60~90年代名作漫画(昭和漫画主体・ごくタマに新しい漫画)の紹介と感想。懐古・郷愁。自史。映画・小説・ポピュラー音楽。
Kenの漫画読み日記。
●小説・・「じじごろう伝Ⅰ」狼病編..(26)
26.
もう季節は秋も深まって来た十月の半ばとなった。晴れた土曜日の昼間、住宅地の立ち並ぶ家々の一角、モダンな造りの一軒の二階家の広い前庭で、十人程度の大人と子供が賑やかしく笑い声を上げている。
ところどころに真っ白い雲が浮かぶがほとんど快晴の天気で、秋の半ばといえど暖かく、しかし時折ひゅうと吹き抜ける風は季節どおりに涼しい。
青空に白い煙が上がる。中年の男性二人がトングを使って網の上の肉片を裏返している。幾つかの肉片の他に、網の上には野菜の切ったものが乗っている。
立食のバーベキューだ。人数は二家族で九人。肉を焼いているのは本田家の当主、本田忠行氏と吉川家の和臣。忠行氏の妻、本田洋子と吉川智美はバーベキューコンロから少し離れたところで話に夢中になっている。
吉川和臣が退院して来てすっかり元気を取り戻したということで、本田忠行氏が自宅の広い前庭で快気祝いのバーベキュー会を開いてくれた。
吉川家、本田家の家族全員が参加している。吉川愛子·和也の姉弟は、肉を焼いている父親の後ろで紙皿にバーベキューのたれを入れて立っている。同じく本田家当主の後ろには、本田家の幼い兄弟が立っている。
本田家の長男、本田義行は、縁側廊下の全面窓の前、地面に置かれたテーブルの椅子に腰掛けて悠々と炭酸水を飲んでいる。季節がらみんなが長袖シャツを着ている中、義行だけが半袖Tシャツだ。高校で柔道をやっている彼はがっしりとした肉体で、秋半ばでも快晴の昼間では若さで寒気など微塵も感じない。
本田忠行の後ろの子供たちの内、ヨチヨチ歩きの小さな弟が転んでしまい、泣き始めた。少し大きなお兄ちゃんの方が大泣きする弟に寄り添う。お父さんが振り返って慌てた素振りを見せる。
「ほらほら、義行。そんなとこに座ってジュース飲んでないで弟たちを見なさいよ。本当にもう大きなお兄ちゃんなのに」
義行たちの母親の洋子が、義行に向かって叱り着けるように言った。義行が大きな身体をやおら起こして、小さな弟たちの元へ歩く。臨家の子供は男の子ばかりで、長男と次男·三男の間が離れていた。
気が利く愛子が、地面に座り込んだまま泣いている幼児の元へ駆け付ける。和也はじっと立ったまま見ていた。振り返った父親·和臣が和也に向かって「小さい子なんだから遊んでやりなさい」と叱るように言った。
小三の和也は9歳で、本田家の次男は5歳、三男に至ってはまだ3つにもならない。愛子は二人の元で愛嬌を振り撒き何かと話し掛けていたが、和也は見ているだけで動かなかった。
和臣は自分の幼い長男の性格が変わったと思っていた。それは離れたところから和也を見ている母親·智美も同じ気持ちだった。二人とも、子供らしくない、と感じていた。変に落ち着いているのだ。今も、幼い子供たちに関わるのは馬鹿らしい、というような態度に見えるのだ。智美も、じっと立ったままの自分の子供を叱ったものかどうか迷っていた。
高校生の義行と中学生の愛子が、立たせた幼児を両側からあやしている。子供が泣き止んだので義行はテーブルに戻り、コップにオレンジジュースを注いで幼い弟の元へ持って行った。次男もテーブルまでジュースを注ぎに行ってる。
「さぁ、焼けたぞ」と二人の男親が、焼けた肉片を子供たちの持つ紙皿へ分けて入れて行く。義行も加わってトングを握り、三人の子供に肉片を分け与え、野菜片を焼いて行った。
愛子が本田洋子に幼児に肉を食べさせていいのかどうか訊くと、母親はテーブルからケーキ菓子を取って我が子の傍に行って世話を始めた。智美も和也の傍まで行くと、本田忠行に焼けた肉を食べるように勧められた。
二人の男親は肉や野菜を焼くことに徹して、義行が焼けたものを両女性や子供たちの持つ皿へ分け与えて行った。どんどん焼けて行き、網の端や大きな皿に焼けた肉や野菜片が置かれて行く。
女性は食べながらまた談笑し、やがて焼くのが一段落着くと男親たちは缶ビールをあおった。子供たちも肉や野菜をほおばり、コップのジュースを飲む。小さな子もすっかり泣き止んでジュースを飲んでいる。小さな子は何かと愛子が世話をやいている。
みんなが和気藹々と語り笑い声を上げていたが、和也だけが黙々と食べてはいたが特に笑ってもいなかった。和臣も智美も本田家の二人と談笑しながらも、和也を、この子は何を考えているのだろう、と怪訝に感じていた。
吉川和臣は1ヶ月近く入院していたが、今はすっかり元気になっていた。見るからに快活そうにしている。ついこの前まで意識不明の状態で病院のベッドで眠り続けていたなどと微塵も感じさせない様子だ。
母·智美が、本田家の次男·三男の幼児たちのところへ行って一緒に遊んだら、と和也に声掛けたが、肉を噛み続ける和也は別に動こうとしない。気を遣って子供たちの方に目をやったが、また食べ続ける。
和臣が本田家夫妻に「どうも済みません、わがままな子で」と頭を提げると、本田家の二人の大人は「いいんですよ。愛子ちゃんに面倒見て貰って済みません」と謝罪を返して、大人の社交辞令のやり取りをした。四人は話を変えてまた大きく笑った。
