渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

Top 10 Akira Kurosawa Films

2016年11月30日 | 映画・ドラマ・コミック

Top 10 Akira Kurosawa Films


これはいいぜ!(´▽`)

こっちもね ↓

Top 10 Samurai Movies


善と悪

2016年11月29日 | 文学・歴史・文化・科学

あるツイートから。

黒いほうは正直そうで分かりやすいが、袈裟を着ているほうは「ごめんちゃい」
してるので、心にやましい事がある偽善者の悪人であることがよく判るという
世の中の仕組みを示す図。


デザインは思いつき

2016年11月29日 | 文学・歴史・文化・科学


游雲という名の漂う雲と剣。
ベルクロでグレート・タイガー(略してGT)ジャケット
の腕に貼る刺繍ワッペンのデザインをした。


こういうデザインというのは練って生まれるものでは
なく、作詞作曲と同じく、突然フワッと頭の中に浮かん
でくるものだ。俳句程にもひねらない(笑

ちなみに、私の自作曲は歌詞と音階が同時に浮かぶ。
それを譜面に書き落とすのだが、さすがに歌詞の二番は
考える。
プロでもアマでもシンガーソングライターや作曲あるいは
作詞専門家の楽曲作り
は、先に曲があって歌詞を後から付け
るというのが多い
らしい。いわゆる曲を先に作るのが曲先
(きょくせん)というものだが、
歌詞の言葉には独特の符牒
やリズムがあるので、曲が下敷きにあると、そのリズムは
拍子に乗る言葉を探すだけなのでやりやすいからかもしれ
ない。古来からある即興の替え唄などもこれに類するもの
だろう。
先に歌詞があると、日本語の場合には外国語の曲とは異なり、
一音符で一音発声なので、五七調などを守った歌詞を作らない
と、あとからの曲付けが困難を伴う。
さらに、標準語であるならば音階と歌詞は厳密に合致して
いないと曲に違和感が生まれる。「雨」と「飴」は音階の
並びが異なるのだし、「箸」と「橋」は事なるが、「橋」と
「端」は同じ音階音律である。
逆に歌詞が関西弁の表現であるならば、音階もそのイントネー
ションに符合する音階で曲を作らないと、これまた異和感
ある曲になってしまうだろう。
こうしたことには厳格になったほうが広く親しまれる曲の
作りこみとしてはよいだろう。
ただし、ラップを日本語の歌詞(即興が多い)で作っても、
やはり、ラッパーたちは韻を踏みながら隠し言葉を置くという
日本古来の和歌の技法を導入している。
つまり、歌詞付きの楽曲作りは、日本語に関する鋭敏な慣性を
持っていないと成し得ない。
(日本初のラッパーは吉幾三のような気もするが・・・)

プロのシンガーソングライターの曲には意外な共通項がある。
それは、
一番の歌詞はインパクト主体が多いが、曲の中では
二番の
歌詞が良い詩となっていることがよく見られるという
ことだ。
あれは一体何であるのか?
大抵は曲に付ける歌詞という詩は、起承転結があって二番の
歌詞で本題にスッと触れるから、二番の歌詞が心に迫る
歌詞を
構成する曲が多いのかもしれない。

元々日本人は和歌をうたい詠む人々であり、自分でも歌を
作り詠んだりする。
そういう創作性は、創意工夫という物理的な事象としてのみ
ならず、脳内の働きとしても、日本人独特の性質を特徴づける
もののようだ。
きっと、外国人とは異なる日本人固有の特異な右脳の働きに
よるものと云われている。
外国人は、虫の声を聴いても、ただのノイズにしか聴こえない
らしい。秋の虫の音も「うるさい」としか思わないのだろう。
感受性そのものが日本人と外国人(日本以外のアジアも含む)
では、まったく別物のようだ。


刀剣ミステリー小説

2016年11月25日 | 文学・歴史・文化・科学


雪国の温泉に浸かってから、これを読む。

雪は、無い(笑

人狼

2016年11月18日 | 映画・ドラマ・コミック



元中核派のケルンパーにしては良い作品を描いていると思う。


英国のベレー

2016年11月18日 | 文学・歴史・文化・科学



英軍の Crap Hat’, Berets & Peak Caps というサイトページを
読んでみたが、ミリタリーベレーの歴史や各国のベレーとの関係
等について概要が記載されており、大変勉強に
なった。
文章も平易で、中学生くらいの読解力があれば読める。


