天満放浪記

matsuken tenma blog

チルベス『火葬場』(9)

2017年10月27日 | 西:書評①スペイン

 テレビシリーズの『火葬場』は小説が刊行された2007年から3年後の2010年に放映されて割と好評だった。しかし予告編を見る限り小説とはかけ離れている。そもそも、こんなジョイス的小説はテレビドラマになどなり得ないのではないか。小説の語りの背後には、ひとつの時間軸と物語が浮かんでくるので、それを分かりやすくビジュアル化すればよいのだろうが、仮になったとしても、原作を3分の2くらいまで読んだ限り、その中心はルベン・ベルトメウと死んだ弟マティアスという「フランコ後のスペインを生きた二人の老人」の物語になるはず。

 でもテレビはそうではなく、ミセンを舞台にした巨大な不動産マネーの闇を軸に、ルベンが主役なのは当然だが、その愛人のモニカと子分格のコリャードをより前面に出して、ロシア人マフィアのトライアンらとバレンシアの州警察がにらみ合うという変な犯罪モノに仕立てている模様。小説では重要な役割を担っている小説家のフェデリコ・ブルアールは出ている気配がなく、なにより死んだマティアスの物語は大幅にカットされているようだ。(詳しく見てみないと分からないが。)

 ルベンを演じたのはホセ・サンチョ。2013年に肺がんで亡くなってしまった。その彼がこのドラマについて語っている映像が残っている。すでに病気が進行していた時期なのだろうか、少し辛そうな表情が痛々しい。それによるとリーマンショックの直前に書かれたチルベスの小説はその後のスペインを予見するような内容であった、ドラマは不況にあえぐスペイン地方社会の腐敗を描いているのだと。つまり現状のスペインを風刺しているということか。腐敗を描いているというのは小説も同じだが、映画ではおそらく政治家も出てくるのだろう、特定の人物を揶揄したわけではないとホセはさかんに繰りかえしている。

 いっぽうこちらは放映直後のインタビューでホセも元気。娘のシルビアを演じているのはアリシア・ボラチェーロという変わった名前の女優。プロデューサーの説明によるとこのテレビ版は結局ルベンの物語になっているようだ。小説のような群像劇にするとドラマとして成立しないからだろう。たとえば『百年の孤独』が映画化されたら同じ問題に直面すると思われる。ガルシア=マルケスはそういうことを嫌ったのかもしれない。

 そして生前のチルベスがこのドラマについてどう言っていたのかは、このエルパイスのインタビューでわかる。まあ予想通りというか、あれは『火葬場パート2』でありまったくの別物だと思っていた。

あのドラマは、まあ、小説とは別物だから。小説をもとに、それなりの解釈で新しいものをつくった…。というのも小説の『火葬場』には筋立てとか探偵ものとか謎解きといった要素はなく、純粋な言葉のみに依拠し、言葉を通じたカタルシスを目指している。イエズス会の苦行、ロヨラ的な世界だね、読者は小説を通して自分のなかにあると薄々わかってはいるが見たくないものと直面することになる。だからドラマのほうは別物なんだ。

 まあ、そりゃあ、そうだよね。でもドラマの方も少し見てみたい。


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チルベス『火葬場』(8)

2017年10月24日 | 西:書評①スペイン

 この小説は院生たちと読んでいるので夏場に間が空いた。

 章立てはあるが段落割りは一切ないという面倒な小説。順としては年老いた土建屋ルベン・ベルトメウが1章、その愛人というか後妻の若いモニカが第2章。ただし、ルベンの章は一人称の語りのモードだが、それ以外は全知の語り手が介入してヤヤコシイことになってます。3章はルベンの土建屋仲間コリャード、こいつは小説の現在時点で包帯ぐるぐる巻きで入院中。回想が主たる語りになるのだが、むむむ…。4章はルベンの娘シルビア。5章はルベンの旧友の小説家ブルアール。6章はロシア人マフィアの若者ユーリ。