弟らと愛子の近くに立つ、本田家の長男-義行は和也をじっと見ながら、“和也は変わった”としみじみ思っていた。以前の怖がりな臆病で、内気で甘えん坊な和也ではなくなってしまった。以前のように高校生の自分に“お兄ちゃん、お兄ちゃん”と甘えて寄って来て絡むことをまったくしなくなった。
まだ小三で九つくらいの子供が変に落ち着いていて、妙に大人っぽく感じられる。義行は今の和也を不気味にさえ感じている。
義行がお姉ちゃんの愛子ちゃんに和也のことを訊ねると、何だか動揺しているようにあいまいな応え方をしていた。姉から見ても少し変わったように思う、などと答えていたが、どーも何か隠しているような感じもある。愛子ちゃんが和也の話はしたがらないようなので深追いするのはやめて、和也のことはそれ以上訊くのはやめた。
一度、公園で和也が少し小さめな茶色の犬と一緒にいるのを見たが、腰を降ろして犬に話し掛けてるように見えた。離れたところから見ていたが直ぐに犬の方が気付いてこっちを見た。続けて和也もこっちを見たが、これまでは自分を見つけたら走って寄って来てたのに、ただじっとこっちを見ているだけだった。義行は遠慮して和也に関わらずに去った。
和也の変貌は気にはなったが深く考えるのはよして、焼いて余って皿に溢れている肉をたいらげることにした。愛子ちゃんが義行の方をじっと見ていた。愛子の視線に気がついた義行が顔を向けると、愛子が視線を反らして子供たちを構い始めた。
愛子は最近の和也が変わってしまってることに、周囲のいろんな人が気付くことに敏感になっていて、いつもその場に居合わせるとどぎまぎして動揺してしまう。いつも弟のことを訊かれると困ってしまうのだ。
愛子が実は弟の秘密を知っていることが原因で、隠しきって当たり障りのないことを答えるのにひどく神経を使うのだ。弟の秘密とは、スーパードッグ-ハチなどとの関係や、超能力者だという大佐渡真理などのことだ。こういう話は絶対に秘密にして誰にも喋っては駄目だ、と性格が変わって存在感のある弟から固く言われている。
勿論、父親や母親にも絶対に話しては駄目だと念を圧されている。大佐渡真理と同じく弟-和也も超能力者らしい。犬のハチとはテレパシーのような力で会話などコンタクトを取っているようだ。あとは他にどんな力を持っているのか解らない。
ただ、この間、遠く離れた山間で危険にさらされていた大佐渡真理の状況をテレパシーのように察知して、少年野球コーチのお兄さん-岡石浩司に頼んで何十キロと遠い山間地まで自動車を走らせて、大佐渡真理を救助に行った。和也の言うとおりに危険な目に合ったらしく、山林から降りて来た大佐渡真理は丸裸で、あちこちにたくさんの小さな傷や汚れがあった。
このことなどから解るのは、弟-和也にはテレパシーのような超能力があることは間違いないようだ。スーパードッグ-ハチと自由に会話し、同じ超能力者の大佐渡真理の危機を相当な距離があっても知ることができる能力。弟のこととはいえ、愛子自身がまだ当惑していて半分、訳が解らない状態だった。
愛子は皿と割り箸を持ったまま突っ立って、自分の思いに没頭した。あれから数日経って、大佐渡真理はどうしているのだろうか?岡石のお兄さんに送って貰って真理さんの住まいは知っているが、電話番号など連絡手段は知らなかった。また、愛子は大佐渡真理とはそこまでの親しい間柄でもないとの、遠慮もあった。
和也の“謎”に関しては、今回、お父さんがめでたく回復して家に戻って来たことでも、あれは十日くらい前に夜、和也と共に病院を訪ね、父親の眠る病室で、和也が市民公園の森の中にいるという謎の老人がくれたという、気持ち悪い小さな白いミミズみたいな虫みたいのを何匹か、父親の口の中に滑り込ませ、その翌日に父親は長い昏睡状態から目を覚ました。このことも謎の一つだ。
父親が突然目を覚まし意識を戻したことで、翌日の病院では大騒ぎで、それから何日間かさまざまな検査を行ったらしい。一度、“狼病”に感染していたのは間違いないのだが、どうして急に意識回復したのかさっぱり解らないままだそうだ。
狼病ウイルス感染者であった父親が、他の感染者たちはみんな特効薬で短時間で元に戻ったのに、何故いつまでも昏睡状態で眠ったままだったのか、また突然回復した理由も、全部解明できなかったらしい。意識が戻って十日くらい経って、完全に狼病ウイルスが残っていないことが解り、健康体そのものなので父親は退院して来た。
一時は都市部を中心に狼病感染者で溢れていて、地域がちょっとしたパンデミック状態だったけど、専門の白人医師の特効薬に寄って全ての感染者は回復したらしい。テレビでも、県や自治体からの声明でもあったが、地域の狼病ウイルスは根絶したと見られている。
愛子は和也から、夜の病院に行って父親の口に変な虫みたいのを入れたことも、誰にも喋るな絶対口外してはいけないと言われていた。
そういえば、父親と同じ病室で隣のベッドに眠っていた若い女性はどうしたのだろう?元気になった父親に訊いたが知らないと言う。意識を取り戻したときには隣には誰もいなかったらしい。
