1982年秋、『羊をめぐる冒険』を書き上げ、小説家として手ごたえを感じた時、彼は走り始めた。以来、走ることと書くこと、それらは、村上春樹にあって分かつことのできない事項となっている。アテネでの初めてのフルマラソン、年中行事となったボストン・マラソン、サロマ湖100キロ・マラソン、トライアスロン……。走ることについて語りつつ、小説家としてのありよう、創作の秘密、そして「僕という人間について正直に」、初めて正面から綴った画期的書下ろし作品です。
1982年秋、専業作家としての生活を開始したとき、彼は心を決めて路上を走り始めた。それ以来25年にわたって世界各地で、フル・マラソンや、100キロ・マラソンや、トライアスロン・レースを休むことなく走り続けてきた。旅行バッグの中にはいつもランニング・シューズがあった。走ることは彼自身の生き方をどのように変え、彼の書く小説をどのように変えてきたのだろう?日々路上に流された汗は、何をもたらしてくれたのか?村上春樹が書き下ろす、走る小説家としての、そして小説を書くランナーとしての、必読のメモワール。
忙しいからといって手を抜いたり、やめたりするわけにはいかない。もし忙しいからというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。 僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。
自分にとっての走ることの意味
書いている人 (多田 翼)
1981年 (昭和56年) 生まれ。名古屋出身。学生時代は京都。家族4人で東京23区内に在住、2人の子どもの父親。気分転換は毎朝の1時間のランニング。複数のスタートアップ支援に従事。経営や事業戦略のコンサルティング・アドバイザー・メンター、プロダクトマネージャー、マーケター。前職は Google でシニアマーケティングリサーチマネージャー、現在は独立。
私自身も、走ることが毎日の習慣です。早朝の決まった時間に、1時間におよそ 10km を走っています (2018年2月現在) 。
雨や雪の日でも高速の高架下の別コースを走ります。2018年2月現在で、最後に走らなかった日は、去年の6月です。1ヶ月で約 300km 、去年の2017年は年間でおよそ 3500km を走りました。
本書を読みながら常に考えさせられたのは、自分にとっての走ることの意味は何かでした。
村上春樹の考え方に共感できること、自分とは違う走ることの取り組みや考え方を知ることによって、自分との対比から自分自身のことが見えてきます。
自分にとっての走ることの意味は、走ることは手段でもあり、かつ目的でもあることです。あらためて思ったのは3つです。
1. 「手段」 としての走る意味
私は、毎朝、決まった時間に同じ距離を走っています。走り終わったとき、ランニングでしか味わえない達成感が得られます。また、
先ほどの本書から引用したように、走った後に自分自身への誇りのような気持ちを抱きます。村上春樹の考え方を知るまでは、この意識は言葉にはうまくできないものでした。
しかし、この本を読み、今日も同じように走った自分への肯定感や誇りを持っていることに気づきました。
達成感や自己肯定感は、走るという手段を通して得られるものです。
2. 「目的」 としての走る意味
走ること自体にも、私は意味を見い出だせています。
10km 程度を1時間で走るので、キロ6分です。このペースは、ゆっくりと速度を抑えながら一定のスピードをあえて維持するような走り方です。
一定の身体の連動と同じ呼吸のリズムで、走り続けます。この走ること自体が好きなことであり、好きだからこそ走っています。
もちろん、同じペースとリズムで走るようにしているとはいえ、途中に足が重いと感じたり苦しいと思うこともあります。
しかし、途中で歩くことなく走り続けること、何より苦しさも含めて走ることに楽しさがあります。苦しさの中に、今を走っているという実感ができます。
3. 走ることで得られるもの
私にとって、走ることには手段としての意味と、目的としての意味の両方があります。
総合して考えると、走ることの意味は、よりよく生きている実感が得られること、その実感を通して自分の心が満ち足りていくことです。走ることは、自分にとっては瞑想やマインドフルネスのようなものです。
最後に (似ていること、違うもの)
考えてみると、村上春樹の考え方や生き方をまとまった分量で知るのは、この本が初めてでした。
全体を通して感じたのは、走ることや生き方について書かれていることが、私自身の考えに近いことです。
村上春樹は、可能な限り毎日走り、走行距離は一日に平均 10km と読み取れます。私も同じように同じ距離を毎朝走っています。走ることの意味合いも、同じような考え方でした。
違うのは、マラソンやトライアスロンなどのレースに対する取り組みや考え方です。
村上春樹は、年に1回はマラソンに出場し完走を果たしています。本書に書かれているのは、マラソンだけではなく、トライアスロンにも積極的に挑戦しています。
一方で私は、今のところはマラソンやハーフなどのレースに出場する気持ちはありません。
理由は、レースに出てしまうと日々の 「走ることのリズム」 が崩れてしまうからです。マラソンの 42.195km や、ハーフマラソンであっても 20km のレースを走ってしまうと、翌日は、時には数日は休む日となります。
私はそれよりも、一日一日、休むことなく常に一定の走るリズムを刻みながら、毎日をすごしたいと考えています。