 で、それでどうした、という感じなのですが、小説全体は今のところ(3分の2くらい)ルベンの弟で長年左翼をやっていたマティアスの死亡の直後に展開している。要するに死者を軸とする回想小説である。マティアスはフランコ時代のスペインで政治運動を開始、その後あれこれあって、結局環境保護みたいなことをやっていたが、鳴かず飛ばずで死ぬ。彼の周りにいた人間の「葬儀前の今」に焦点を絞った小説なのである。

 今のところ分からないのは、コリャードがなぜ入院しているのか。

 全身大やけどというのは分かっているが、そこに至る事情が不明。

 そしてとうとう7章に入った。7章は1章と同じルベンが語り手。1章と同じく葬儀に向かう車中での意識の流れが延々と展開し、ここではすでに説明した「金儲けで必死に生きてきた兄による、政治的なことに絡んできた愚かな弟への繰り言」が展開する。でも私、この種の話大好きで、ここはけっこう感情移入して読めました。

 そして今日読んだのは第8章。

 本来は2章のモニカの番だが、そこを飛ばして3章のコリャードが登場。

 コリャードの章はひじょーに読みにくいのだが、今日の院生たちとの議論で問題となった箇所を敢えて訳そうと思う。

 …と、その前に、この小説はスペインでテレビドラマ化されている。

 そんなの無理でしょ!と鼻で笑っていたのだが、本当に存在する。

 それの英語字幕版をネットフリックスで見られると知り、院生たちが調査中。その予告編がこちら。むむむ…小説とまるで違う世界。どうも、ルベンがロシア人マフィアとやっていた裏ビジネスの話が中心のようで、チルベスの小説はそこはどうでもいいのでは?という気も。そこはこれから読んで確かめよう!

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(コリャードはロシアマフィアの娼婦イリーナ(ロラ)をなんとか愛人にしたい…)

彼女の体を噛み、黴菌をうつし、そして他の獰猛な吸血鬼どもから彼女を守って、最後はいっしょに墓まで行くのだ。コリャードは彼女の体のことを思うと、そして自分がいつか死んで無と化し、どの体にも実体がなくなってしまった時に(といっても自分はまだ40歳だから先は長いけれど)彼女がどうするか、彼女がどれほど苦しみ、どれほど涙を長し、どれほどさびしがるかを思って思わず目がくらんだ。いっぽう子どもたちにとって自分は記憶に留まるかすら怪しい。ロシアかウクライナの娼婦と駆け落ちした大馬鹿者の親父に関するかすかな記憶。俺たちを捨てやがった親父。母親と三人だけにしやがった。その母親と来た日にはまったくの愚か者で、インテルマルシェやメルカドーナで買い物ひとつすることもできない。料理もアイロンもできない女だ。なにかの書類を書くことも、電気代の請求書を理解することも、SUMAがなになのかも知らず、口座の開設のやり方すら知らない阿呆ときた。残された阿呆のトリオだ。役立たずの青年二人となんの役にも立たない中年女。彼女は泣くのをこらえてトイレの前にしゃがみ、床を何度も磨く。トイレの床、化粧タイル、便座やビデや風呂桶や洗面器の表を磨くんだ。膝をついて、便器に屈みこんで手を突っ込んで磨く。黴菌、ウイルス、細菌だらけの場所だ。これぞ正真正銘のマジックリン女ってやつだな。コリャードは思う、でもそれこそが俺の女房なんだぞ、そして俺は娼婦と駆け落ちしたんだ。それで俺は自分を恥じるべきじゃないだろう、だって恥、そいつなら金にして今夜ここに置いていくんだから。嫁にはこう言うんだ。これで女中でも雇えばいいぜ。コロンビア人かブルガリア人か、誰でもいいから家事を手伝ってもらえ。お前もちっとは身づくろいしたらどうだ。付き合う相手も考えるべきだぞ。もっとちゃんとした女の友だちをつくるんだ。そういう上品な女友だちとカフェとかテニスクラブとかに行けばいい。テニスのコーチの男と知り合うといい。楽しいぞ、お前もちっとはまともな服を着ろよ。すると嫁は仏頂面でこう答えるわけだ、そうね、あんたがこんな大金をくれるならファッションも少し見直そうかな、ロエベとかヴィトンとか。(250-251)