そして、その後、院内で看護士らが、患者が消えたと大騒ぎもしていたらしい。ただ、昏睡状態時の検査で、狼病ウイルスは体内に全くいなくなっていたと解っていたので、院外での病気感染の心配はなく、病院では患者行方不明のままで事務処理されているらしい。
あの女性は、狼病感染状態で自分自身を失い、身体は自由に動くが意識がないという状態で、一般人女性を1人殺害している事実がある。だから警察には、病気罹患の状態だったとはいえ殺人事件の重要参考人として監視下にある。でも意識が戻らないまま昏睡状態が長期に渡って続いていて、警察病院ではなく普通の総合病院に入院していた。
警察自体は殺人事件の重要参考人としてあの女性を追っていることだろう。
あの女性に関しては週刊誌がゴシップ記事としてセンセーショナルに書いていた。さすがにテレビのニュースではプライバシーに配慮してだいぶオブラートに包んで報道していたが。週刊誌では、ウイルス感染した病気の状態での行為とはいえ殺人事件だし、これが殺害した相手が元恋人男性の現恋人女性だったということで、痴情スキャンダルとして販売数を取れる記事になると、週刊誌は実名まで上げて問題になっていた。
病院から行方不明になった女性の名前は、確か城山まるみとか言ってた。
「愛子ちゃん、大丈夫かい?」
そう声掛けされて、愛子はハッと気付いて我に帰った。
「いや、何か空をぼーっと見てるからさ。どうしたんだろと思って」
背中から声を掛けて来たのは本田義行だった。
「ああ、義行お兄ちゃん、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしちゃって」
愛子がテレ笑いするような様子で義行の方を向いた。実際、愛子は我を忘れて物思いに耽っていた。
「まぁ、この半年間、いろいろあったからね。でも、お父さんが無事に戻って来て良かったね」
義行が笑いながら優しく言うと、愛子も笑顔で「ありがとう」と返した。
テーブルを挟んで向こうに立つ和也がこちらを見ている。愛子が視線に気付くと和也は目を反らした。愛子が義行と話しているので、余計なことを義行に喋りはしないかと気にしているようだ。
愛子は、ふうー、とため息をついてまた空を見上げた。青空にところどころ千切れ雲が浮かぶ。義行が離れたので、愛子はまた物思いに耽った。
もう一度、大佐渡真理のことを思い出して、会いたいな、と思った。その後が心配でもあるが親しみを感じていて、ゆっくりと一緒にいろいろと話してみたいな、と望んだ。
* *
うっすらとまぶたが開いた。木目の天井板が見える。かなり古いベニヤ板の天井だ。黒っぽい年季の入った天井しか見えない。首を動かそうとしたが思うように動かない。頭がぼーっとしている。それでも首を左右に動かして見た。何とか首が回り、片側は磨りガラスのガラス窓だ。もう片側には戸口が見える。頭が痛い。
自分は寝ている。せんべい蒲団に寝て胸まで薄い掛け蒲団が乗っている。頭痛がして頭が重いせいか、身体が思うように動かない。蒲団の上で身体を起こそうと試みたが動かない。身体が重くて力が入らない。
蒲団に仰向けで寝たままで、宇羽階晃英はハッと気が付いた。自分は生きている!ここは何処だ?
ある程度首が回るようになったので少し首を起こしてぐるりを見た。部屋だ。相当年季の入った古い部屋だ。まるで昭和の安アパートの部屋だ。六畳一間で、多分この建物は木造だ。視界に入る直ぐそこの出入口も木製ドアだ。
今時まだこんな部屋があるんだ、と感心しながら身体を起こそうと試みるが身体が痛くて思うように動かないし、相変わらず頭が痛い。
宇羽階晃英はぽかんと思った。俺は死んでないんだ。これは多分夢ではなくて、俺は生きてるんだろう。頭痛がする頭の中はぼんやりしてる。
宇羽階晃英はこれまでを思い出そうとした。
俺は確か、副施設長の命令で山に登って行ったんだったなぁ。そうだ、カニトモ君や山崎もいた。そうだそうだ、大佐渡真理君を拉致して山に連れて登ったんだ。カニトモ君が当て身を入れて山崎が薬品をハンカチで嗅がせて失神させて。思い出して来た。大変なことがあったんだ。
宇羽階は記憶を取り戻して自分で驚き、無意識に蒲団からガバッと起き上がろうとした。
「いたたたた…」
全身が痛くて頭と胸を上げただけでまた蒲団にベタリと寝た。全身がダルいし痛い。まだ起き上がるのは無理のようだ。
宇羽階はここで初めて、自分が素っ裸であることに気が付いた。
痛みが納まると宇羽階はまた思い出した。
副施設長の命令で俺たちは全身を樹の幹に縛り付けた大佐渡真理君を順番に襲おうとしたんだ。俺は副施設長に逆らって副施設長を怒らせた。そうする内に、何が起こったのか大佐渡君が縛られてる林の方から火の玉が飛んで来た。
不思議な火の玉だ。両手で抱えるくらいの大きな火の玉だった。何個も飛んで来てあたり一面が火の海になった。あれで林も野っぱらも焼けて火が拡がって山火事になった。
そうだ、そして副施設長は所持していた拳銃で山崎君を撃ち殺したんだ。裸になって林の中に入って行ったカニトモ君はどうなったんだろう?山火事の中で死んでしまったんだろうか?