大雑把に分けると、英軍のベレー種分けはこのようになるようだ。
(分かりやすく線を一部引き直した)


単純に「グリーンベレー」といっても、各部隊ですべて色が異なる
ことが判るだろう。
ここには深緑の「ライフルグリーン」が載せられていないことから
も、この図はほんのごく一部であるということも読み取れる。
ライフルグリーンは英軍やローデシアや米軍が採用していたグリーン
で、それの少し明るい色を日本の陸上自衛隊が採用している。
またこの図には黒色のベレーも載っていない。General Service と
あるベレーは濃紺のベレーである。
また、SASなどのサンドカラーも載っていない。

ベレーの色分けで世界的に傾向性がみられることとして、同色系で
同じ傾向の部隊色を示すということがある。
例えば、マルーンベレーはほぼどの国でも空挺部隊がかぶることが
多い。黒といえば戦車部隊が黒ベレーだ。また、グリーンは陸軍部隊
が多い。
ちなみに、日本の自衛隊工科学校では、マルーンベレーとブラック
ベレーを制帽として採用している。通常の軍ならば空挺と戦車兵と
いうところだが、高校に相当する生徒がそうしたベレーを日本では
かぶっている。

こちらは英軍独立131コマンドゥでのベレー授与式。
過酷な訓練をクリアした者だけが英軍ではコマンドゥになれる。








英軍コマンドゥのみで編成された部隊に王室海兵隊があるが、
英国陸軍にもエリート部隊としてコマンドゥ部隊がある。
指揮系統は異なるが編成は同系という複雑な構造(さらに所有
系統は各貴族に属するという複雑怪奇な仕組み)となっており、
ベレー授与式等は海兵隊コマンドゥと陸軍コマンドゥが一緒に
行なわれたりしているようだ。

英軍コマンドゥのベレーの色は、全世界で英軍コマンドゥしか
採用していない独特のエメラルドがかったグリーン色である。
英軍コマンドゥの中でも海兵隊の中にあるSBS(旧スペシャル・
ボート・スコードロン、現スペシャル・ボート・サービス)は、
エリートの中のエリートとされ、兵士の練度と身体能力は世界
最高峰といわれている。
ただの机上の勉強だけができて難関大学に入って官庁の官僚に
なることだけがエリートだと勘違いしている日本人には理解が
し難いことだろう。体力も知力も、全方位的に人間のあらゆる
能力が突き抜けて秀でているのがコマンドゥの隊員なのだ。
世界トップのオリンピック選手の「人間種目」の選抜選手ような
者たちだけがコマンドゥになれる。
日本の自衛隊でも幹部級以上は理知的な者も多いが、脳味噌の
働きも含めて、すべての能力が優秀でないと隊員になれないのが
英軍コマンドゥでもある。戦闘能力だけが高くても駄目なのだ。



だが、オバカピーなこともやったりする。
どうだ。日本の官僚エリートにこれができるか。


『飛葉』望月三起也作

2016年11月17日 | 文学・歴史・文化・科学



名作『ワイルド7』の続編として『飛葉』という作品がある。
記憶を無くしたワイルド7リーダーの飛葉大陸(だいろく)が
中米で活躍するストーリーなのだが、作者の故望月三起也先生
はさらりとニクい演出を見せている。

ある作戦のために、ヒバの昔の仕事仲間が傭兵を募集する。
作戦を立案した31歳になった飛葉もその傭兵部隊に加わるのだが、
指揮官で
ある者が、傭兵募集テストを終えてから、身づくろいを
兵士の
いでたちに改めて出てくるシーンがある。
そこでかぶるベレーは、アフリカ戦線での傭兵たちを主人公に
した望月先生の作品『夜明けのマッキー』の傭兵外人部隊「牙」
のベレー徽章であるのだ。
サラッと描いているが、なかなか心憎いスターシステムのような
表現のコマとなっている。さすがワイルド7、いや、望月先生!
「ぐずぐず すなっ」とはこの登場人物、広島出身なのだろうか(笑)。



刀鍛冶という名のバイクチューナー

2016年11月16日 | バイク・車



古い記事だが、刀鍛冶という名のバイクチューナーがヤマハSDRを
ベースにカスタム車を作っていた。
めっちゃ走りそう。この車。


これこれ!これなんだよ、このセンス!
走る車はこうありたい、というようなレーシーなスタイル。
それでいて、ギンギンのレーシング風味ではない、シティライドの香り
をも
エッセンスとして入れてある。
こういう車作りがかっこいいと私は思う。

