ケメコ通信ブログ版Ⅲ

みなみ西陣のおっさんのひとりごと

コンジョーなんて、ダイキライ!

2005-10-16 07:29:19 | 健康
1974年10月14日。その日ぼくは礼文島から出てきて働き始めた東京で慣れない都会の車の運転に戸惑いながら埼玉の協力工場へ向かっていました。

ひどい交通渋滞で行く車もやってくる車も停まったままです。
熱かったのか、みんな車の窓を開けていました。
すれ違うすべての車のラジオがみんな同じ番組をかけています。

独特の甲高い声が流れ始めます。
「我が巨人軍は永遠に不滅です!」
長島茂雄が現役を引退した瞬間でした。

野球がほんとうに、みんなのものと実感できた思い出です。
あれから31年。我がハンシンは優勝し、ワンちゃんがなんとか一矢をむくい。
村上ファンドや楽天イーグルスとか話題はつきません。

嫌な事件です。事故ではありません。
少年野球チーム「京都田辺」の中2の13歳の男子生徒が死んだ事件。
警察に事情を聞かれているという総監督の岸昭義氏のその後は報道されていません

少し調べてみました。
少年は当日朝6時半に起きています。7時半からの朝練に駆けつけます。
ひょっとしたら朝ごはんを食べていないかもしれません。

9時からの大会で1試合があります。
彼は出場していませんが当然ベンチに入り練習や応援に参加します。
勝ち抜けて昼食を摂って午後からの第2試合に今度は出場します。

一塁手や投手で出場しましたが残念ながら負けます。
多分3時過ぎに試合が終わり片付けて練習グランドに帰ります。
そして休む暇もなく5時半からペナルティーの練習です。

ダッシュを繰り返す体力練習だけでなく
ストライクを連続数十本を投げて
出来ないと永遠に何回でもやり直すという練習もあったらしい。

ペナルティー練習が3時間経過した8時半頃に彼は倒れます。
でもグランドに寝かされたままで他の練習は続きます。
ようやく事の重大さに気がついた関係者が約1時間後に救急車を呼びます。

そして翌日の夜に息を引き取ります。
岸監督は「練習はいつも通りで、休憩や水分も適切にとっていた。
内容も厳しくなかったと思う」と話している。

確認はできませんがお昼だけがまともな食事時間があったらしい。
早朝から夜遅くまでのハードな練習。
これが「いつも通りのメニュー」で「厳しくなかった」と言う感覚が恐ろしい。

サッカーがいくらがんばっても野球の人気には追いつけません。
でもこんなおっさんが野球を牛耳っているかぎり
イチローや松井のようにMLBに行く若者はますます増えるでしょうね。

今日のケメコ通信ブログ版の写真は「二条城の青空」です。

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