オートフィクションとも、いや小説とすら呼びにくい作品だ。強いて言うなら詩的なエッセイ、あるいは日記。52歳のときの作者が直面していた状況に、実の父と母をめぐる回想が流れ込む。百五十七の断章は、実際には数週間しか進行していないようなのだが、1960年代や70年代にしばしば飛び、場所も52歳の語り手が住んでいるサラゴサの街角を軸としつつ、故郷の町バルバストロへしばしば飛ぶ。題名になっているオルデサという地名の意味は後半になってようやくわかってくる。
帯は「この物語はあなたのものだ」と謳う。
この場合の「あなた」とはスペイン人を指すのだと思うが、私は自分もそこに含まれてるような気がした。年齢が近いということもあるが、語り手の、というより作者の、と言っていいだろう、その作者のどこまでもネガティブな自己卑下と、その先にうっすら浮かんでくる不思議に美しい郷愁や詩情がとても他人事とは思えなかったからだ。
<彼らは去らない。
五〇にもなれば男でも女でも過去のすべては謎と化す。謎を解くことはできない。ただとりつかれるのみだ。(p.80)>
口数の少なかったセールスマンの父の輪郭は、作者が想起すればするほど曖昧なものになってゆく。20世紀を生きたスペイン人、なにも知らない日本人がしばしば「明るく情熱的」だという、あの閉鎖的な人々について作者は exhibir を嫌う人種だと断言する。誰も自己を開こうとしない。誰も自分を語らない。誰も自分の家族を語ろうとしない。逆に、いったん語りだせばそれはすべて虚構になる。起きたこと、あったこと、誰かがしたことをありのままに語る習慣がない以上、やむを得ないことかもしれない。
作者の父は内戦体験世代ではない。
子どものころに見聞きした程度で、実際、作者にも多くを語らなかった(戦争に限らず「なにも」語らなかった)。だがその彼が六〇年代や七〇年代に何を見て、何を思い、何を息子に伝えようとしていたのか。断片的な記憶や写真(数枚挿入されている)を手掛かりに泥縄式の回想がどこまで深まろうと、そこに現れてくるのは謎ばかりで、最終的に行き着いた先は「テレビに共に向かっているときの安心感」だけだったりする。
作者は人に会うと必ずその相手に父の話を尋ねるという。すると多くのスペイン人が黙り込む、あるいは明らかな嘘を語る。そしてまさにその「嘘の加減」から、少なくともそれを語った人物の生の輪郭だけは見えてくるのだという。
疎遠だった父をめぐる話で思い浮かぶのはポール・オースターの『孤独の発明』だ。この本はスペインでも非常によく読まれている。作者は母のことを「世界に関心をもたない人間」だとして、唯一の関心が「日当たりのいい場所でくつろぐことだった」と回想している。その母のつくった料理を、父が、一度だけ床に放り投げたことがあった。それは作者が六歳のときのクリスマスだった。そしてその理由を作者はまるで思い出すことができない。ただそのときの悲しみだけが何度も何度も泡のように浮かんでは消えていく。
作者自身が直面しているのは孤独な独り暮らしだ。アル中暮らしの末に妻と離婚(この妻に関する話がいっさいないのも最後まで気になるところ)、高校生くらいになっていると思しき子どもたち二人がときたま家によるが、飯だけ食って去っていく。いろいろな意味で人生の転機に立たされた作者は、車でサラゴサ=マドリード間を移動しながら寡黙なスペイン人とその風景にも思いを巡らせる。
自嘲的な男によるある種のロードノベル、断章的な詩的エッセイ(最後の数ページは本当に詩だけの構成になっている)という意味では、サム・シェパードの『モーテル・クロニクルズ』も想起させる。
マドリードとバルセロナ以外の原野に広がる無数の lugares vacíos 空っぽの空間。忘れられた土地。そこに育った人々の多くが村の司祭に文字を教わった。フランコ体制下の秩序の元で司祭に文字を教わった人々が去っていったあとの、見捨てられた土地の数々。スペインの都市外にひろがる空虚というのは、私も二度の旅行のなかで強く印象に残っている光景のひとつだ。むろん、空っぽの空間の広大さにかけてはラテンアメリカに及ぶべくもないのだが、スペインの荒野は都市との対比で存在感を放つ。
無人の荒野に生まれた語らぬ人々。
死者をめぐるモノローグ。
個人的な回想がスペインという国をめぐる回想に昇華していることに多くの読者が気づいたからこそ、版元は第七版の帯に「誰もが読んでいる」などと書く気になれたのだろうか。
<何年もあとになって私は見た。人々が、気まずい関係の人間について、沈黙を決め込むのを。人は自分に都合のいいことだけを思い出したがる。私は別だ。私はあらゆることを思い出したい。あるいは、私を除く人々は、伝統的にこういうことは思い出してもよい、とされていることだけを思い出すのかもしれない。なにを偉そうに、と思われるかも知れないが、私はこの「私を除く」という状況を捨てるつもりはない。私の記憶が世界についての破滅的なヴィジョンを立ち上げることは分かっているが、それこそ私が本当に感じていることなのだ。破滅と手を切ることはできない。それこそが文学という大いなる秩序であり、悪の風、過ぎ去ったあらゆるものが吹かす風なのだから。(pp.196-197)>
誰もがいずれは死ぬ。
その記憶は誰かのなかに残る。
あるいは写真やモノとなって、記憶の主体が消え失せたあとでも「なにか」が残るともいえる。
しかしそれもいずれはみな消える。
そして、この、いずれすべてが消える、という事実を私たちが本当に知ることができるのは、単なる理屈ではなく、特定の死者、あるいは不在の誰かの記憶を私たち自身が手繰り寄せようとして、それに無残にも失敗したときだけなのだ。
SNSとAIが記憶のすべてを肩代わりしようと出しゃばり続け、権力者とそのネジの外れた取り巻きたちが先人の残した歴史を嬉々として書き換えつつあるこの愉快な21世紀に、そんな悲しい事実と今なおしつこく向き合い続けてるスペインの人々がなんとなく愛しく見える。
Manuel Vilas, Ordesa. 2018, Alfaguara, pp.387.