たとえば、4スト単気筒であるならば、こういうまとめ方のような。


バイクカスタム刀鍛冶さん ⇒ こちら


映画名シーン 『椿三十郎』

2016年11月14日 | 映画・ドラマ・コミック







どれほどの仕込みで血が噴き出すか、事前に俳優には一切
伝えられていなかったため、本当に周囲がパニック状態に
なったというこのシーン。
加山雄三さんなどは「本当に仲代さんが斬られたと思った」
と言うし、斬られ役の仲代達矢氏も、どんだけ血がでるのか
とびっくりしたという。
当日は冷え込んでいて、人工血液が凝固してしまうので、
本番前に温めたら、仕掛けポンプから勢いよく噴出したと
いうのが真相のようだが、それにしても凄すぎる(笑)。

ハリウッド映画『ボディガード』の主人公は、『用心棒』を
何度も観たという設定だったが、外国人向けには、リメイク
されて『荒野の用心棒』となったりした黒澤『用心棒』の
ほうが『椿三十郎』より馴染み易いのかもしれない。
私としては両作を比較すると、断然『椿三十郎』のほうが
面白く感じる。
多分、外国人には、「お家騒動」とか「藩内での論の対立
による政争」いうことがよく理解できないのではなかろう
か。

リメイクといえば、この『椿三十郎』も2007年に織田裕二
主演でリメイクされたが、なんともトホホ過ぎる出来だった。
肝心の最後の三十郎と室戸半兵衛の対決のシーンは、一瞬で
勝負が決するというクロサワシナリオを改変しており、すべ
てを台無しにしていた。
私の読みでは、これは、実は役者があの殺陣をできなかった
からでは、と踏んでいる。
それまで、台詞やシーンはすべてクロサワ脚本に基づいて
撮影されていたからだ。ラストだけがトンデモ大改変に
なっている。
あんな間延びした何手もやりあう決闘では『椿三十郎』が
無茶苦茶なことになってしまう。

また、鈴木杏は良作『ジュブナイル』や『リターナー』では
かなり巧い少女役を演じ切っていたが、このリメイク『椿
三十郎』では1万%アウトの演技となっている。
お姫様やお嬢様役をやる場合のセリフ回しとしては、「ゆっ
くりとしゃべる」ということが鉄則としてあるのだが、鈴木
杏はそこら辺の意味が分かっておらず、多分監督から無機的
に指示されたのであろう、「ただゆっくりしゃべる棒読み」
を実行しているのだ。15歳の頃のあの味のある演技力が全く
発揮されていない。
こういうのは、役者の力量というよりも監督の腕一つだろう。
簡単にOKテイクを出してしまったのではなかろうか。
とにかく「これがあの鈴木杏?」というほどにひどいお姫様
役なのだ。

もしかすると、そういう役柄が鈴木杏はこなせないのかも
しれない。
似たような女優に石原さとみがいる。
下町ねーちゃんのような配役では力量を発揮するが、清楚で
上品な深窓の令嬢のような役、控えめに耐え忍ぶ薄倖の女性、
というような役どころはまったくこなせない。大河での静役
などはひどいものだった。
途中で指導されたのか、やはり台詞をゆっくりとしゃべる
ようにスイッチしたのが明らかに見て取れたが、やはり鈴木
杏が後年犯した失敗と同じく、「棒読み」になってしまって
いる。
令嬢がゆっくりしゃべるのは、日常の中で自己に定着して
いるので違和感はない。
例えば、皇室皇族が物を話す時の超ゆっくりした話し方と
違和感のなさを想起してほしい。

原本『椿三十郎』では、家老の奥方とその娘の姫が馬小屋で
のんびりと話すシーンがある。
その浮世離れした上品さに主人公三十郎は「あー。まどろっこ
しい。やってらんねーよ」というような無言の態度を見せる
のだが、そのときの女性二人のセリフ回しと三船敏郎の無言
の演技が絶品なのだ。
『椿三十郎』は原本とリメイク版では役者の演技や監督の手法
に雲泥の差がある。

というか・・・北野たけしさんやダウンタウンの松本さんが
よく言ってるが、「よくクロサワ映画をリメイクしようという
気になるな」と。
いや、私もそう思う。
無謀というか・・・結果はかく如し、というようなことになる。
クロサワ映画のリメイクを作るというのであれば、当然、監督
は、黒澤明を全領域において超えなければならない。
はたして、そういう人が日本にいると思っているのだろうか。
自分の持ち味で勝負したほうがいいと思えるのだが。


