↑ 京都撮影所で。左から雷蔵、某新聞記者、私です。
昭和44年(1969)7月17日、私は宣伝会議のため上京しようとして板付空
港(現・福岡空港)で搭乗手続きをしていました。
その時にスピーカーで私を呼び出しているではありませんか、急いでカウン
ターへ。それは会社からの緊急連絡で、雷蔵が亡くなった知らせでした。
享年37才、無念の死です。
そのまま上京して本社の会議をすませ、私たちは池上本門寺で行なわれた
告別式の準備に入りました。
私の役目はVIP受付で、各界の著名士が多く来られて大忙しでしたが、田中
角栄さんを私が本堂へご案内したことを覚えています。
雷さん、勝ちゃんはデビュー作品が「花の白虎隊」で、私も宣伝部で初めの
仕事が同作品であり、しかも私は会津若松の出身ということもあって、後か
ら彼らにも話しましたが同期の桜の気持ちでした。
雷さんが一度退院し出演した作品でのやつれ方が激しく心配していました
し、一寸難しい・・・と聞かされていたものの、現実となって大ショックでした。
私は撮影所で、ロケ先で、福岡でのイベントなどで、随分一緒に仕事をさせ
てもらい、思い出話は沢山ありますが、珍しいスナップなどを交えて改めて
書かせていただくつもりです。
雷さんの作品を多く手がけた池広一夫監督の、福岡を舞台にした「片足の
エース」(1971)という作品があります。
池広監督のお父さんも大映の居られ、私もその部下だったこともあって池広
監督とも仲良くさせてもらっていましたし、私も懸命に応援した作品です。
大映が末期の状態で製作は勝プロが行い、約20日間の博多ロケをスタッフ
と一緒に合宿し、監督と共に走り回った思い出の作品でもあります。
ロケ中の7月17日に池広監督が「中島さん、雷蔵の命日なので一緒に供養
しましょう」と宿舎内に祭壇を作りお詣りたのですが、その時に監督が取り出
した雷蔵のポートは、本人もお気に入りの一枚で下記の写真です。
また毎年年賀状を貰いましたが、亡くなった年の年賀状も併せてご披露いた
します。
↑ 左は永田社長と雷蔵。 右は「安珍と清姫」ロケで若尾ちゃんと雷さん。
↑ どちらも雑誌にのったものです。左はお風呂で、右は叶順子とのスナップ。
↑ 左はお気に入りだったポート。 右は亡くなった年の年賀状。
↑ 雷さんのお墓参りをしてきました・・・私。
おつかれさまです
今回も、貴重なお写真とお話をありがとうございます。
昭和44年と言うと、私はまだ小学校に上がる前だったのですが、つい昨日の様な錯覚を覚えます。
(家の周りの昔の風景や私を可愛がってくれた近所の おばあちゃん等、走馬灯の如く頭の中を駆け回っております)
雷蔵さんの遺作「博徒一代 血祭り不動」の舞台がウチからそう遠くない場所の新津と言う事と、祖父が戦前、小さな石油の元売りをやっていた関係で、何かご縁を感じます。
又、たくさんのお話、お聴かせくださいませ
楽しみにしております
・・・・今日の新潟は「血祭り不動」のシーンの様に雪景色であります。
池広監督には雷蔵さんの分まで、いつまでもお元気で終着駅シリーズを撮り続けてほしいです。
いい写真をありがとうございました。
今から15年以上前、福岡で雷蔵さんの映画を数本上映するというイベントがあり、私も熊本から参上しました。確か当日は、真城千都世さんや亡くなられた田中徳三監督がゲストでお見えになったと記憶しています。
時間の都合で上映作品は一本しか観れなかったのですが、それが池広監督の『ひとり狼』でした。情感のこもった、とても素晴らしい映画だったと思います。
自分がとっくの昔に37歳を過ぎて、これまでの自分の人生を考えると、雷蔵さんの人生がとても濃密なものだったのだろうと察することができます。
いつも有難うございます。
そうですか、新津ですが、妙な縁ですね・・・。
雷蔵の話はあとあと続いていきますので、宜しくお付き合いください。
新潟はもっと寒いのでしょうが、寒さに弱い私は、
福岡でこれくらいの寒さで震えています。
雷蔵が亡くなってもう40年以上が経ちます。
ほんとに早く流れる年月に驚くばかりです。
そして健在なのは、池広さんだけになってしまいましたね。
雷蔵の死が大映の倒産を早めたという人もいるくらいです。
ほんとに惜しい人の早死にでした・・・。
彼が生きていたら81歳です・・・。
雷蔵のイベントが福岡であった時期は、私は東京で仕事をしていて
全く知りません。
その田中監督も亡くなり寂しいですね。
森・三隅・田中・池広の監督連は、それぞれ持ち味が異なっていて
面白かったと思います。
いつもながら貴重なスチール有り難うございます。
記事の中に「片足のエース」のことが書かれていましたが、実は私が小5の時(74年)、小学校の体育館でこの
「片足のエース」鑑賞会に参加した記憶を思い出しました。
当時は幼くて、映画会社がどこか云々を顧みることなどなかったのですが、けんさんが関わられた作品だったことを知り、今更ながら感慨深い思いです。
市川雷蔵氏が亡くなった69年は、まだ幼稚園児で、大映といえば『ガメラ』が全てだった頃です。その後、他の大映作品に多く触れ、墨絵のような映像美に惚れ込み、その中で勝新太郎や市川雷蔵の作品を観て、当時に思いを馳せたものです。
雷蔵氏の37歳での逝去は、驚きと共に実に残念な気がします。あまりに若すぎて……『あゝ海軍』のエピソードも傷ましい思いです。
けんさんの掲載されたスチールによって、往年の名優に思いをさせることは、いろんな意味で尊いことだと思います。
私のシリーズが、そのように思って下さるのなら本当に嬉しいし、
書いた甲斐があると言うものです。
私も一本一本に思い出が詰まっていますし、段々と忘れて行く年代
でもありますので、もう少し頑張ってアップして参ります。
どうか宜しくお付き合いください。