だんだん思い出して来て宇羽階晃英は興奮した。
そうだ、俺は火の海の中で副施設長に拳銃を向けられた。撃たれた!と思ったら倒れたのは副施設長の方で、俺の後ろには事務長がいたんだ。
あのときは本当に驚いた。社会福祉施設の副施設長が拳銃を持っていたのも驚いたが、その施設の一介の事務員である事務長も拳銃を持っていた。そして上司の副施設長を撃ち殺してしまった。
あの山の頂きでは何と二人が銃で射殺された。これは大変なことだ。そして火事が拡がり、火の手が迫って来たので俺と事務長は急いで山をくだった。消防の鐘の音やサイレンもうるさく聞こえて来た。
事務長は俺たちが山の途中まで登って来た社有車を捨てて行け、と言って別の獣道みたいな山道をくだった。
途中で少し休んだが、いろいろ驚くことばかりだったが何よりも一番驚いたことは、事務長は施設長専属のプロの殺し屋だと聞いたことだ。施設の事務員というのは表向きで、事務長の本業は、実業家の施設長の仕事で邪魔になる存在を密かに始末することらしい。
拳銃を向ける副施設長も怖かったが、プロの殺し屋だという事務長も、その事務長を使って仕事上の邪魔者を始末するという施設長も本当に恐ろしいと思った。今でも、施設長と事務長のことを思うと震えが来るくらいだ。
宇羽階は事務長に追いて山をくだり続けると、やがて舗装された道路に出た。遠くで相変わらず山火事の炎は見えていたし、サイレンなども聞こえていたが、深夜の山中の道路は静かなもので、真っ暗い中にライトを点けた黒塗りのセダンが1台だけ停まっていた。
この乗用車の運転席に独り、施設長が座っていた。事務長よりも少し年下になるが施設長も共に中年女性だ。宇羽階は事務長に促されて後部座席に乗った。隣に事務長が座る。
運転席から振り返った施設長から言われたことは、かいつまんで言うとこうだ。
先ず、宇羽階晃英は当施設のいろいろなことを見たし知り過ぎた。これは施設運営を存続して行く上で決して表に出せない重大な事々だ。だからといって、施設でこれまで真面目に働いてくれた宇羽階主任を今この場でどうこうしようという気持ちはない。
当施設としては頑張って仕事してくれてる主任にはこれからも施設のために働き続けて貰いたい。しかし施設の事々を裏側まで知り過ぎている。これは絶対に他には洩らさないことは勿論のことだが、何せ他人の口には蓋はできないとよく言う。口約束や書面で約束して貰ってもつい喋ってしまうこともあり得る。
宇羽階晃英にはもし万一この職場を辞めて貰っては困る。職場から離れるとつい気持ちが軽くなり、それまで黙っていたことが口から洩れてしまわないとも限らない。悪い言い方をすれば、生涯をこの職場に縛っておきたい。しかし勿論、生涯それ相応の給料は保証する。仕事ぶりに寄って昇格·昇給もある。だが宇羽階晃英の身は一生をこの施設に捧げて貰いたい。
施設長からそこまで直接言われて、宇羽階晃英は迷った。今の仕事が嫌いな訳ではないし毎日やる気を持って勤めている。そしてもう苦手な副施設長はいない。生涯の毎月の給料も保証される。ただ、今日、今さっき知った施設の裏面を考えると恐怖心は強い。何しろ今まで普通に職場仲間と思っていた事務長は、施設長直属のプロの殺し屋なのだ。
今日は殺人事件やレイプ未遂などの数々の犯罪を見て来たのだ。これを黙ったままでいいのだろうか?根が真面目な宇羽階はそう思う。今、直接話している施設長も隣に座る事務長も震えが来るほど怖い。
施設長は続けて話した。先ほども言ったように今晩、宇羽階が見たり知った事々は施設存続に取ってはとても重大な事柄だ。これが表に洩れたら施設が潰れるどころの騒ぎではない。そこで、この事を知った宇羽階晃英の扱いは施設としても厳重にしなくてはならない。
だから宇羽階晃英は家族ごと死ぬまで施設が面倒見ることにする。だから宇羽階の妻も施設で働いて貰うし、今就学中の子供も高校卒業と同時に施設の職員になって貰う。勿論、妻子には相応の給料を払う。つまり宇羽階晃英は家族ごと一生、施設が面倒を見る。
宇羽階の勤務する職場のトップ、施設長直々の提案である。しかし、宇羽階晃英は、自分は良いとして、妻にも話して見ようと思うけれど、一人娘のこととなるとまだ小学五年生の子供だし、大学へ行きたいなら進学させてやりたいし、もし将来の夢など抱いているのなら親として応援してやりたい。だから娘のことは娘の自由を尊重したい、と施設長の提案を断った。
深夜の自動車の中、小さなルームライト一つの灯りの暗い中で施設長の顔の様子は解り難かったが、話すのをやめて黙ってしまったので施設長は不機嫌になったようだ。