日本刀研磨師および刃物研ぎ師の江戸期の呼称

2016年11月07日 | 文学・歴史・文化・科学



『守貞漫稿』(喜田川守貞/天保8年-1837年-から執筆)の生業
(巻之五~六)
という江戸末期の種々の商業の解説書に、日本刀
研磨および一般研ぎ屋に
ついて上掲のような記載がある。

磨師
挿刀包丁小刀等ヲ磨ス 又 鋸ノ歯ヲモ磨ス

蓋(けだし)刀剣ハ磨スル事ヲ得ズ 別ニ刀磨工アリ
俗ニ比徒ヲ トギヤトモ
トギ師ハ自刀剣研磨(合体字)ノ事トス」

現在、「研ぎ師」「研ぎ屋」とはいうが、江戸期には江戸・
大坂・京の三都では、一般刃物研ぎ職は「磨師」と呼ばれて
いたようだ。
一方、一般の刃物の研ぎ職を俗に「研ぎ屋」とも呼ぶが、
「研ぎ師」というのは自らを「刀剣研磨」専門職限定で
呼んでいるというのだという。

このことからも、現在と同じく、一般刃物研ぎと日本刀研磨
では職方の棲み分けがあったことが判明する。
また呼称においても、「研ぎ師」は「刀剣研磨」を専らとする
職であることが判る。「研ぎ屋」とは一般刃物「磨師」の俗称
であったことも判明する。

こうした江戸時代の事実の把握はとても大切で、時代劇や時代
小説の歴史考証のみならず、日本刀愛好者としても、江戸期の
天保頃には今でいう日本刀研磨師が一般研ぎとは別個に確立し
ていたことを知ることができる。

なお、当該ページには、行商鍋釜修理人である「鋳かけ屋」も
「磨師」も「下駄歯入れ」も形相が似ているので、磨師の図は
省略するとの旨の記載がある。

<鋳カケ>


この『守貞漫稿』に出てくる商業人たちの業種のほとんどは
いわゆる被差別賎民階級によって担われていた生業である。
古くは刀剣鍛冶職=刀鍛冶も賎民階級であったのだが、いつの
頃からか
歌舞伎役者のように脱賎したようだ。
歌舞伎役者は芸能興業であるので、エタ系ではなく非人系の
賎民(所属はエタ頭浅草弾左衛門支配下)だったが、脱賎を
訴える裁判により、賎民階級からいわゆる平民階級に転化した。
それを祝って上演された演目が『助六』であり、十八番目の
演目として箱に入れられ保管された。それゆえ十八番を「御箱
(おはこ)」と呼ぶ。
その舞台では、台詞に「シニン(江戸訛りで非人のこと)と
呼ばれて差別され」という部分があったが、現在は諸般の事情
から、公開の場では社会的通念上使用を忌避するべき言語として
「非人」という単語があるため、その文言は上演の際にはカット
されている。差別を支える行政構造は改革できても、人々の心の
中に部落差別意識がある限り、絶対に差別は無くならない。

中世から江戸期の職人等の仕事びとたちを見ると、実に多くの
商業活動・工業活動に従事して国内産業を支えて来た人たちが
ほぼいわゆる「賎民階級」に属していたことが理解できる。
日本の産業を支えてきたのは百姓の中の一職種である農民では
ない。身分的には賎民階級に属する人たちによって確かに支え
られてきた歴史がある。
なぜ、こうしたことに光を当てて、ちゃんと正しい歴史教育を
しないのだろうかと思う。
また、いわゆる被差別部落民が貧困にあえぐようになるのは
明治の国策改変以降であり、江戸期には産業の独占と各種興業
権、版元としての出版権、都市部での生活用品一切のリサイクル
取り扱い権の独占等で、身分的には「賎民階級」とされながらも、
経済的状況はかなり裕福だった。
そうした独占権益を一気に完全消滅させたのが明治維新だった
のであり、明治以降は江戸期からの賎民階級に属した層は軒並み
超絶貧困にあえぐこととなり、更には江戸期に任務として業務を
こなしてきたそれまでの下級警察官吏(辻番所の番、岡っ引き、
下っ引き、横目等の監視役、忍び、捕縛吏、罪刑執行人、木戸
門番等、現代に例えると現場警察官・特別捜査官・刑務官等の
仕事はすべて賎民階級の役務だった)としての仕事への恨みを

