New Life in VungTau 在越10年目の感動 新ブンタウ生活毎日アップ

一目ぼれサイゴン引っ越しブンタウ生活スタート
会社と大学で2017年5月開始 楽しみウキウキ生活報告

その1 大晦日に泥の川を鑑賞

2016-02-07 11:08:17 | Weblog
その1 大晦日に泥の河を鑑賞

平成28年 2016年2月7日 日曜日 旧暦大晦日

我輩より一つ上の母親役の藤田弓子がいい!! 撮影当時は35歳 素敵でした。












貧しくもいい日本の時代かも!!
昭和31年は我が10歳のとき
不思議と昨日のことのように
思い出されます。
時間のある方
ぜひご鑑賞を!!


大晦日
本日も泥の川を鑑賞
貧しくともこころあたたかい日本があります。






昭和31年 大阪の天神祭り 素朴純朴

それにしても当時の川は、どぶ川、泥川といわれても仕方なし

栃錦と若乃花の白黒テレビ実況放送が画面に!!
当時10歳の我輩は相撲と野球が大好き!!...

http://www.tudou.com/programs/view/w7EIwSrKcbI

とってもいい泥の河の思い出投稿を発見!!
我輩と同じ世代の人

コピペ
昭和56年の時であった。新聞の映画欄で今まで聞いたことがない新人監督の作品が

傑作で評判になっていた。小栗康平監督の自主制作作品「泥の河」であった。

この頃の私は三十代後半で仕事が忙しく、この映画を見過ごしてしまった。

見たいと思っても映画紹介欄で見当たらない。ある時、「泥の河」を上映している

映画館を見つけた。

川崎にある映画館であった。結婚してから映画を見るのは池袋・新宿・銀座など

都内の映画館で、六郷川を渡った神奈川で見ることがなかった。

 とても遠くへ行く感覚であったが、早く「泥の河」を見なくてはいけない。

仕事の帰りに川崎に向かった。国鉄川崎駅の近くに数館並んでいる映画街があった。

映画館の名前は思い出せないが、たぶん「川崎名画」であったと思う。


 映画「泥の河」のあらすじは次のようである。昭和31年の大阪が舞台である。

橋の河っぷちのうどん屋に毎日立ち寄る馬車を曳く運送屋のおっちゃんが

馬の事故で死んだ。うどん屋の息子信雄は置き去りにされた荷車の鉄クズを

盗もうとした喜一少年と出会った。

少年は岸に繋がれたみすぼらしい船に住む生活者で、遊びに行くと母と銀子と

いうやさしい姉もいた。信雄は父から夜あの舟に行ってはいけないといわれた。

信雄の父母は姉弟を夕食に呼んで暖かくもてなした。お礼に喜っちゃんが死んだ

父から教えてもらった「戦友」を歌う。

満州で戦いシベリアに抑留された信雄の父晋平は感動する。

 晋平は舞鶴に妻を残し、大阪の闇市で知り合った貞子と駆け落ちして、

うどん屋を始めて、40代を過ぎてから信雄を授かる。残した妻から入院した病院へ

信雄と一緒に見舞いに来てほしいと依頼される。信雄は自分の生んだ子といって

絶対に行かないといった信雄母貞子も一緒に、三人で京大病院に面会にゆく。

 晋平は天神祭に信雄と喜一を連れて行くと男の約束をする。

天神祭の当日に晋平は行方をくらましてしまう。信雄と喜一は貞子から小遣いを貰い、

二人で天神祭に行くが人混みで破れたポケットから、小遣いを落としてしまう。

ふさぎ込んだ信雄を喜ばすために、喜一は河に突き刺した竹ほうきに付いた

蟹の巣を見せる。さらに蟹にランプの油を垂らし、火をつける遊びを見せる。

舟べりを逃げる蟹を追った信雄は窓越しに喜一の母の姿を見てしまう。

舟は廓舟と呼ばれ、背中に刺青のある客と商売をしていたのである。

信雄が家に帰ると晋平は戻っていて、何か上機嫌でうどん屋の客に振る舞いをしていた。

 翌日、廓舟は岸を離れて曳かれてゆく。信雄は喜一の舟を執拗に追い続けて、

見送って終わるのである。


 昭和31年は私が小学校6年の時である。白黒スタンダードの画面に映し出された大阪の川を

挟んだ町並みを八王子生まれの私がとても懐かしく思った。あの頃の時代の雰囲気とても

うまく醸し出されている。

 最初に馬車を曳く運送屋が登場する。私の隣町に馬喰と呼ばれた運送屋があった。

大きな荷車を馬に引かせて、薪・炭・木っ端・石炭など運んでいた。

このような馬車が道路を通るのは日常であり、馬糞が道路に落ちているのは

珍しくなかった。馬糞を見つけた子供はすぐに「一踏んだ」と言って踏んだ。

馬糞を踏むと背が高くなると言われていた。


 主人公の少年信雄と喜一は小学校3年生であった。喜一は学校に行っていない。

3年生は私の弟と同じ年頃である。ラジオで「赤胴鈴之助」を聞き、近所の食堂のテレビで

栃錦と若乃花の相撲を盗み見して、路上で車輪を転がす遊びをしている。

