋の中でじっとしていた。酷暑の中では不要の外出はするなというのは確かなことだ。午前中いっぱいゆっくりしていたらだいぶ元気になった。

猛烈な暑さの中、ある研究班会議のために東京へ向かった。鎌倉駅までの途中、多くの観光客が笑顔で楽しんでいるのを眺める。やっぱりここはいいところなのだな、と思う。

開始時間より少し早く到着すると、班長さんが既に準備をしていた。班会議の班長というのは、本当にすごい。

自分でこれをやろう!と決めた研究テーマについて、全国からその道の専門家を集めて研究班を組織する。その人たちの知恵を集めて研究を推進する。昨日の研究班は、ある難病についての研究を行っている。メンバーは仙台から福岡まで、全国各地からやって来る。病棟の仕事があるから参加できないということで、Google handoutで参加している先生もいた。臨床の班員はその疾患のスペシャリストがほとんどだけど、病理医である私なんぞは、その診断はするけれど、研究まではしていなかった。それを班長さんに声をかけてもらって、参加するようになった。おかげで今では一応その疾患のスペシャリスト。ありがたいことだ。

そうやって、人を集め、各班員のお尻を叩きながら、研究を推進する。〇〇班、なんていうが、私には到底できそうにない。せいぜい班員として頑張るのが精一杯だ。

昨日は、3時間ほど、プレゼンとブレインストーミングを行い、さらなる研究推進への準備をすることができた。私のプレゼンもそれなりの関心を持って受け入れられ、好評だった。病理医は患者さんからは一歩離れているので、現場を離れても頑張っている臨床医と一緒に仕事をすると、別な意味でテンションが上がる。

それにしても、昨日は暑かった。都心の会議室を借りての会議だったが、ターミナル駅を降りるとたくさんの人で溢れていた。東京はもはや立派な観光都市だ。そこから1時間足を伸ばせばいいだけのこと鎌倉は絶好の観光コースとなるのは確かだ。その、溢れるような人の波をかき分けて、会議室にたどり着いた。会議室の部屋は涼しかった。会議室といっても、広さは大きなカラオケルームと同じぐらい。よく考えたものだ。

仲間と共に頑張る

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