冨士大石寺顕正会向上委員会

     「会長無謬神話」の崩壊を直視しよう

冨士 第十二号 (6407)

2006年05月24日 | ◆ 冨士
      ( 昭和三十九年七月二十三日発行、発行兼編集人:白石秀一 )


        勤行の仕方について 





                  ◇     ◇     ◇ 
 「あまり形式にこだわり過ぎるのはどうかとも思う。『元心の所為をとり、乃至小節にこだわらず』です」と。
 今年に入って、台湾版の勤行要典が作成されました。これはいずれ国内でも、同様にするという事であろうか。妙信講の当時から見ると、かなりの改変です。「乃至小節にこだわらず」の範囲に、収まっているのでしょうか?


        日蓮正宗綱要 (6) 堀日亨上人

 宗祖の御時代も、そのころであって、南都の小乗戒も、北嶺の大乗戒もほとんど授戒が絶えていたのを見て、時のしからしむるものとして、本門の本円戒を起すべき大願を立てられた。
 その御内証には、広大なる御計画があったであろうが、順序からいえば、伝教大師の戒壇が手本となるべきじやが、三国一の名山たる富士山の下に、堂々たる戒壇堂を中心にして一大仏教都を建設しようという御考えであったろうが、その地割なども、公にしてない。
 日興上人に口伝せられて、その伝統の上人の腹中に存ずるのであろうが、場所だけは天母原と後世にいっておる。しかし、たしかな縄張りや、戒壇堂の設計、または授戒の作法等は、その時の法主の口伝から出ずべきものであろう。
 ただし、堂に安置する御本尊だけは前もって御こしらえになってある。すなわち今の戒壇の大御本尊である。
 この戒壇について、事相にあらわるる戒壇堂と、義理の上で戒壇とも思えるの二つがある。事相の堂は、将来、一天広布の時に、勅命で富士山下に建ち、上は皇帝より、下は万民にいたるまで授戒すべきところであるが、まず、それまでは本山の戒壇本尊安置の宝蔵が、まずその義に当るのである。末寺の道場も信徒の仏間も軽くは各その義をもっているといえる。
 (以下次号)

        研修部員のために 





                  ◇     ◇     ◇ 
 昨今は口を開けば「一念信解」の連呼ですが、当時は五千世帯の講中で毎月、このレベルの教学を膝詰めで学ばせていただいていました。


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