宇羽階は黙ってしまった施設長が怖くて下を向いた。黙ったままの施設長は目線を事務長の方に向けてアゴをクイと上げて何かの合図を送り、そのあとは前を向いてしまった。以前、黙ったままだ。
宇羽階は前を向いて沈黙したままの施設長が恐ろしくて小さくなり、肩の辺りが小刻みに震えていた。
首のあたりにチクリと痛みが走った。ハッとして宇羽階は首を回し、隣の事務長を見た。事務長は宇羽階の方に顔を向け片手が宇羽階の顎の下に伸びている。宇羽階は彼女が小さな注射器を握っているのは確認できた。宇羽階は咄嗟に思った。『あ、殺される…』そう思った瞬間、意識が飛んだ。真っ暗闇に落ちた。
そして目が覚めたら、ここだ。多分、木造の古い年代物の安アパートの一室に違いない。もう取り壊さないと危険な建造物なんじゃなかろうかと思う。そこに、せんべい蒲団の上に寝かされていた。
「俺は殺されなかったのか」宇羽階は独り言が口から出た。思えば、施設長が顎をクイと上げて前を向いた、あれは逆らった俺を始末しろ、とかいう合図だったのだろう。宇羽階は自分が生きているのが不思議なくらいだった。あの後、誰がここに俺を運んで来たのだろう?
自動車の後部座席で隣に座る事務長に注射を打たれた。意識が遠のく前、俺は毒殺される、と思った。しかし目が覚めた今、俺は生きている。事務長は俺を殺さなかったのだろう。
施設長のあの合図は確かに俺を始末しろ、という事務長に向けた合図だったと思う。だが事務長が注射したのは毒物ではなくて催眠剤のような物だったらしい。俺は、副施設長に拳銃を向けられたときと、二度、事務長に命を救われたんだろうか。
宇羽階は事務長のことを考えた。ここに俺を運んだのは事務長なのだろうか?
宇羽階はまだ少しクラクラする頭を起こし、蒲団に両手を突いて上半身を起こした。何とか身体を起こして座る姿勢になれた。蒲団の上に胡座をかいて、首を回すと片側に窓がある。全面磨りガラスで外の景色は窺えない。
宇羽階がようやっと立ち上がった。足取りがふらついている。足が縺れて転びそうになるのを何とか踏ん張って、素っ裸の格好のまま、窓まで歩いた。畳から膝くらいの高さに木枠が組まれ、そこに木の桟の二つのガラス窓が組み込まれている。
両窓の真ん中の桟に昭和の昔の棒状の捩じ込み錠が差してある。宇羽階は鍵を回して開けようとしたが、窓はびくともしない。窓は開かないように打ち付けてあるようだ。濃い磨りガラスは外を覗けない。
「ここは何処なんだ?」
宇羽階が正攻法で出ることを考えて、粗末な出入口の方を振り向いたとき、ドアの横の小さな窓の磨りガラスに人影が見えた。
木製の粗末なドアがガチャガチャと音を立てて揺れる。やはりドアも施錠されてたらしい。音が止んでドアが開いた。
開いたドアから覗いた人物に驚いて、まだふらついていた宇羽階は足をもつらせて古い畳の上に転んだ。
「あら、駄目じゃないの、まだ寝てなきゃ」
事務長-吉高春美が現れた。吉高春美はパンタロン風の黒色のスラックスに上は濃紺のブラウス、幅広の黒い帽子にサングラスを掛けている。ブラウスの胸には同色のバラの飾りが着いており、襟回りはひらひらしていて同色の幅広のリボン状ネクタイが結んである。オンボロ木造アパートには相応しくない、逆に目立つ格好だ。
宇羽階は、ふだん事務長は年齢の割にはオシャレだと思っていたが、こんなときも逆に派手な格好でいるな、と思って事務長を見上げた。
尻餅を突いた格好の宇羽階は、実は殺し屋だとカミングアウトした事務長には恐怖心を抱いていて、緊張から言葉が出て来ない。
「蒲団に戻ってまだ寝ときなさい」
事務長の言葉には威圧感がある。宇羽階は素直に従い、裸の尻をずらせて蒲団まで戻り、蒲団の上に胡座をかいた。
吉高春美は宇羽階の前に手に持っていたレジ袋二つを置いた。
「あなたは二日間たっぷり眠ったままだったわ。お腹が空いてる筈よ。さあ、食べなさい」
宇羽階は思い付いたように急に空腹感を覚えた。また、自分は二日間も眠りっぱなしだったのか、と驚いた。
空腹感に矢も盾も堪らず、レジ袋をガサゴソと開く。中にはおにぎりとパン類とペットボトルが2本入っていた。宇羽階はサンドイッチをガツガツと食べ始めた。
かなり久しぶりに食べれる食べ物が食道を通り胃に入って行く感覚に、宇羽階は涙が出て来た。ウッウッと嗚咽を漏らしながらサンドイッチを食べてしまい、ペットボトルの飲料をゴクゴクと飲む。
「まだ泣くのは早いわよ」
何か不気味な微笑を浮かべながら、吉高春美は変色した古畳の上に座った。
春美は宇羽階の対面で幅広帽子とサングラスを取った。少々、化粧の濃い中年女性の顔が現れた。唇には真っ赤なルージュが塗ってある。髪はいつものようにミドルヘアを六四で分け、髪先はウェーブを掛けてある。