☆ 精神の栄養は「言葉」です。走ることは、自分の身体に対する義務であり、必ず走らなければならない時期自分に対するもある。今がその時期です。RUN!RUN!です。(つかさ)
1982年秋、専業作家としての生活を開始したとき、彼は心を決めて路上を走り始めた。それ以来25年にわたって世界各地で、フル・マラソンや、100キロ・マラソンや、トライアスロン・レースを休むことなく走り続けてきた。旅行バッグの中にはいつもランニング・シューズがあった。走ることは彼自身の生き方をどのように変え、彼の書く小説をどのように変えてきたのだろう?日々路上に流された汗は、何をもたらしてくれたのか?村上春樹が書き下ろす、走る小説家としての、そして小説を書くランナーとしての、必読のメモワール。
忙しいからといって手を抜いたり、やめたりするわけにはいかない。もし忙しいからというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。 僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。
自分にとっての走ることの意味
書いている人 (多田 翼)
1981年 (昭和56年) 生まれ。名古屋出身。学生時代は京都。家族4人で東京23区内に在住、2人の子どもの父親。気分転換は毎朝の1時間のランニング。複数のスタートアップ支援に従事。経営や事業戦略のコンサルティング・アドバイザー・メンター、プロダクトマネージャー、マーケター。前職は Google でシニアマーケティングリサーチマネージャー、現在は独立。
私自身も、走ることが毎日の習慣です。早朝の決まった時間に、1時間におよそ 10km を走っています (2018年2月現在) 。
雨や雪の日でも高速の高架下の別コースを走ります。2018年2月現在で、最後に走らなかった日は、去年の6月です。1ヶ月で約 300km 、去年の2017年は年間でおよそ 3500km を走りました。
本書を読みながら常に考えさせられたのは、自分にとっての走ることの意味は何かでした。
村上春樹の考え方に共感できること、自分とは違う走ることの取り組みや考え方を知ることによって、自分との対比から自分自身のことが見えてきます。
自分にとっての走ることの意味は、走ることは手段でもあり、かつ目的でもあることです。あらためて思ったのは3つです。
1. 「手段」 としての走る意味
私は、毎朝、決まった時間に同じ距離を走っています。走り終わったとき、ランニングでしか味わえない達成感が得られます。また、
先ほどの本書から引用したように、走った後に自分自身への誇りのような気持ちを抱きます。村上春樹の考え方を知るまでは、この意識は言葉にはうまくできないものでした。
しかし、この本を読み、今日も同じように走った自分への肯定感や誇りを持っていることに気づきました。
達成感や自己肯定感は、走るという手段を通して得られるものです。
2. 「目的」 としての走る意味
走ること自体にも、私は意味を見い出だせています。
10km 程度を1時間で走るので、キロ6分です。このペースは、ゆっくりと速度を抑えながら一定のスピードをあえて維持するような走り方です。
一定の身体の連動と同じ呼吸のリズムで、走り続けます。この走ること自体が好きなことであり、好きだからこそ走っています。
もちろん、同じペースとリズムで走るようにしているとはいえ、途中に足が重いと感じたり苦しいと思うこともあります。
しかし、途中で歩くことなく走り続けること、何より苦しさも含めて走ることに楽しさがあります。苦しさの中に、今を走っているという実感ができます。
3. 走ることで得られるもの
私にとって、走ることには手段としての意味と、目的としての意味の両方があります。
総合して考えると、走ることの意味は、よりよく生きている実感が得られること、その実感を通して自分の心が満ち足りていくことです。走ることは、自分にとっては瞑想やマインドフルネスのようなものです。
最後に (似ていること、違うもの)
考えてみると、村上春樹の考え方や生き方をまとまった分量で知るのは、この本が初めてでした。
全体を通して感じたのは、走ることや生き方について書かれていることが、私自身の考えに近いことです。
村上春樹は、可能な限り毎日走り、走行距離は一日に平均 10km と読み取れます。私も同じように同じ距離を毎朝走っています。走ることの意味合いも、同じような考え方でした。
違うのは、マラソンやトライアスロンなどのレースに対する取り組みや考え方です。
村上春樹は、年に1回はマラソンに出場し完走を果たしています。本書に書かれているのは、マラソンだけではなく、トライアスロンにも積極的に挑戦しています。
一方で私は、今のところはマラソンやハーフなどのレースに出場する気持ちはありません。
理由は、レースに出てしまうと日々の 「走ることのリズム」 が崩れてしまうからです。マラソンの 42.195km や、ハーフマラソンであっても 20km のレースを走ってしまうと、翌日は、時には数日は休む日となります。
私はそれよりも、一日一日、休むことなく常に一定の走るリズムを刻みながら、毎日をすごしたいと考えています。
☆ 精神の栄養は「言葉」です。走ることは、自分の身体に対する義務であり、必ず走らなければならない時期自分に対するもある。今がその時期です。RUN!RUN!です。(つかさ)