買い、とてつもない物理的差別を受けることになったのが明治
以降の歴史だ。
こうしたことも、日本の学校の歴史教科書では一切教えない。
アメリカに渡った咸臨丸を操船した水夫は「カコ」という名称の
賎民階級であったことなども学校の教科書には一切出てこない。
また、江戸文化が花開いた際の出版物の版元や職人元締めたち
の活躍は、彼ら賎民階級の活躍だったということも教科書には
出てこない。
教えないどころかどんどん隠ぺいしようとしている。
今では「八百屋」や「魚屋」という言葉は「差別にあたる」と
して放送禁止用語になっている。
八百屋のことは「青果店」、魚屋のことは「鮮魚店」、酒屋を
酒屋とも呼んではならず、「酒店」と呼ぶことにされている。
こんな言葉狩りをしていては、いつまで経っても差別は無くな
りっこない。

差別は、口先だけで「差別反対」を唱えるだけでも無くならないし、
また、かつて行なわれていた行政的な物理的制度による部落差別
的状況を打開しただけでも無くならない。
ましてや、何もかも隠ぺいして、「無かった事」であるかのよう
「寝た子を起こすな」的に振舞うことが部落差別廃絶になるとも
到底私には思えない。

戦後の昭和23(1948)年。ようやく日本における旧武士階級や
旧貴族の公式表示が消滅した。また、同時に平民階級表示も消滅
した。戦時中までは公式文書に自分の階級身分を氏名の前に書く
ことが為されていたのであるから、今からするととんでもない
差別的で階級構造是認の世の中だった。
だが、日本人は、日本人自らの手で、明治以降も残存していた
そうした厳然とした物理的な公的身分を消滅させることはでき
なかった。
すべて敗戦による民主化によってもたらされたものなのである。
それ一つとっても、私は戦前戦時中よりも戦後社会のほうが
ずっと遥かに素晴らしい世の中だと思う。

ただ、そうした外のガワが無くなったとしても、戦後も部落差別
は続き、今でも温存されている。
温存されているどころか、ネット界などでは、部落差別や外国人
差別排外や障がい者差別を積極的に行なうことが日本人の義務
国是であるかのようにふるまっているいわゆるネトウヨが大手を
振ってばっこしている。

インターネットが普及して私には見えたことが一つある。
それは、「この国の国民というのは、かなりの程度で馬鹿だった
のね」ということだ。
あるいは、人が苦しむのをよろこぶマゾみたいなのばかりが大挙
してインターネット上には登場している。
この国は、やはり助からないのでは。


加賀の国の刀工に遠祖を備前鍛冶とする清光という刀工がいた。
刀剣需要が一挙的に激減した社会情勢下と大飢饉が重なり、食う
に食えない状況となった。やむなく清光は加賀藩主の施行した
救済所であるお救い小屋(今でいう屋外テント村避難所)に住す
ることにした。一切の免税措置および生活救済福祉エリアの避難
所である。清光の家系はその後ずっとここで起居した。
そこはきっと、『あしたのジョー』の矢吹丈がやってきた下町
のドヤ街のような息吹の所だったことだろう。
清光はやがて「非人清光」と呼ばれた。
現行「非人」という単語を忌避して「乞食清光」などと置換して
呼ぶ者がいるが、誤りだ。清光が乞食稼業をしたという記録は
ない。清光は身分的に非人となり、職業的には刀鍛冶であり、
乞食という職業ではなかった。
「乞食」という業は誰でもやっていいものではなく、賎民階級の
独占物であり、さらにそれを取り仕切って差配したのがエタ頭
だった。許可なくば乞食など誰でもできなかったのである。
(明治以降に軽犯罪法で「乞食」の行為は禁じられた)
エタとは血脈主義的に先祖も末孫もずっとエタという賎民階級に
属する層で、非人とは一般平民も納税できなかったり犯罪で捕縛
されたりした場合には非人階級に落とされた。これは元武士階級
であっても、行状により非人にされたりした。非人が平民に戻る
ことはあっても、エタのみは固定血脈として脱賎は認められなか
った。