宇羽階はおにぎりを頬張りながらも、事務長には訊きたいことがいっぱいあった。しかし緊張感からうまく言葉が出て来ない。
宇羽階は緊張しながらも吉高春美の顔を見た。自分にいろいろと訊きたいのだな、と察した春美は宇羽階に優しく言った。
「お腹が空いてたでしょ。ゆっくり食べなさい。時間はたっぷりあるんだし」
「ううう…」
とにかく自分の今の状況や自分の家族のことと訊きたいことが溢れている宇羽階は焦って、言葉ではなく呻き声が出る。
「オホホホ…」と春美は宇羽階の態度に可笑しそうに笑った。
「じゃあ、そうね…。先ず、あなたは本当は死んでいる筈なのよ」
春美の一言におにぎりを頬張る口元の宇羽階の手が止まった。恐怖感に顔が青ざめる。
「あなたも意識を失う前に覚えてるでしょ?施設長の態度を」
宇羽階は口元に齧りかけのおにぎりを止めたまま、固まって動かず、じっと吉高春美の次の言葉を待った。
「施設長の合図であたしはあなたを始末しなきゃならなかったの。だからあたしはあなたの首に注射した」
春美の微笑を不気味に感じながら、宇羽階は黙って聞き続ける。
「本来はあの注射は毒薬よ。でもあたしは逆らった。勿論、施設長は知らない。薬は催眠剤にしたの。施設長が知ったらあたしも施設長の始末対象になるかもね」
緊張した面持ちで聞いていた宇羽階だったが、一言、搾り出すように言葉を発した。
「どうして僕を殺さなかったんですか?」
吉高春美は已然、微笑している。
「あら、そんなことを訊くの?山をくだる道中で話したじゃない。恥ずかしいわね」
春美は目を逸らした。
「あたしはねぇ、あなたを生かしておきたかったのよ。だから施設長に逆らうという大きな危険をおかしたの。無論、このままあなたの生存を施設長に知れないように隠し続けるつもりよ」
「ぼ、僕が生きていることが施設長に知れたらどうなるんですか?」
「そんなの決まってるじゃない。施設長はああ見えて恐ろしい人よ。即刻、あなたもあたしも始末されるわ」
「でも、その役目の人は事務長なのでは?」
春美は、あはは…と声を出して笑った。何だか自嘲ぎみな笑いだ。
「あの施設長くらいになると、そんな役目の人間はいくらでも調達できるわ。施設長の裏の顔では、暗黒街、今ふうの言い方だと闇社会ね、闇社会にも顔が利くわ。多分、あたし以上の腕の殺し屋を用意するでしょう」
春美の言葉に宇羽階はぶるぶると震えた。顔面は蒼白だ。
「でも大丈夫。あたしはあなたを隠し通して見せる」
春美は自信たっぷりな態度だ。宇羽階をあまり刺激するまいという心遣いかも知れない。
「あ、あ、あの、僕の家族はどうなるんでしょう?」
宇羽階は激しく動揺している。妻子を愛するマイホームパパの宇羽階に取って一番気になることだ。
春美は視線を落とし一瞬間黙った。どう話そうか考えてるようだ。そして宇羽階の目を見詰めながら思い切ったように話し始めた。
「あのね、施設長はね、あたしがあなたを完璧に始末したと思っている。死体の処分まで完璧にね。そして対外的にはあなたは行方不明という形になる。死んでる筈のあなたが家族に近付けば、あなたの生存がバレ、あたしもあなたも抹殺される。そして施設長の恐ろしいところは完全な証拠隠滅のためにあなたの家族も全部始末される」
吉高春美が一気に喋ると、それを聞いた宇羽階は固まったように動かなくなった。勿論、顔面蒼白のままだ。視線は春美の方を見ているが網膜に何も映ってないようにただ宙空を見ているようだ。
宇羽階の両目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「すると僕はもう娘にも他の家族にも二度と会えない訳ですか」
力なく宇羽階の口から質問の言葉が漏れ出た。ぶつぶつ独り言でも言うような具合だ。
春美が静かに肯定した。「そうなるわね」
宇羽階は全身の力が抜けたように肩を落とした。せんべい蒲団のシーツの上にポタポタと涙が落ちる。
「でもね宇羽階くん。こうやってまだ命がある訳だし新しい生き方だってできるわ。本当はもうあなたはあの山間の自動車の中で死んでいたのよ。これは幸運だと思わなきゃ。あたしと一緒に新しい人生を生きるのよ」
吉高春美が励ますように力強く言った。宇羽階はガックリと肩を落としうなだれてシーツに目を落としたままだ。頬を伝う涙がシーツに落ちて行く。
この何日かであまりにも大きな事態を経験して心身共に疲労困憊の状態にある宇羽階晃英は、動揺して大きな声を上げる力もなかった。
吉高春美が膝立ちで前に進んで来て、慰めるように宇羽階の両肩を抱いた。
「事務長…」
