一足早くというか、フライングしてしまった感じのような春の嵐。1日早いといっても立春はまだ明日だ。昨晩からの強い南風がたくさんの雨雲を運んできたようで、風の音と雨音でいつもより早くに目が覚めてしまった。いつも通り、妻に駅まで車で送ってもらったが、降りる時には雨脚も弱くなっていたので、傘を持たずに少し小走りで駅舎に駆け込んだ。多少は濡れたが、満員電車で濡れた傘を持っての取り回しを考えるとよほど楽だ。帰る頃にはすっかり止んでいると言うし、いざという時には病院には置き傘もある。それほど心配することもあるまい。
昼はいい天気だったが、南風は夜には冷たい北風に変わっていた。
コロナ禍で他人との”親密な”接触がほぼ不可能となって、これからの人類は、少なくとも新型コロナウイルスをコントロールできるようになるまでの間(そんな日はおそらく来ないだろうが)、行動の変容が求められる。今朝髭を剃りながら、誰かとすれ違ってもその人の人相というものがほぼわからなくなるのだなあと、ふと思った。目だけ見てもマスク越しではその人が自分にとって親しみが持てる容姿なのかどうかはさすがにわからない。そしてそんなことを考えたら、これからどうやって人とのつながりを作っていったらいいのだろうかと不安になった。自分の思いとか、考えとかをどこでどうやって表出していったらいいのだろう。
私は、自分がこうありたい、こうなりたい、こんな気持ちでいたい、と思いながらこのブログ(”こんきも”)を日々書いている。ここには、私の心の片隅にある、善的なもの、のみならず私の心に巣食う暗黒面に対するアンチテーゼのようなものが渦巻いている。それは私の中の99%の反省と1%の肯定だ。
ブログを書く目的は、人それぞれ、政治の話を思いを込めて書いておられる方、医療のことを客観的に書いておられる方などがいる一方で、風景写真、お花の写真を載せている方もいる。
私はそのたくさんのエントリーの中から気に入ったものを読み、だんだんとそのブロ主さんの人となりを想像していく。読み始めた頃は興味深かったもののその後その勢いの無くなってしまった方もおられるし、その逆もある。これは、生身の人間関係と同じようなものだ。この先、実際にお会いしてお話ししたいと思うようになる人がいるかどうかはまだわからないが、興味のある方はたくさんいる。
”SNSとかブログとかでその人の人格とか性格を推し量り、付き合いたいと思う人を選んでいく”
そんな時代がくるのではないかと思った。すくなくとも、エントリーを書いた人の心にはそんな一面があることは本当だから。それがぶれずにあったら、そこにはその人の本質的なものの一部があるのではないかと思えるのだ。
自分自身でこのブログを通覧してみると、わずか十数年の間には私の身の上には数え切れないほど多くのことが起こったが、ブログの世界は案外静謐が保たれている。不思議なものだ。
新しい形での人間関係の構築方法を考えなくてはいけない時代はすでに到来している。
人間関係も変容していく