さて、刀工清光は免税措置と食糧等の給付によってお救い小屋で
身分的には非人となった。
だが、ここで注目すべきは、清光の打つ刀は多くの武士に愛用さ
れたということだ。
このことは、江戸における刀剣試しには絶対にエタ・非人たちの
協力なくしては実現しなかったという事実等と併せて、着目に値
する。
また、エタ・非人階級は出産や祝い事や葬儀などにも深く関わり、
実際の業務などに携わって来た。
医療分野においてもそうであった。
医療だけでなく社会福祉分野では、古代から近世まで、いわゆる
賎民階級の働きなしには成立しなかった。古代の四箇院である
悲田院に敬田院・施薬院・療病院のうち療病院の名は現代において
も「病院」という名称で使われている。
江戸期においても、身分統制上は徹底的に(特に農民たちから)
差別的扱いを受けた賎民階級(だが、下級官吏として捜査や捕縛、
刑罰の執行などに携わった)だったが、賎民階級の中でも工業的
生産物に関しては、多くの人々がそれを是として享受していた事実
が見られる。
蓑や笠や傘や竹細工の日用品がそうであり、履物がそうであり、
そして、加賀清光にみられる刀剣や刃物研ぎがそうであった。
物品は上出来物が多いので大いに賞玩しつつ、身分的には差別を
行なうという実に歪んだ構造の中に近世の日本人は生きていた。
更に明治以降は、そうした(明治以降でいうところの)被差別部落
産業の独占が一気にはく奪消滅させられたので、残ったのは人々の
差別心だけだった。
江戸期よりも差別的行動が極限化した理由は、そうした物理的恩恵
を賎民階級から受けることが無くなった以上、徹底的に差別して踏み
つけるという人々のあさましい心根だけが残ったのだろう。
そして、行政や明治教育等がそれをさらに助長し、明治新政府なる
文明を標榜する政府が掲げる「四民平等」などというものが、実は
大嘘の大ペテンであったことが白日のもとにさらされたのであった。
それまでの旧幕時代に国内産業を支えて来たのに、明治の「御一新」
で一気に権利をはく奪された旧賎民階級に属した人々が自らの真の
解放を求める残る手は、団結しかなかったのである。

清光の刀はとても品が良い。
非人という身分になった刀工清光が作る刀は清らかだった。
これは「はて、非人という身分階級は果たして『穢れ』ていると
いえるのか?」という最重要の視点を私たちに問いかけているよう
にも私には思える。

しかし、現代人の多くは、肉を食い、革靴をはき、多くの革製品を
愛用し、染物を着ていたりするのに、被差別部落民を差別する。
益を享受していながら、それをもたらしてくれた人たちを差別する。
さて、「良民」ぶりながらそうした心根を心底に持つことこそが、
あさましく、いやしく、穢れているのではなかろうか。
私はそう思う。


子子子子子子(ねこのこ こねこ)

2016年11月07日 | 文学・歴史・文化・科学



身長188センチ、学者にして歌人、眉目秀麗にて弓馬の術に秀で、
「汝は武士にでもなるつもりか」と嵯峨天皇に嘆かれ、内裏に何者
かによって立てられた高札に書かれた「無悪善」の文字を「さが
(嵯峨天皇)なくばよからむ」と読んで天皇の怒りを買い、遣唐使の
副使に任命されるも、正使藤原某に「ざけんじゃねーよ」と反抗して
隠岐に流
された。後に中央に戻り参議。その徹底した反骨精神から
「野狂」
と称された。洛中の珍皇寺の井戸から魔界に自由に出入りし、
閻魔
大王と親交ありとされる。

まあ、後世の作り事が多いのだろうが、火のないところに煙は立たず。
多分、存命当時から制御不能のやりたい放題、言いたい放題、舌禍
全開の、当時としては「怪物」みたいな、人は食うが本人は食えない
おっちゃんだったのだろう。


このおっちゃんが佩いている剣は、時代からして直刀であることは
間違いないのだが、一体どのような剣を履いていたのかが、小野が
末葉の一人としてはとても気になる。
私とおない歳の冬木亮子が書いたファンタジーでは七星剣とされて
いるが、んな馬鹿な(笑

しかし、この木造は鎌倉頃だろうか?
漆塗りたくりの為か傷みが妙に少ない。
だけど、面構えが悪いね~、この木造のおっちゃんは。腹に含むとこ
ありの柳生但馬みたいな面をしている。顔の相がよくないよ(苦笑)。


さらに先祖の和邇(わに。王仁とも)が王仁であるならば、オニとも
読み取れる。平安時代の『新撰姓氏録』によると皇系ともされるが、
それは創り事で、血脈が春日・和仁族であるならば、たぶん西暦
1世紀頃に太陽信仰を伴って鍛冶製鉄技術と共に日本海側に渡来
した一族だったことだろう。
その後数百年にわたり畿内にいたが、大和王権成立後は特に大陸
半島との外交役が異様に多かったのも何か根拠があったのだろう。
血脈のDNAは扶余族であったと私は踏んでいる。