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人物の妄想がどこまで文章に組み込まれているのか、妄想のなかの人物の台詞がどこからどこまでなのか、判読するのがわりとタフで、そういう意味では、語学力が鍛えられる小説。翻訳されにくい理由も分かってきた。むむむむむ、こういう小説こそ翻訳すべき…と思うのは、私がもはや20世紀モダニズムの人間だからか。ポストモダンに乗り遅れた悲哀…。


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マルタ・サンス『解剖学講義』(1)

2017年10月21日 | 西:書評①スペイン

気づくと10月、メジャーリーグはいつのまにかアストロズに移籍していたバーランダーがヤンキースをねじ伏せていた。彼のフィアンセはいつまでフィアンセなのだろうか。ジャパンのタイガースは惨めな泥仕合で今年を終焉し、私がいまいちばん好きな米国のスポーツでは今のところカンザスのアレックス・スミスが素晴らしい。ふとチャンネルを変えたら日本のバレーが始まっていて、開幕戦は久光製薬スプリングス対NECレッドロケッツ。見ていると選手層がかなり変わっていて、久光の新鍋+岩坂の美女コンビは健在だったがNECは近江あかり選手が勇退(引退)したらしい。ファンの間では「あかりロス」が大変なことになっているそうで、まあそりゃそうでしょう。まずは、なんとなくボケっとしている感じが頼もしい次期全日本エース、古賀選手の今シーズンに期待したいところ。

 それにしてもスポーツは男女別れるの当たり前ですけど、それってどうよ。

 そう思いませんか?

 仮に野球が必ず女子4名込みで、になっていたらどうだったか。

 むむむ。

 今日からスペインの女の小説。

 …って私もふつうに言いますけど、そもそも小説なんて男女関係ないじゃん、という気もします。女性が書いた女性に関する小説、と言うことはよくあるけれど、男が書いた男の小説なんて発想をすることはまずないし。このあたりの自己反省はコルバン+クリスティーヌ+ヴィガレロ『男らしさの歴史』(藤原書店)全三巻を紐解きつつ克服していきたいと思っています。

 それにしても女の小説、というか女子の小説って、スペイン語圏は不毛地帯のように思われているかもしれない。私はそうじゃないという確信と根拠をもっているが、少なくとも日本における翻訳レベルでスペイン語圏小説はかなりオヤジにシフトした領域になっているように思う。ラテンアメリカにも 《第二のシェヘラザード》 的な語り部(=例:イサベル・アジェンデ)がいたとしても、本質的に「ヨーロッパ的で高尚な」文学を書く女は植民地時代のソルフアナを例外にして皆無…という感じの印象を、いまだに多くの文学史から私は嗅ぎ取る。

 文学の女子って「特別枠」なんですよね、いまだに。

 考えたらそんな業界によくノーベル賞なんて出してるよな。

 わかりやすい例はアルゼンチンのシルビナ・オカンポだろうか。

 私は大好きな人で、夫のビオイ=カサレスの短編(これもマニア好きのする珠玉のものばかり)とはまったくちがう独自のワールドを切り開いているのだけれど、世界文学という「とりあえずオヤジが仕切ったまま今に至る輝かしい翻訳の世界共和国」でも無視され続けている。彼女に限らず、なにかこう「女だから」という不当な判断基準でマイノリティに選別されている人ってけっこういて、今さらそれがどうしたという気もするが、実際に読んでみると私は好きなものが多く、すごくもったいないなあという気もする。

