稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

№94(昭和62年10月23日)

2020年02月19日 | 長井長正範士の遺文


書いておきましたが、重ねて言葉をかえて要点を申し上げますと、何事にもとらわれない心で、静から動へと明鏡の如く、有りのままの姿として自然のうちに溶け込んでいくのでありますから、心は動揺もしないということになります。

然しこれは修養の足らない私自身としては程遠いもので、この心のことについては、昔、釋沢庵が禅学の見地から柳生宗矩に与えた「不動智神妙録」に詳しく、剣法と心法について述べられた剣心一致の極意をよくよく熟読翫味(じゅくどくがんみ) されることを望みます。

ただ私は私なりに、もう少し述べておきたいのは「剣は心なり」と言われていますが、これから発して「剣は人生に生きずいている」「剣は自然の中にあり」「剣は芸術なり」とも言えるのでしょうか。すべて世の中は剣の道で貫いている、と言いたいのであります。そこでこの心をどこでどうして養うかという事ですが、私はすべて切落しの精神で貫いている小野派一刀流の切組の形を体得する為、不断の錬磨をするのが何よりの近道と思っております。世にいう“百錬自得”とは竹刀剣道ばかり数をかけ百錬して剣道の心を体得するには余程の人でない限りむつかしいので、理に叶った古流の形をも同時に百錬して始めて大宇宙の眞理を具現するのが剣道であると悟るまで鍛錬して行かなければなりません。

前述の如く、形と稽古と車の両輪の如く百錬して自得するという心がけを言うのであります。我々は生涯かけてこの大目標に向って修錬して行かなければなりません。生命終るまで、これでよいということはありません。そう簡単に自己満足して答えを出すものではありません。死んでから、後に残った人々が本人の人格の答え、評価を出すものと自覚しなければなりません。

ただここで申し上げたいのは古流の形を不断の鍛錬して行きますと、手おぼえ、足おぼえ、無心のうちに体全体」でおぼえてくれます。私などまだまだ未熟ですが、門人に一刀流を指導する時に口で説明し乍ら形をやると途中で間違い、この形はどうだったのかな!と迷ってしまいます。そんな時は説明をやめて、黙って形をやりますと無意識にスムーズに出来るのです。即ち手足がちゃんとおぼえていてくれているのです。有難いことです。

形は打太刀を師と仰ぎ仕太刀が安心して勝たして貰うように作ってありますので、一本一本の形の名称に含まれている精神を理解し、ひたすら余念なく(打ってやろうとか、ひょっとして打たれやせんか等の迷いなく)形の約束に従って稽古出来ます。このところに体得の妙味が出てくるのであります。私は小野派一刀流の組太刀を打、仕共100本だけですが、ようやく形(かたち)だけ身につける事が出来ましたが、これを極めるには、まだまだ道は遠く生涯ものですが、竹刀剣道に、たまに思わず技が出ることがあります。そんな時は人知れず内心のよろこびは万金に価いするくらい感激で、その勢いをかって一層形のけいこに励みます。そしてつくずく形=肉体=剣=心が皆一つに帰すのだという事を思い知らされるのであります。

山岡鉄舟が無刀流の精神で江戸を大火から守った話は余りにも有名であり、無刀流の精神こそ人間最高の道徳でありましょう。然し、そこまで到達するには、やはり一刀流の切落の精神を組太刀の形で体得していかなければなりません。切落の精神が又禅につながっていきます。具体的に申し上げますと、一刀流組太刀の一本目の“一つ勝”の形は相手の打ってくるその剣を打落としざま一拍子で咽喉又は胸等を突く技で、相打ちであり乍ら、相手に勝つためには、その技の技術だけでなく、先ず、死にたくない、殺されたくない、負けたくないという、わが心を切落すところから始めなければなりません。そして心身共に切落が出来る境地に到達し、己れを捨てる無の境地に入ることが出来なければ剣禅一如の心境に入ることが出来るでしょう。(続く)
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