一身二生 「65年の人生と、これからの20年の人生をべつの形で生きてみたい。」

「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」

マックス・ホルクハイマー

2016年09月24日 | 社会

 

 ● ホルクハイマーと批判理論 
 1930年に社会研究所の第2代所長に就任したホルクハイマーは,困難な時代を通じて研究所をまとめた功労者である。フランクフルト学派の社会理論は批判理論といわれることが多い。このことばはホルクハイマーの論文「伝統的理論と批判理論」(1937)から採られたものである。この論文で,かれは諸科学が分業して単純な仮説から,現にある社会秩序を演繹的に説明することを,結局は既存の社会を容認するブルジョワジーの虚偽意識であると批判する。かれが考える批判理論は既存の社会秩序を批判し,より理性的な社会へと変革することをめざす理論である。この時期のかれは,既存の社会を批判するための方法はマルクスの社会理論,めざすべき社会はマルクスがいう「自由なひとびとの共同体」(『資本論』第1巻第1章第4節)であった。しかし,ナチズムの台頭,アメリカ亡命の経験によって,ホルクハイマーとフランクフルト学派の多くのメンバーのあいだではしだいにマルクス主義離れが進む。そのため,批判の視点と変革の目標を改めてどう設定するかが,課題になっていく。
 
 ● 『啓蒙の弁証法』 ― ホルクハイマーとアドルノの共著
 ホルクハイマーとアドルノの共著『啓蒙の弁証法』(1947年)は,世界でも最も文化的な国家のひとつであったドイツでナチス独裁が生まれ,さらには,ユダヤ人大虐殺がされた経験や,亡命先のアメリカでの画一化した消費文化に直面した経験をふまえた著作である。この時期からのかれらの社会批判の視点は,近代社会における啓蒙の理念のパラドックスが焦点になる。

 

「古来,進歩的思想というもっとも広い意味での啓蒙の目標は,人間から恐怖を除き,人間を支配者の地位につけるということであった。しかるに,余すところ亡く啓蒙された地表,今,勝ち誇った凶徴に輝やいている」(第1章)。

 

 啓蒙の概念 上の文からはじまるこの本の第1章「啓蒙の概念」は,抽象的で難解な哲学的考察である。あえて要約すると,次のようになるだろうか ― 近代社会では啓蒙の理念のもとに,科学が世界を説明するようになり,かつての神話と同じ役割を果たすようになった。自然を擬人化し,神として崇めたかつての神話とちがい,今度は,科学の名のもとに,人間が支配者であり,人間が自然を切り刻むことを善とする思想が定着した。困ったことに,われわれは科学をせいぜい部分的にしか分かっていない(これだけ,学問の細分化が進むと,専門の学者も科学の全体は分からなくなる)。こうして,啓蒙の思想に漠然と敬意を抱いているだけで,実際には無知な多くのひとびとは,科学と進歩を司る「支配者」にしたがい,世界をかれらが蹂躙するのに,身をまかすようになる(かれらはエリートと大衆ということばは使わない。しかし,私見によれば,かれらは,文化の支配者とそれに追随する大衆という図式で多くの問題を考えている)
 
 第1章「啓蒙の概念」は,故郷に帰還をめざすオデュッセウスの物語についての考察で終わる。古代ギリシャでもっとも知恵ある人間とされたオデュッセウスは,トロイア戦争からの帰還の途中,セイレーンなど多く妖怪とたたかう。オデュッセウスは文明の象徴,かれに付き従う船乗りたちは文明に追随する大衆の象徴,セイレーンたちは人間に敗れ去る自然の象徴である。故郷に帰ったオデュセウスはかれの不在中に妻を誘惑しようとした求婚者たちに復讐し,大殺戮をおこなうが,これは文明に内在する野蛮を寓意している。
 
 第1章での抽象的なかれらの主張は,第4章「文化産業 ― 大衆欺瞞としての啓蒙」や,第5章「反ユダヤ主義の諸要素 ― 啓蒙の限界」では具体的に述べられている,
 
 文化産業 (第4章)
 かれらによると,今日の社会では文化は多様化しているようにみえるが,実際はどんどん画一化している。たしかに,ポップス,ロック,ジャズやクラシックなど,音楽の分野だけ見ても,趣味は多様化している。しかし,それぞれのジャンルのファンの多くは耳になじんだ音楽を少し変えただけの新作に,惹かれているにすぎない。啓蒙が進んだはずの現代社会は,実際には文化産業がつくりだす画一化された文化を受けいれることが自分の個性だと錯覚するひとびとを,大量につくりだしたのである。かれらの発想からすると,エルメスやルイ・ヴィトンなどのブランド商品が大好きだといって,買い集める人たちも文化産業に操作された人間の典型ということになるだろう。
 
 「反ユダヤ主義」の根源 (第5章)
 ナチス時代に噴出した反ユダヤ主義は何に起因するのか。ユダヤ人への憎悪にかられ,ユダヤ人の自宅や店を襲撃した一般のひとびとの熱狂と,それを教唆したナチスの幹部や行政官僚はクールであるばあいが多かった。自由経済を唱いながら,実際には独占企業が支配している「後期資本主義」のもとで,今日ふうにいえば「負け組」になることが運命づけられている大衆は,いつも怨念を投影する先を求めている。ナチスはかれらの怨念の投影先をユダヤ人排斥運動に向かわせた。数世紀におよぶ啓蒙はに,民衆に反ユダヤ主義の非合理性を反省させるだけの力はなかった。というよりも,むしろ啓蒙に内在する矛盾が反ユダヤ主義を生みだしたのである。
 
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