渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

FIAT

2013年07月30日 | バイク・車

Old Miniは私も10数年ほど乗っていた。
販社がローバーリリースのキャブ仕様のモデル'89だった。
なかなか味のある良い車だった。
可愛かったしね。
よく「ミニは壊れる」という話を聞くが、並行輸入の質の良くない物か、
もしくはいじりすぎなんじゃない?
私のはド・ノーマルだったけど、まったくノントラブルだったよ。
ただ、だんだん前にコンニチハしてくるので、府中の加藤さんとこ(GP10)で
車高をアジャスティングしてもらった。
車検の時などは、頼んでいないのに「キャブ綺麗にしといたよ」ということで、
乗り出したら吸気の音が全然違ってた。シュコーッなんてソレックスツイン
積んでるみたいだったよ(笑
居合の先輩(陸自航空管制官)乗せて走ったら「うお!こんな音聴くと、
たまらんなぁ。我慢できない」ということで、ミニではなかったがワーゲンの
キャブ仕様を先輩は翌週に即行で買いに行ってた(笑




筑波のレースで常勝の府中GP10はチューニングコンストラクタなので
中古車は一般的には販売しないが、珍しく店から車が

売りに出されるとすぐに売れてしまう。中身の状態が最高だからだ。

個人的にはイゴシニスの設計が好きだったのでミニは大好きだったが、
2000年からモデルチェンジしたミニに乗ってみて
愕然とした。
「これ、ミニじゃない・・・」
昔のミニは1959年の設計から40年間殆ど変更がなかった。
看護婦さんの通勤用に設計されたこの車は、とても良くできた車だったと
思う。
1960年代の一時はラリーで常勝し、ミニを排除するためにレギュレーション
が変更されたくらいで、ミニは「羊の皮を被った狼」などと呼ばれた。
でも、速さだけで言うと「羊の皮を被った羊でしょ」という感じはした。
バイク乗りからすると、加速も最高速も圧倒的に遅いからだ。
ズバッとゼロヨンを10秒程で走り抜け、スパンと軽く200km/h出るような
二輪や四輪車でないと「狼」ではないでしょう(^^;
狼というのはこのような車たちのことを言うのだと思う。
World's Greatest Drag Race 2!


それでも、運転していてミニはカートのようで実に面白い車だった。
加速、最高速においてはとても低いレベルなのに、それでも面白く
感じさせる独特の「味」があった。サスをオーリンズに替えている人も
いたけど、私はノーマルのコーン(ミニにはサスが存在しない)のピコピコ
感が笑えるほど楽しかった。
私は思う。今のミニはミニではない。普通のつまらない乗用車だ。
2000年以降の新型ミニは、金額も「はぁ?」という感じだ。
看護婦さんがそうそう簡単に買える金額設定ではなくなっている。
その一点を取ってみても、ミニはもはやミニではない。
高級嗜好のミニって、なんだそれ?(苦笑
イギリスに日本のような軽自動車設定はないが、元々は日本の軽自動車
の発想を先取りしていたのがミニなんだから。大衆の下駄かわりの足として
の存在を否定するのであれば、それはもはやミニではない。

今、俺が乗るとしたらフィアットだな。かわいすぎるだろ、これ。
でもなぁ・・・福山ナンバーじゃなぁ・・・。ハマナンだよな、これが似合うのは(笑




#FIATふぁんさま


難点は、新型ミニと同じで、価格がどえりゃぁたきゃーことだ。
どのような層をターゲットとして販売しているかがよく分かる。
てか、分かりやすすぎ。


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アニメ映画『風立ちぬ』

2013年07月21日 | 映画・ドラマ・コミック



宮崎駿監督のアニメ『風立ちぬ』を家族で観た。

多くは語りたくない。

この作品は、静かで、切なく哀しい。

好みの問題はあるだろう。
日本を再び戦争をする国にしたがっている人たちが観ても、「ふん」と鼻でせせら笑う
感じの作品なのかも知れない。
宮崎監督は「憲法9条改正なんてとんでもないことだ」と個人的には態度を明らかに
している人だ。

ただ、この作品では戦争についての描写を前面には出さない。
淡々とした「日常」とその中で交わされる何気ない会話に、悲しい時代の現実を
表している。とても静かに。

パンフレットの冒頭は
「かつて日本で戦争があった。」
で始まる。
そして結びは、大きく太い文字で
「生きねば。」
で結ぶ。
宮崎監督はこの作品を「私の遺書である」としている。
監督が人々に伝え描きたかったものは何であるのか。