また、朝鮮戦争の好景気で鉄が高騰して、当時の小学生達は小遣い稼ぎで、

鉄屑を集めた。私の小学校生活そのままである。


 当時、私の町でも物売り・流れ職人・テキヤ、サーカスの人・旅芸人・門付け芸人など人達を

よく見かけ、いつの間に姿を消してしまう。報

道で東京湾の周辺で暮らしていた海上生活者のことなど見る機会があった。昭和31年では

まだ赤線・青線が健在で、吉原・洲崎・鳩の町などにぎわっていた。

川辺に廓舟が舫っていても、それほど不思議とも思わなかった時代である。

国民すべてが皆貧乏で、どんなことでも精一杯に生きて、弱い人を助け合っていたのである。

貧しいけど底抜けに明るい感じがあった。


 きっちゃんが歌う「ここはお国の何百里、離れて遠く満州の・・・」で始まる「戦友」の歌声には

思わず涙が溢れてしまう。小学校にも行かないで、この歌詞を全部覚えていた  

きっちゃんは死んだ父が酔っ払うと歌うので覚えてしまった。

晋平がきっちゃんに何度も「戦友」を催促するのである。当時は日本のどの家族にも

戦死者や復員した戦争体験者が必ずいた時代である。

満州で戦いシベリアに抑留された晋平は自分を「スカみたいにしか生かれない」

「スカみたいに死んでゆく」と悔恨を込めて述懐している。

私の父も台湾に出征して帰国した頃、うわの空のような生活で「南方ボケ」と家族から笑われていた。

出征したことはあまり家族に話さなかった。


 世間から蔑視された廓舟で家事すべてをしている喜一の姉銀子の姿がこの映画の一番の魅力であろう。

最初に遊びにきた信雄にやさしく介抱し、信雄の父母の夕食の招きに弟にしつけを教える。

貞子がみやげに子供服をあげるが、きちんとたたんで置いてゆく凛とした姿である。

晋平のいないうどん屋を気軽に手伝う。うれしそうに貞子と風呂に入る。

素直できびきびとした動作と社会を見通したような澄んだ目。可憐であればこそ、

なお可憐になる姿である。

もう一つの魅力は加賀まりこの娼婦である。まさに泥に咲いた蓮のように妖艶である。

わずかしか出番がないがその存在感がぞくぞくして堪らないのである。


 この映画の根幹のテーマは子供達の別れであろう。

子供は親の都合である日突然別れるのである。あんなに楽しく遊んでいた友達が

突然目の前からいなくなるのである。とても悲しい出来事である。

どんな人でも子供の頃、いくつか経験したであろう。


 私が3歳の頃、いとこの女の子と一緒に暮らしたことがあった。戦争未亡人となった叔母が

我家に一時預けたのである。毎日姉弟のように、いつも一緒に遊んでいたが、突然帰ってしまった。

幼い頃なのに淋しく悲しかったことを強烈に憶えている。

また、小学生の頃、近所で仲がよかった同級生が突然引っ越してしまった。

かなり離れた所に転居したが、わざわざ会いに行って遊んだことがあった。

家族が子供のことだからと笑っていた。その頃何のことだか分らなかった。

後に転居した家が夜逃げ同然で、我家に帳場(借金)を踏み倒して行ってしまった。

その家にわたしがのこのこ遊びに行ったのである。子供は仲がよかった友達と

遊びたかっただけである。


 映画では岸を離れて曳かれてゆく廓舟を信雄が執拗に追い続けて画面を

幾度もカットを変えて描き続けるのである。

最初は「きっちゃん」とつぶやく信雄が最後は舟に向かって大声で「きっちゃん」と叫ぶのである。


 映画を見終わってすぐに、ルネ・クレマン監督の「禁じられた遊び」のラストシーンを思い出した。

戦争孤児のポレットが突然修道女に連れられて行く。駅の雑踏の中で、一緒に暮らしていた

ミッシェルの呼ぶ声を聞き、ミッシェルと叫びながら探しに行く。人違いでミッシュルはいないが、

雑踏の中を「ミッシュル」と叫びながら走って行く。

 
 別れはいつも悲しく切ないが、子供の別れは強制的に起こってくるのでやるせないのである。

川崎から赤羽までの京浜東北線の車内で余韻に浸りながら、揺られながら帰っていったことをよく憶えている。


 映画「泥の河」はアメリカアカデミー賞外国語映画部門にノミネートされ、モスクワ国際映画祭で

銀賞を獲得して、その年(1981年度)のキネマ旬報ベストテン第一位となり、その他の国内の映画賞を独占している。



1回目の休憩
午前11時10分

この下のクリックお願いします!!!
↓↓↓↓↓
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
« その2 本日もEmartに来ました‼ | トップ | その2 球春なけなわ »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事