でも妹子六代孫のタカムラはこんな小泉純一郎みたいなとぼけた顔
ではなかった
とは思うよ(笑)。知らんけど。


まあ、人を食うのは先祖伝来という気もしないでもない。

そういえば、一族の海老名氏系の先祖筋の一人には「二王」という名
の者がいた。刀の二王とはまったく関係がないだろうが、たまたまの
偶然としても興味を引く。まだ解明されていないが、周防の刀工二王
は発祥は大和かも知れないが、明らかに「三原」刀工群に影響を与え
ているだろう作風だからだ。備前鵜飼、雲派から備中を経て備後を抜け
周防に至る一連の「瀬戸内ベルト地帯」における作風の近似について
の根拠の解明は、今後の刀剣界での研究が俟たれる。
私の問題意識としては、日本における刀剣の分類は、後世に学習の
便宜上「五ヶ伝」に地域を縦割りにされたが(五ヶ伝というのは作刀
当時には概念上も存在せず、後世にまとめて理解する概念として
創られたものである)、包括的な刀工群把握としては、一度その五ヶ伝
の縦割りの概念を除去して、横同士の繋がりに解析の軸点を置いて
研究していかないと、刀工群間の関連性がなんら見えてこないと思う、
というものがある。
現在、その横つながりの説明としては、あたかも名家血脈における
「貴種降誕伝説」の類が日本刀の刀工群にも援用されており、これは
かなり科学的な確証を欠落させたものとなっている。
けだし、考古学的な科学的検証および文献史学のみならず、民俗学
も考慮せずば歴史解明は偏頗の感を払拭できないことは確かである
のだが、「貴種降誕奇譚」のようなものに依拠するその心根の大方が
「地元自慢」「己自慢」に依拠していることが多大であるので、そう
した人為的な邪な悪意とも取れる作意は、一切考慮せずに研究判断
材料からは捨象していくべきだろう。

そして、なぜかしら、真言宗の猛威とともに、中国地区には小野篁
の誕生地としての奇譚がある。
ただ、小野篁の生地が現広島県竹原であるとする仏閣があるのは、
なんとも創り事にも度が過ぎるようにも思える。

<広島県竹原市竹林寺/重要文化財>






仏閣というだけに、物凄い創り事をぶっかく事をしているように思える。 ⇒ 竹林寺観光案内

まあ、なんというか、各地にある河童伝説と同じ類という程度に考えて
いた
ほうがいいだろう。客寄せパンダになったタカムラ哀れ(笑)。
と、吉備の本間は思ったりする。


サイボーグ009

2016年11月06日 | 映画・ドラマ・コミック



スカパーで79年版サイボーグ009をやっている。



原作漫画も68年も反戦が完全にテーマだった。
だが、79年版は「戦い忘れた人のため」に戦うというようなことに
なってしまい、さらに平成版では「テロリスト」が敵となり、完全に
アメリカ合衆帝国のポチ化してしまった。

時代なりとはいえ、随分と様変わりしてしまったものだ。



原作では人種問題なども扱い、また、「異端」として排斥される者たちの
悲哀と独立をも描いていた。
人のために、サイボーグたちは平和を求めて闘った。
だが、やがて、「戦い忘れた人のため」に戦うということになり、
やがては「正義のために」戦うということにされた。
だいたい79年版では、009島村ジョーは金髪になってしまっている。
彼は日本人で黒髪だった。
この金髪バージョンから、作品がアメリカポチ化してきたことが象徴的に
見て取れる。
そして作品は、ルパン三世のようなただの娯楽アクションになって
しまっている。中身は陳腐だ。
1960年代の『遊星仮面』、『スーパージェッター』、『鉄腕アトム』
等で流れていたテーマはもはやない。
それらの系譜の中に、明らかに「社会とは同化できない外(と)の者」と
しての悲哀と願いというテーマを織り込んで描かれたのが『サイボーグ009』
であり、その後の作者の不朽の名作漫画『仮面ライダー』に繋がるのだ。
更に009やライダーのテーマを一歩押し進めて、完全に人間とは切り
離した機械という設定で、アトムのテーマに還るように『人造人間キカイダー』
が同作者によって描かれた。
『デビルマン』が実は人間の愚かさを知らせるテーマであったように、
『サイボーグ009』も人間の「不完全さ」と「原罪」を捉え直すことが
中心の骨としてあった。
だが、79版以降は、一切それらが無い。
しかも79年版は話が極めて幼稚だ。幼稚過ぎる。
そして、やがてその無機質な人間不在のアニメの作風は、エヴァンゲリオン
で完結を得る。
一切の人間自身の自省なき作品は、現在も続くが、唯一、そうした時代の
中にあっては、『人狼』が気を吐いたのが救いか。