 スペインにも、20世紀来、わりと女性の作家が多い。

 当然ながら、皆さん、世界文学共和国のスラム街に住んでいる。

 日本でもほとんど知られていない。

 現代もそうで何人か重要な人がいるのだが、今回読むのはその重要な人たちではないかも。すでに亡くなっている大御所を除いた現役で名前が思い浮かぶのはアルムデーナ・グランデス、ルシーア・エチェバリア、エルビラ・リンド、くらいで私はそのどれも読んでいない、というか恥ずかしながら(自宅にも図書館にも)所有もしていない。これではあかんかも…と予感して数年前にサラ・メサという作家の本を卒論学生と一緒に読んだ。同じパタンで今回は1967年生まれのマルタ・サンスを卒論学生と読む。ほぼ同年配なので、その興味(同じ年頃のマドリードのレディがなにを考えていらっしゃるのか)もありまして。オヤジの小説を読むのって、バルガス=リョサの最新作みたいな妙なエロに付き合ったりせねばならず、読んでいてその行為がある時点から「これって介護?」って思うこともしばしば。その点、女の作家の作品世界って、私、なんだか入るのがとても簡単なのです。大阪に住んでるオッサンなんですけど。

 ま、理屈は抜きに読んでみよう!

 全360ページ。

 明日から1週間計画で。


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フェルナンド・アランブル『祖国』(終)

2017年10月06日 | 西:書評①スペイン

 あっというまの642ページ。577ページで思わず泣きかけた。電車のなかで危うく。親世代に感情移入してしまうというのは歳食った証拠だろう。2016年スペイン語圏の文学でベスト、というスペインの諸メディアの高評価にも納得のいく出来であり、また、色々な意味でスペインらしい小説でもある……といったって、私のなかの「スペイン」はあくまで文学のなかの虚構ですが。

 以下、全体を書評感覚でまとめておきますので、翻訳したい人、企画書を書く際に引用・転用していただいてかまいません。そんなこと誰もしないか。

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 フェルナンド・アランブル『祖国』(2016年)

 2010年10月、スペインのバスク州で分離独立をもとめて戦ってきた組織ETA(祖国バスクと自由)が、その武装闘争の放棄を宣言する。IRAと並ぶヨーロッパ最大のこの強硬派民族組織は、20世紀後半からスペイン国内で様々なテロ行為を繰り返してきたが、ここにきて融和路線へと舵を切ったかにに見える。日本でも、2012年に『現代バスクを知るための50章』(萩尾生、吉田浩美著、明石書店)が刊行され、独特の食文化や風土が観光のターゲットとなり、テレビのスペイン語会話番組がサンセバスティアンを舞台にするなど、このスペイン北部の一風変わった州は、フランシスコ・ザビエル以来ふしぎな縁をもつこの極東の辺境国でもにわかに注目を集めている。

 小説はこの2010年10月を最新時間とし、バスク州山間部のある小村で起きたひとつの殺人事件を軸として、その前後ほぼ20年のエピソードを125の断章で複雑に絡み合わせている。

 1990年代初頭。沿岸都市サンセバスティアンからバスで小一時間ほどの山間の村で、ETAによる殺人事件が起きた。殺されたエル・チャトは従業員25名の運輸会社を経営し、数年前から同組織に脅迫を受け、誹謗中傷の落書きやビラをまかれたりするなど、ETA支持派が多数を占める村でパージの対象となっていた。殺害犯は複数で、数日後に別件で逮捕された村出身のETA活動家ホシェ・マリもその一味だった。そしてホシェ・マリはエル・チャトの親友ホシアンの息子だった。

 小説は、犯人グループのひとりであるホシェ・マリの家族、そして被害者であるエル・チャトの家族ひとりひとりの行動を追いつつ、全体として一種の群像劇として進行することになる。

 鋳物工場で定年まで勤めたあと畑仕事を趣味にしている善良なホシアンは、村の空気に逆らえず生前のエル・チャトと縁を絶ったことを悔やみながら生きている。その妻ミレンは村でもいちばんのETAシンパで、スペイン中の刑務所を転々としている愛息のホシェ・マリの支援だけを支えに生きている。長女のアランチャは2007年に病気を患い、それ以来、全身麻痺の状態で車椅子暮らし。指は動くので i Pad で周囲とコミュニケーションをしている。次男のゴルカは文学に目覚め、バスク語で詩を書くようになり、やがてラジオ局で働くようになる。