思えば事務長-吉高春美には命を二度救われている、と心に偲んで宇羽階はボソリと春美を呼んだ。
それに反応して、身体を離した春美が言う。
「宇羽階くん、あのね、あたしはもう“事務長”じゃないの。あたしはあそこはもう辞めて来たの。円満退職よ」
宇羽階は驚いて顔を上げ、春美を見た。
「施設長もね、これまでのあたしの功労からあたしの退職を快く許してくれたわ。今はあたしも何の束縛もない自由の身だわ」
「あの、功労と言いますと…?」
「功労は功労よ。施設の表の仕事の事務や経理以外、あたしもいろいろと施設長の命令で汚れ仕事をして来たからね」
「あの、気になってたんですけど、ほら、あの施設は辞めて行った職員が相当な数いるじゃないですか。都市伝説みたいに中には行方不明のまんまの元職員も何人か存在するって言うけど、あの、その、事務長、いや吉高さんが、その、仕事した職員も中にはいるのでしょうか?」
宇羽階はおそるおそるという感じで春美に訊いた。
春美は少し考えてから話し始めた。
「いるわ。あなたの知らない人。ずっと前の、まだあの施設の創立当初の、一番最初にあの施設の現場の主任になった人。30代半ばの男性職員で自分の考えを持った、はっきりと物を言う男だった」
春美は昔を思い出すように、遠くを見るような目をした。
「施設運営のオーナーサイドは、特に現場の役付き職員は絶対的なイエスマンが欲しかった。でもその主任、福花っていう名前の男だけど、彼は自分の考えにこだわる男だったから上層部に逆らったの」
宇羽階は黙って聞いている。
「施設オーナーサイドに逆らう福花主任を最も嫌ったのは副施設長ね。副施設長はもうその頃から地下施設を造る計画を持ってたから、福花を拉致して地下に閉じ込めて、奴隷労働者として穴を掘らせることを提案してた。副施設長の福花嫌いといったら憎悪してるくらい嫌ってたからね。地下で一日一食粗末な飯で奴隷として重労働させて衰弱死させる案を出していた。副施設長はサディストだからね」
宇羽階の態度は興味津々だ。何となく少し生気が戻って来た様子だ。
「でもね、それは施設長が反対した。もともと施設長は地下に施設を増設するなんて乗り気でなかったし、施設長は福花が嫌いとかいう私情ではなくてビジネスライクに福花の存在が邪魔になったの。当然、副施設長よりも施設長の権力が強いし、副施設長の案は即脚下されて、福花はシンプルに始末してしまおうということになったのよ」
春美は片手を畳に突いて横座りしている。ちょっとくつろいでいる姿勢だ。
「まぁ、ね、そこで施設長からあたしに命令が下った訳。あたしは試してみたい薬物があったんでね。それで始末したわ。簡単だった。とあるルートから、ロシアの国家政治機関に連なる秘密警察から流れて来た、ノビチョクを手に入れることができたんでね」
「ノビチョク…ですか?」
「そう、ノビチョク。あんた知らない?ほら、だいぶ前になるけど、イギリスに逃亡してた元ロシアのスパイの男とその娘に、多分、粛清のためだと疑われる、毒物使用があり暗殺未遂に終わり、なおその毒物騒動に捲き込まれて死亡者や重体者が出た、イギリスの事件。それとそれから二年後くらいかな、ロシアの現政権への反政府活動家が航空機内で毒物により意識不明の重体に陥った、ロシア国内の事件。これらの毒殺や毒殺未遂事件に使われた猛毒剤がノビチョクよ。あたしはね、暗黒街のネットワークからノビチョクを手に入れることができたのよ」
それを黙って聞いていた宇羽階は呆然としているしかなかった。宇羽階晃英のような普通に暮らす一市民が聞くにはあまりにも突飛な話だった。
そういう恐ろしい話を淡々と話した吉高春美は、むしろ自慢気な感じで微笑さえ浮かべ悠々とした態度だ。
何とか宇羽階が言葉を出した。
「あ、あの社会福祉施設の一介の現場主任が、そ、そんな大それた毒薬で暗殺されて、何処かに死体を葬られ、未だに行方不明扱いされてる訳ですか…」
宇羽階の最後の方の言葉は震え声になっている。
「そう。山奥の土中深く埋められてるわ。だって、福花が悪いのよ。施設長に逆らうんだもの。施設長の方針に逆らったのは一度や二度じゃなかったの。おまけに県庁の福祉課に訴える、みたいなことまで言い出すんだもの。そりゃあ始末されるわよ」
宇羽階はまたガタガタ震え出した。
「でも宇羽階くん、あなたは大丈夫。あたしが守ってあげるわ。あなたはこれからあたしと共に生きるのよ」
春美は嬉しそうにニコニコ笑いながら話す。
「そ、そのノビチョクって毒物は事務長はまだ持っているのですか?」
宇羽階は震え声で訊ねる。
「だからもう事務長じゃないんだってば。ノビチョクは貴重なものだから少量しか手に入らなくてね、もうないわ」
