2回目となる本トリエンナーレのコンセプトは「アートサーカス(日常からの跳躍)」。総合ディレクターの川俣正は「ポリティカルでシステム論的な動向の改変を大前提に展覧会を組み立てて行くことをあえて拒否し、アートそのもののもつ根源的な喚起力を、どうすれば見る側、参加する側(観客)に受け止めてもらうことができるか、この設定にこだわりたい」と述べる。そう、今回のトリエンナーレでは観客は見ているだけでは済まされない、参加が前提なのだ。
アートの可能性は無限である(多分)。「美術」の時代は、観客は見るだけ、制作者の技量、技巧の巧緻に感嘆しておればよかった。が、「アート」になり、観客は観客で済まされなくなった。川俣は本展の切り口として「モノローグからダイアローグへ」、「参加する(パーティシペーション)」「人とかかわる(コラボレティド・ワーク)」「場にかかわる(サイトスペシフィック・ワーク)」「運動体としての展覧会(ワーク・イン・プログレス)」をあげる。なるほど、実物大?のサッカーゲームはゲームとは言え、ほとんど本当のスポーツばりだ(「参加する」たとえばKOSUGE 1-16+アトリエ・ワン+ヨココム)。他にも、ブランコを漕げば発光したり、自分でぬいぐるみを裁縫したり。「かかわる」という本展の狙いはほぼ達成されたのではないか。しかし、アートは若い人、活動的な人、「健常者」ばかりがかかわるのではない。「見(てい)る安心」というものもありはしないだろうか。
「安心」ではないが、惹かれた作品の一つに南アフリカ出身のロビン・ロードの映像作品がある。裸の男がシャワーをひねると浴びるのは黒い水。見る見るうちに黒く染まる白い裸体は、シャワーは汚れを落とすものという固定観念を砕き、アパルトヘイトの国で黒人が味わった歴史への逆説的表現、そしてシャワーを浴びることによって生が危機に晒されるというのは、まぎれもなくアウシュビッツを表している。
他にも、社会問題提起としての現代アートの役割はいくつも果たしている。カンプチアはポル・ポト派の時代の衣類考察、様々なビデオインスタレーションなど。しかし、多くは参加型の展示は、今まで「美術」は触れてはいけない、声を出してはいけない、ましてやそのものの原型を変えてはいけない、といった堅苦しさからの解放としての日常から「跳躍」させてもらえるところにとどまる。いや、「跳躍」した後に残らないことを目指しているのではないだろう。
ああ、面白かった、では済まされない何かを個々の作品は追求してるように見えるのだ、それぞれの作者の意図はさておき。そう、これはサーカスなのだ。サーカスは余韻を残すが、いつまでも残るものではない、けれど、忘れてしまうものではない。
日常からの跳躍とは結局、非日常のことだ。しかし、非日常も想像力の幅を拡げれば日常になりうる。気づかなかった、思いもよらなかった問題提起。アートにおけるグローバリズムとは、踏み越える勇気と踏み越えた先への理解、そして踏み越えた後の承認を同時に欲する欲張りな思想なのかもしれない。
その場限りで楽しかった、なんて川俣は多分発想しない。なにせ、彼のワークは廃材を使った自然環境との共生などおよそ刹那とは対局にある仕事をこなしてきたのだから。インスタレーションであっても参加することによって身体のどこかに刻まれる記憶。問題提起のありかたはいろいろあるなと考えさせられた。
アートの可能性は無限である(多分)。「美術」の時代は、観客は見るだけ、制作者の技量、技巧の巧緻に感嘆しておればよかった。が、「アート」になり、観客は観客で済まされなくなった。川俣は本展の切り口として「モノローグからダイアローグへ」、「参加する(パーティシペーション)」「人とかかわる(コラボレティド・ワーク)」「場にかかわる(サイトスペシフィック・ワーク)」「運動体としての展覧会(ワーク・イン・プログレス)」をあげる。なるほど、実物大?のサッカーゲームはゲームとは言え、ほとんど本当のスポーツばりだ(「参加する」たとえばKOSUGE 1-16+アトリエ・ワン+ヨココム)。他にも、ブランコを漕げば発光したり、自分でぬいぐるみを裁縫したり。「かかわる」という本展の狙いはほぼ達成されたのではないか。しかし、アートは若い人、活動的な人、「健常者」ばかりがかかわるのではない。「見(てい)る安心」というものもありはしないだろうか。
「安心」ではないが、惹かれた作品の一つに南アフリカ出身のロビン・ロードの映像作品がある。裸の男がシャワーをひねると浴びるのは黒い水。見る見るうちに黒く染まる白い裸体は、シャワーは汚れを落とすものという固定観念を砕き、アパルトヘイトの国で黒人が味わった歴史への逆説的表現、そしてシャワーを浴びることによって生が危機に晒されるというのは、まぎれもなくアウシュビッツを表している。
他にも、社会問題提起としての現代アートの役割はいくつも果たしている。カンプチアはポル・ポト派の時代の衣類考察、様々なビデオインスタレーションなど。しかし、多くは参加型の展示は、今まで「美術」は触れてはいけない、声を出してはいけない、ましてやそのものの原型を変えてはいけない、といった堅苦しさからの解放としての日常から「跳躍」させてもらえるところにとどまる。いや、「跳躍」した後に残らないことを目指しているのではないだろう。
ああ、面白かった、では済まされない何かを個々の作品は追求してるように見えるのだ、それぞれの作者の意図はさておき。そう、これはサーカスなのだ。サーカスは余韻を残すが、いつまでも残るものではない、けれど、忘れてしまうものではない。
日常からの跳躍とは結局、非日常のことだ。しかし、非日常も想像力の幅を拡げれば日常になりうる。気づかなかった、思いもよらなかった問題提起。アートにおけるグローバリズムとは、踏み越える勇気と踏み越えた先への理解、そして踏み越えた後の承認を同時に欲する欲張りな思想なのかもしれない。
その場限りで楽しかった、なんて川俣は多分発想しない。なにせ、彼のワークは廃材を使った自然環境との共生などおよそ刹那とは対局にある仕事をこなしてきたのだから。インスタレーションであっても参加することによって身体のどこかに刻まれる記憶。問題提起のありかたはいろいろあるなと考えさせられた。






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