 いっぽうエル・チャトの残された妻ビトリは、事件のあと、村民から追われるようにサンセバスティアンへ引っ越していたが、十数年ぶりに村へと戻り、それがいまだに祖国バスク主義の強い村人のあいだで波紋を呼ぶ。娘のネレア、息子のシャビエル、被害者一族の事件前後の様子も次第に明らかにされていく。

 物語の中心にいる未亡人のビトリが求めるのは加害側のホシェ・マリの言葉。

 しかし祖国愛を唯一の行動規範にしている獄中のホシェ・マリは心を開こうとしない。

 いっぽう、偏狭な村の空気に嫌気がさしていた二人の娘たち、アランチャとネレアはそうしたしがらみからなんとか逃れようとするも、病気や人間関係の不調などが原因で結局は祖国愛の風土に引き戻されていく。アランチャはETAの事件が起きるたびに、サラマンカという中央スペイン出身の夫ギジェルモとの関係が悪化していき、ついには発病して、兄とは違う「牢獄」のなかに閉じ込められてしまう。父の葬儀に村へ帰ることもしなかったネレアはバスクと関係ない相手との新生活を必死で求めるが、結局はうまくいかない。村では親友だったこの二人の女性が十数年を経て再会するまでのストーリーラインは、まったく独立した小説として楽しめると言っていいほど軽妙でウィットに富んでいる。特にネレアのダメ女ぶりには思わず笑。

 ホシェ・マリの弟ゴルカはおそらく作者自身の内面を投影した人物像であろう。バスクという祖国をめぐる戦いはなにも武装闘争だけではない、言葉を通じた戦いもあっていい、と刑務所の面会で兄にゴルカが主張する場面はこの作品のひとつの山場である。小説そのものはスペインの国家語であるカスティーリャ語(いわゆるスペイン語)で書かれているが、バスク語とカスティーリャ語が微妙な関係をとって混在するこの地域特有の現実も緻密に描かれていて、スペインというモザイク国家の実像を身近に知ることができる。ちなみにときたま現れるバスク語、たとえば ama (母)、aita (父)、gudari(祖国解放の戦士)といった語はそう多くないが、巻末に語彙集としてカスティーリャ語による説明があるので便利だ。

 ひとつの暴力。複数の怨恨。

 小説はそうした偶発的事件に巻き込まれた人々が、長い時をかけて、眼前の現実や辛い過去といったいどう向き合っていくのか。あるいは「なぜ向き合えないのか」という、バスクという特殊な地域に留まらない普遍的な命題を、ストレートかつ地道に探求して、無駄なアネクドートに逸れることが決してない。最初はバラバラに無関係に提供されていた情報も、徐々に、遠回りのやり方で回収され、つながり合っていく。お涙頂戴の展開になるわけでもなく、最終の断章のようなある種のアイロニーさえ漂うドライで冷徹な人間観察に基づくそのストーリーテリングは、いわゆる通俗小説を読みなれた読者をも飽きさせず、642ページも決して長いと感じさせない。

 文体は昨今のスペイン語小説らしく規範から自由。

 いわゆる自由間接話法のような高度にコントロールされた技巧はなく、物語枠の外にいる全知の語り手の叙述のなかに登場人物の思念や独り言が平気で混じる。おそらく作者はモダニズム文学「だけ」で育った人ではないのだろう。読者フレンドリーなその文体は、ラファエル・チルベスなど、ややもすれば晦渋さが最高の評価ポイントになっているのではないか?とも思わせる現代スペイン文学のなかにあってかなり異質であると言える。あるいはこれが新しい世代のスペイン文学なのか。

 カタルーニャ州の独立問題で世界的な注目の的となっているスペイン。この国は、20世紀の内戦以降、現在に至るまで、このような、ある種の脆弱な関係性を常にはらんだ共同体が複雑に重なりあって構成される、ある意味、高度に政治的な連合体である。裏を返せば、そこに生きてきた人たちの共存作法をめぐるその血塗られた叡智は、世界の人々の模範となるに違いない。