「吉高さんが仕事した職員って何人いるんですか?」
「あたしが葬ったのは福花ひとりね。あとは知らないわ。行方不明のままの職員が男女とも何人か出てるから、副施設長が拉致監禁した挙げ句、地下で奴隷労働させられてるのが何人かいるんじゃないの。ろくに食べ物も与えずに過酷な重労働をさせてるらしいから、もう死んでるかもね。施設長が副施設長が造ろうとしてた地下施設の残骸は、証拠隠滅のためにそのまま埋めてしまうらしいから、もし生きてたとしても生き埋めで終わりね。でも、あそこで生活する利用者さんも働く職員たちも、施設の地下に死体が幾つか埋もれたまんまだと考えると、知らないとはいえちょっと気味悪いわよね」
そういうと吉高春美は顔を上げてホホホ…と高笑いした。
宇羽階は、本職が殺し屋の元事務長は、人の死なんてことには何も感じないんだろうな、と思った。同じ職場で働いていた人間の死に蚊に刺されたほどの痛みも感じはしないのだろう。そう思うと宇羽階はまた怖くなって来てぶるぶると震えた。
「まあ、そんなに蒼い顔してないで、これから新しい人生を生きて行くんだから、もっと元気出しなさいよ。今日はセカンドライフの門出みたいなもんよ」
春美の励ましに対して、宇羽階は頭を垂れ肩を落とし、まるで生気がない反応だ。実際、宇羽階は自分でも生きているのか死んでいるのか何も実感がないような気分だった。
「しっかりしなさいっ!」
春美が怒ったように声を上げると身を乗り出して来て、片手を伸ばし宇羽階の股間を掴んで来た。しかし掴めない。
素っ裸の宇羽階はパンツなどの布を何も着けてない上に、本当は自慢の男性シンボルも縮こまってしまって下腹の肉に埋もれているような状態だ。その下の玉袋も股間の骨に張り付いたように縮み上がってしまっている。恐怖心や絶望の感情は、一番、男性の股間部に現れるようだ。
何の突起物もない平面な股間部にぱらぱらと毛が生えていて、掴めなかった春美のグー握りの指の間に数本の陰毛を挟んだ。
春美が手を戻そうと引くと、指の間に挟んだ陰毛がぷちぷちと抜けた。
宇羽階は陰毛が引き抜かれるのが痛かったが、痛みに対する声を上げる生気もない。
「やっぱり駄目ねぇ。山の中と一緒ね。だいたい男って気持ちや感情に左右されるけど、特にあなたはそうね」
「はい、吉高さん。僕は今はもう気持ちは絶望のどん底にあります。とてもとてもそんなことできる状態ではありません。僕も吉高さんの魅力はよく解ってます。でも無理です。せっかく買って来ていただいた食べ物ももう喉を通りません。今の僕は呼吸してるだけで精一杯の状態なんです」
宇羽階の言葉に吉高春美は一瞬、怒った顔をしたが、直ぐに微笑を浮かべた。
「でも大丈夫よ、宇羽階くん」
と言って春美はすっくと立ち上がった。
宇羽階はせんべい蒲団の上で裸のままだらしなくあぐらをかいた姿勢で、春美を見上げて、今から蹴飛ばされるのだろうか、と怯えた。宇羽階の裸の腰が引ける。
「あっはっは…。そんなに怖がらなくてもいいのよ、宇羽階くん。大丈夫なの、あたしには奥の手があるの」
春美は余裕たっぷりな様子で宇羽階を見下ろして笑っている。
「奥の手…?」
宇羽階が呟くように、春美の言葉を繰り返した。
「そう、奥の手。というかあたしの一つの得意ワザだけどね。殺人術に使うこともあるわ」
殺人術と聞いて宇羽階はまた怯えた。さらに蒲団の上の腰が引ける。
「殺人術に使うこともできるけど、とっても楽しい素晴らしいラブアフェアにも使えるの。このあたしのワザを使えばどんなに駄目なサオでも元気百倍のギンギンにできるの。大丈夫よ安心して、宇羽階くん。とろけるような快楽が待ってるわよ」
そう言って笑う吉高春美は自分の衣服に手を掛け始めた。なまめかしく妖艶なムードを醸し出しつつ、不敵に笑う吉高春美が上着のブラウスを脱ぎ棄てた。
呆然とした宇羽階晃英は、怯んで動けず、ただ吉高春美を見上げていた。
(続く)
○ 「じじごろう伝Ⅰ」狼病編 のタイトルの“章”である「狼病編」のテーマである、狼病に関しては物語の中ではもう既に解決済みなのですが、このお話はまだ続いて行きます。 テーマの狼病の件はもう片付いているのですが、物語進行の中で派生した枝葉のエピソードは続いています。「じじごろう伝Ⅰ」狼病編(26)は終わりますが、このお話はまだ続きます。次回「じじごろう伝Ⅰ」狼病編(27)へ続く。
※この物語はフィクションであり、実在する団体·組織や個人とは全く関係がありません。また物語の登場人物に実在するモデルはいません。
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