kenroのミニコミ

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近代化の波とともにフェミニズムも行き渡る  羊飼いと風船

2021-02-25 | 映画

「女三界に家なし」はもう言わなくなったけれど、実態はまだ残っているのではないか。つい最近も森喜朗東京五輪組織委員会会長が「女性がたくさんいると理事会(の会議)が長くなる」「女性は競争意識が強く、発言しなくてはと思う」旨、のたまってその女性差別意識、あまりにも古い価値観が露呈したばかりだ。では、一人っ子政策の下にありながら、「転生」を大事な価値観とし、中絶を許さない環境である、女性の選択権を奪われたチベットではどうであろうか。

牧羊に従事し、羊の扱いに慣れた父タルギェは雌羊に種付けするため、強い雄羊を借りてくる。猛々しい雄羊の姿を見て、妻であり、3人の男の子の母であるドルカルは「あんたみたい」。だから二人の性生活には無償で配布されるコンドームが必須なのに下の子らが膨らませて風船として遊んでしまうのだ。寄宿舎に入っている長男を迎えに行って、ドルカルの妹で尼僧のシャンチュが帰ってくる。シャンチュは恋に破れて尼僧になったようだ。一つしかなかったコンドームをまた子どもが遊んで使ってしまい、ドルカルは4人目を妊娠してしまう。ちょうど祖父が突然亡くなり、その「転生」を高僧より告げられたタルギェはドルカルの妊娠に「産んでくれ」。少数民族ゆえ3人までは許される子どもも4人目には罰金が課せられる。それに妻、母、羊の世話と、働きづめのドルカルはもういっぱいいっぱいなのだ。

映画ジャーナリストの久保玲子は「羊飼いの暮らしの中にもフェミニズムの波が押し寄せ、女性が目覚め始めていることを鮮やかに描き出して見せた」と評する。

ドルカルを窮地に追い込む3界。1つは、少子化政策という国家が産児制限するという問題、家父長的価値観の下、家事は全て女性がするものと考え、また避妊に非協力な夫、そして「転生」の思想のもとに自分を一番理解してくれていると考えていた妹にまで中絶を反対される宗教的因習。どれもがフェミニズムが問題にしてきた克服すべき課題であるが、それは社会的に解決を目指す課題であるとともに個人の生き方がどうか、という極めて個人的な課題でもある。「個人的なことは政治的なことである」は、フェミニズムの目指す道とその必要性を象徴するスローガンだが、この映画では、その3界がドルカルを追い詰めていく様を羊が群れなす高原という一見牧歌的に見える風景の中で緩やかに静かに描く。しかし、羊を運ぶのは馬ではなくバイクで、テレビや携帯電話、住居もテントではなく建物である。近代化の波は確実にチベットの地にも及んでいる。だからフェミニズムという言葉を知らなくても、ドルカルの心にも確実に選択権や自己決定といった個の尊厳を担保する自立心が芽生えているのだ。

チベットといえば、中央政府によるその民族圧迫、人権蹂躙状況がある。欧米側の人権感覚から中国を非難しているが、中国は内政の問題として頑としてその批判を受け付けない。アムネスティ・インターナショナルなどの人権団体が、少数民族の故なき収容・思想改造を発表していることからも、その人権抑圧状況は事実であろう。ペマ・ツェテン監督も小説を書き上げた当時は検閲を通らなかったという。それで、映画化にあたっては登場する人たちそれぞれの思いを赤い風船に託した叙情的、シュルレアリスム的とも言える風景に落とし込んだそうだ。

DVまでする夫を見限り、とりあえずシャンチュの僧院に身を寄せることにしたドルカルはこの後、どのような選択をするのだろうか観客の想像に委ねられている。このエンドも曖昧な脚本でしか、映画化が通らなかったのかもしれない。中国の映画人の苦労と工夫がしのばれる。

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