 小説は声高に理想を語ることもなければ、なにかを舌鋒鋭く告発したりもしない。

 ただ、数人の平凡な人々による、それなりの共存方法構築へ向けた、とても緩慢でとても不器用な道のりを、絶望も希望もその筆致から排して、時にユーモアを交え、時に哀惜を込めて綴っていく。読み終えたときには、複数の性格がまったく異なる人物に妙な共感を抱いていることに誰もが驚く小説。世紀の変わり目を中心とする現代スペインの世相まで概観できるサービス精神旺盛でゴージャスな小説。日本でも読まれる日が来ることを願う。


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フェルナンド・アランブル『祖国』(3)

2017年10月03日 | 西:書評①スペイン

 500ページまで来たところでふと気がついたのですが、この小説、巻末にバスク語注釈がついています。むむむ、いまになって気づくとは。前後の文脈でだいたい推察はついていたが、たとえば abertzale 愛国者など重要な語もあるので、これから読むという方はぜひ参照してください。ちなみに t には Txoria Txori(ショリアショリ)という曲名が。これはチルベスの小説を読んでいたときに見かけたバスクの歌で、ジョーン・バエズがカヴァーして世界的に有名になったもの。この曲への言及は501ページの段階ではまだないと思うので、クライマックスに出てくるのでしょうか。

 言語の状況はかなり分かってきた。

 原則スペイン語なのだが、世代によってはときおりバスク語が混じる。バスクにはフランコ時代からイカストラ(学び舎)という一種のバスク語学校があって、これは民政移管後の80年代から公的な学校教育に徐々に統合されていったらしい。

 (物語の前半ではチャト殺害犯のようにされている)ホシェ・マリとその弟ゴルカは70年代後半生まれで、80年代に子ども時代を過ごしている。彼らもイカストラに通ったがホシェ・マリは勉強はさっぱりダメでバスク語も諦めた。

 いっぽう文才のあったゴルカはイカストラの優等生。彼はバスク語をしっかり覚え、長じてバスク語の詩人になる。ところが、そんな本を買う人間は町にひとりもいない。彼が有名な詩の賞を受賞したことで、両親をはじめ町のバスク愛国主義の人々は喜ぶが 《そのバスク語の詩集を実際に読んだものは一人もいない》 というなんともはやな状況になる。まあ、これって、別にバスク語だろうがスペイン語だろうが、同じと思いますけどね。ゴルカは細々と児童書などを書き始め、やがてラムンチョというラジオ局の人間と知り合いになり、故郷の町を離れてビルバオに暮らし始める。ゴルカは同性愛者だったらしく、ラムンチョと同居するのだが、ラムンチョには前妻とのあいだに子どもがひとりいて、この子が反抗期。おそらく学校で公式にバスク語を習っていると思しき、このアマイアという少女はきわめて情緒不安定で、二人の男を前に 《カスティーリャ語とバスク語を自由に行ったり来たり》 する。

 いっぽうホシェ・マリの妹でゴルカの姉に当たるアランチャは、サラマンカ生まれのギジェルモと結婚後、レンテリーアという町で細々と暮らしていたが、ギジェルモの友人がETAに殺害されたことから、帰郷した際に過激な独立主義者の母ミレンと口げんかになる。アランチャは二人の子ども、六歳のエンディカと4歳のアイノアを連れていた。するとミレンはこの二人の孫に対して執拗にバスク語で話しかける。これに対して二人の孫(90年代生まれ)はすらすらとバスク語で答えるのである。アランチャは 《夫(バスク語が分からない)が来たら、この子たちはごく自然にカスティーリャ語に移るでしょうね》 と感心する。いっぽう、頑固な母との議論が熱してくると、アランチャは付き合いきれなくなったのか 《カスティーリャ語で激高しだし》 て、そしてそれがきっかけとなり、そこから5年間、母と会わなくなるのである。

 世代、環境、思想、感情、誤解……。言語スイッチに様々な要素がかかわっていることを改めて知らされる小説だ。先住民語をスペイン語にどう取り入れるかで袋小路に入ってしまったラテンアメリカのインディへニスモも見習うべきだったかも。

