く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<「天誅組」150年> 「日本は大和から変わった」をテーマに記念シンポ

2013年08月19日 | メモ

【倒幕めざし初の武力蜂起、明治維新の〝魁〟とも】

 今年は1863年、大和を舞台に繰り広げられた「天誅組の変」からちょうど150年。開国か攘夷か、佐幕か尊王かで揺れた幕末に、倒幕のため脱藩して決起した天誅組の若者たち。めまぐるしい政変の中で逆賊として鎮圧されるものの、一方で「明治維新の〝魁(さきがけ)〟」として評価する声も多い。18日奈良県文化会館で開かれた「天忠組150年記念シンポジウム」は約300人の聴衆で小ホールが満杯になった。

  

 「天誅組の変」は長州藩の外国船砲撃とその報復攻撃などで、尊皇攘夷派が主導権を握る中で決行された。孝明天皇は1863年8月、攘夷祈願のため大和行幸を計画し、天誅組約50人はその先鋒の大義を掲げて大和に向かった。天誅組は17日、幕府の天領・五條の代官所を襲撃、朝廷直轄地とし「五條御政府」を打ち立てる。だが、その翌日、公武合体派による宮中クーデター(八月十八日政変)が起きるや、天皇行幸は延期となり、朝敵・逆賊として追討を受ける立場に。京都守護職・松平容保が討伐命令を下し、天誅組は1カ月余り後には壊滅に追い込まれた。

 シンポジウムの主催は五條市・安堵町・十津川村・東吉野村でつくる天誅組市町村連携協議会。まず天誅組研究家の舟久保藍氏が「五條における天誅組」と題し講演した。「天誅組の新政府が機能したのは僅か2日間だけ。だが立法・司法・行政の3権について幕府に代わる構想を持ち〝一心公平無私〟の理念に基づいて純粋・清潔な政治を行った」。舟久保氏は混迷する今こそ「一灯照隅 万灯照国」(最澄の言葉)の精神が必要とし、「150年前に若き志士たちが命がけで行動した襷を受け取り、まず自分の足元から、大和の国から照らしていくことが大切ではないか」と話した。

 続いて「日本は大和から変わった」をテーマにパネルディスカッション。「天誅組の変」では当初、勤王精神に富む十津川村から1000人近くが挙兵に加わった。その間の事情を下野拓也氏(十津川村立平谷小学校校長)は「十津川は幕府直轄領から朝廷の直轄領になっており、変の直前には京に仮の屯所まで作っていた」など複雑な背景を説明した。

 岡本彰夫氏(春日大社権宮司)は「新撰組を知らない人はいないが、天誅組は誰も知らない。まず150年前、国のため皆のために若い人たちが死んでいったということを知ってほしい」とし、同時に「討ちに行った郡山藩や高取藩などの幕府側の人々も日本の秩序を守ろうと考えて戦った」と話した。その裏には今の日本に国のため命をかけるという人がどれほどいるのか、との思いが込められているようだった。

 阪本基義氏(東吉野村教育長)は天誅組ゆかりの忘れられない人として梶谷留吉と信平親子を挙げた。留吉は記念碑や志士の墓石建立に生涯をかけ、長男信平は史実を掘り起こして広く知らせたいと「天誅組烈士戦誌」と「天誅組義挙録」の2冊を書き上げた。下野氏は十津川郷士の野崎主計、深瀬繁理ら4人を挙げた。自刃し果てた野崎は「討つ人も討たるる人も心せよ 同じ御国の御民なりせば」という辞世の句を詠んだ。

 橋本紀美氏(安堵町歴史民俗資料館館長)が挙げた人は市川精一郎(のち三枝蓊=しげる=に改名)。天誅組には伍長として挙兵に加わった。その後、1868年(慶応4年)2月、御所に向かう途上の英国公使パークス一行を襲撃し、捕らえられて京都・粟田口で斬首された。享年29。その辞世「今はただ何を惜しまん国のため 君のめぐみを身のあだにして」。

 ※「天誅組」と「天忠組」の表記=「天誅組」が一般的だが、「天誅」は個人の暗殺・テロという意味合いが強い。このため朝廷への忠誠や倒幕を目指した行動から「天忠組」の表現もしばしば使われる。書名でも両方の表記が見られるが、今回の記念シンポではタイトルに「天忠組」を使っていた。


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« <アンビリバボー> ビルの... | トップ | <ノボタン(野牡丹)> 紅... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