フランソワーズは限りなく好きである(笑


しかし、やっぱし、この心が大切だよな。
赤塚魂よ、永遠に!
何度叩きのめされても立ち上がるニャロメ魂に未来あれ!(草



閂差し ~帯刀法~

2016年11月06日 | 文学・歴史・文化・科学


武家帯刀法の一、閂(かんぬき)差し。刀は床と真っ平ら。

閂とはこれ。(二条城)

武家帯刀法の一、鶺鴒(せきれい)。




セキレイが着地したときの尾の角度に差すから鶺鴒と呼ばれた。


武家帯刀法の一、落とし差し。




時代劇に見るこれも落とし差しではあるが、カブキ者のそれであり、
武家礼法に反駁する者が好んで表現したものであるので、これを
武家礼法とする誤認が無きように注意されたし。




ネットからいろいろ情報を探しまくって急場しのぎでデッチ上げして
捏造している贋物流派以外の古流派には正しく教えが伝わっている。


カワサキの伝説2スト・トリプル

2016年11月05日 | バイク・車



ガソリンを入れに行ったら、従業員さんが凄いのに乗っていた。
許可を貰って撮影した。
私も高校の時に愛したカワサキの伝説の2スト3気筒のマシンだ。
サイドカバーはKH250とあるが、タンクはSS250カラーで、吸排気
系もかなりチューニングされている。そして、ピカピカ。痺れた。



とても綺麗にレストアしている。しかも品があるカスタムで好感が持てる。
3気筒のクロスチャンバー。排気系だけでなく吸気側も手が加えられている
ことだろう。


スペシャルパーツが装着されている。


ハンドルはスワローだ。なんだかとても懐かしい。


伝説のマッハという名は1976年発売のこの後継モデルKHから
冠されなくなったが、カワサキKHシリーズはマッハSSの血を受け
継ぐ名車である。とにかくカッコいい。


良い状態の車というものは、乗り手が良い乗り手であることを示す。
これはとてもよい車だ。
外見を磨き上げているだけでなく、細かいところの整備も完璧だ。
あの独特のカワサキサウンドを聴かせてもらいたかったが、オーナー
は仕事中だったので遠慮した。
ノーマルマフラーだとカリカリカリという音がするんだよね。
トリプルチャンバーの場合、たぶんマルチ独特のレーシングサウンド
であることだろう。

よい状態の車を見ると、なんだか気持ちがいい。
ピストンとかピストンリングももう手に入らないのに、どうやって状態
を維持しているのだろう。


ライディング

2016年11月04日 | バイク・車



游雲会のライダーが昨日久々にかっとんで来たみたいだ。
GO!GO!
レッドゾーンダンシング!
フルパワーは18,000回転だ!(サーキットでね)

友人のは、こちらのヤマハの次のモデルですね。快調みたい。

Testing
Kawasaki ZXR250,
Yamaha FZR250R,
Honda CBR250RR,
Suzuki GSXR250R

しかし、四輪もそうだったが、公道で明らかに速度違反で
市販車テストして専門誌がレポートするという、今では
考えられない時代が1980年代だったのよね(^^;
それでも、これでもかなり安全マージンは取ってゆっくりと
走っている。(でも違反です)

結局俺は選ぶのはやっぱり2スト・クォーターになりそうな
感じなのだが、4スト・マルチ・クォーター=4スト250cc
ならばこれだ。ZXR250の89年式。でも2スト乗るけど(^^;
kawasaki ZXR250・ZXR400


2スト・クォーターの面白さの一つに、「オモチャのように
乗ることができる」というのがある。
軽いから自由自在だ。
そして、すべての領域でマシンと対話しながら走れる。
4ストはよく分からない部分がある。
あくまでも、私の場合。

まあ、ある程度の高回転高速域に入ると2ストも4ストも似て
来るのだけど。

選ぶのはヤマハXSR700に乗るまでは、結局のところ、
こっち系の2スト250ccになる予定(笑)。

(東名高速にて)