 いっぽう、400~520ページは、私が好きなネレアの話が面白すぎ。

 ネレアは死んだ実業家チャトの娘。

 ETAに脅迫されていた父のはからいでサラゴサの大学に行くも勉強はいまいち。チャトの死に際しては葬儀に帰郷もしなかった。この葬儀には町民もほとんど来なかったのだが、実の娘が町民の目を恐れてこなかったことに母の(チャトの未亡人)ビトリはとても腹を立てる。当然だろう。

 偏狭な町の空気から逃げ出したくなったネレアはドイツ人留学生ディーターと恋に落ち、ドイツまで彼を追って旅に出るのだが結局破綻、その後は母から弁護士になるよう期待されるが諦めて就職、職を転々としつつ30前後にあれこれ恋愛を試みるもそのうち飽きて、とにかく安定した相手と結婚を求めるうちに、あるパーティーでちょいといい男と知り合ってそのまま関係をもつ。このときネレアは36。ところがこのエンリケという男がセックスと射精が趣味であったことが分かる。簡単に言えば、彼女とのデートの直前に明らかに誰かとやっていた気配を漂わせて恬然としている男。そして、あろうことか、それで開き直る。

 これは俺のスポーツなんだ、愛しているのはお前だけだ、と。

 でもエンリケは諦めるにはあまりに好条件すぎる。ルックス、財力とも。

 《Claro que con treinta y seis años tampoco estoy yo como para dejar que se me largue el último tren, y sobre todo si es un tren tan bien hecho como este. (484) もちろん私だって36歳、もはや終電に乗り遅れるわけにもいかないわ、ましてやその終電がこんなデラックス仕様なら》

 ハハハ、終電という表現がナイス!

 どうしよ~と迷った末に、あんたの女関係を私の前で隠しているならOK、ということに。ネレア、それはナイスチョイスだ!と思わず心のなかで応援してしまいましたが、ネレアがその決断をしたのは、ETAの支持者が街頭デモをしていた際に、そこにホシェ・マリの写真をもつミレンの姿を見かけたときのこと。エンリケが「殺人犯を釈放しろって馬鹿が集まってるぞ」と声に出すので注意すると、彼はひるむどころかネレアの耳元で「小声で言おうが大声で言おうが同じだろう」と囁くのである。それでネレアは閉ざしていた心を開いてしまう。要するにネレアは父の事件をきちんと話せる相手が欲しかっただけなのだ。

 とはいえ相手は 《女は人間なら誰でもいい》 という大馬鹿者。

 案の定、結婚の直前に、ネレアは街角で見知らぬ女に呼び止められ、エンリケを幸せにできるのはあなたじゃない!と言いがかりをつけられる。ヤケクソになっていたネレアは勢い余ってその見知らぬ女を「死ねば?!」なんて言って撃退してしまう。やり過ぎたかな…な~んて思いつつ、つい。私、彼女のこのヤケクソ気味な感じに、なんとなく惹かれてしまいまして…。でもさすがにそのあとで、他にもああいう哀れな連中がいるのかしら、SOSA (Suministradora de Orgasmos Sociedad Anónima)の会員というだけでは我慢がならずに私の座を奪いに来る若い女がこれからも現れるのだろうか…と不安になる。

 SOSAは「オーガズム提供株式会社」、意訳をすると「名もなき射精提供女の組合」という感じでしょうか、どうも下品でスミマセン。

 でもとにかく二人は結婚。

 二人は新婚旅行でマドリードへ、さらにエンリケのビジネス絡みでプラハへも行く。ここでハンドバッグをすられたネレア。ところが夫のエンリケはスリを猛追し、川に落ちたハンドバッグをとりに飛び込む。役に立つときは役に立つ(まさに!)男。SOSAの女たちの気持ちがよくわかってしまうネレア。

 ネレア、ネレア、おっちょこちょいのネレア。

 もうなんだかネレアだけの小説でもいいかも、私。

 ちなみにsosaは「無味乾燥な女」というダブルミーニングです。

 次はいよいよクライマックス~。

 チャトを殺したのは誰なのか?

 そう、実はまだ分かってないのである。500ページでも。


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