作品をぜひ劇場で。

『風立ちぬ』公式サイト

宮崎作品のコピーといえば、「生」という字とともに、その時代その時代を
生きる人に向けて強烈なメッセージを発信し続けてきた。
「風立ちぬ」のコピーは『生きねば。』
実は、このコピーは宮崎監督の代表作「風の谷のナウシカ」とも大きな
つながりがある。「ナウシカ」には全7巻の漫画版原作(宮崎駿著)があるが、
映画化されたのは原作の2巻の途中まで。しかし映画公開後も連載は続き、
ナウシカが人類と自然とともに生きる道を求める姿が描かれる。そんな
「風の谷のナウシカ」最終巻である第7巻の最後のコマにでてくる言葉、
それが『生きねば……』である。
どんな苦境の中でも前に進み、生きることを選択したナウシカたち。そして、
不景気、政治不信、大震災など、現代と酷似する1920~30年代の日本を
生きる「風立ちぬ」の登場人物たち。『生きねば。』というキャッチコピーをみる
ことで、たとえどんな時代でも力を尽くして生きることが必要という宮崎監督の
思いが見えてくるようだ。 (公式サイトより)

少年期から青年期へ、私達の主人公が生きた時代は今日の日本にただよう
閉塞感のもっと激しい時代だった。関東大震災、世界恐慌、失業、貧困と結核、
革命とファシズム、言論弾圧と戦争につぐ戦争、一方大衆文化が開花し、
モダニズムとニヒリズム、享楽主義が横行した。詩人は旅に病み死んでいく
時代だった。
私達の主人公二郎が飛行機設計にたずさわった時代は、日本帝国が破滅に
むかってつき進み、ついに崩壊する過程であった。しかし、この映画は戦争を
糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようと
いうものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。
自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである。夢は狂気をはらむ、
その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。
美に傾く代償は少くない。二郎はズタズタにひきさかれ、挫折し、設計者人生を
たちきられる。それにもかかわらず、二郎は独創性と才能においてもっとも抜きん
でていた人間である。それを描こうというのである。 
(宮崎 駿)


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北海道への旅 ~バイクというよりオートバイ~

2013年07月19日 | バイク・車

0730-
友人が旅に出る。ファクトリーにてそれを見送る。
昔のテッポ仲間だった。身長が2メートル近くあり、三原で一番背が高いと噂だ。
元々は腕の良いバーテンダーだったが、今は別な仕事に就いている。



実は、けさから向う一ヶ月、仕事の休暇を取り、北海道にバイク旅行に
行くのである。妻子と仕事ほっぽり出して一ヶ月も?
まあ、バイク乗りだ。それもあるだろう(^^)

このペケJ は最近近所の自転車屋のようなバイク屋さんから激安で
購入したらしい。ヨシムラの集合が着いている。
北海道旅行用にサイドバックがマフラーと干渉しないように、うちの若い衆が
ステン板で保護ステーパーツを作ってあげたようだ。



ヤマハ XJR-1200
1188cc 4ストローク 空冷DOHC4気筒
最高出力 98PS/8000rpm
乾燥重量 232kg
車両重量 255Kg

ヨシムラの集合管が着いているが、吸排気のセッティング出していれば98馬力
以上は出ているだろう。低馬力だけど、ちょうどよい手頃な馬力だね。
2ストロークのレーサー250ccなどは乾燥重量100kgほどでパワーが
80馬力近くだったから、走らせると排気量が4.8倍あるこのXJRの1200cc
よりもずっと早い。
しかし、このXJRは、そのようなレーシーな面を楽しむマシンではない。
まして一般公道車だ。

あえて1994年の日本製バイクの技術が頂点にあった頃にヤマハが空冷
ネイキッドで世に出したマシンだ。ツアラー風味+街乗り味を採り入れている。
基本は80年代にそこそこ人気があったXJ400の大型自動二輪仕様だ。
XJR1200は、当時、空冷4気筒エンジンでは世界最大排気量だった。
今でもそうなのかな。よくわからない。

友人もなかなか味のあるバイクを選んだものだ。
でも、やつのイメージはヤマハではなく、俺の中ではカワサキなんだけどね(笑


エキパイの焼けがいい色を出している。
俺などがこういうのに乗ると、エンジン廻し過ぎるからすぐに壊れて
しまいそうな気がする。確実に全開をくれるからだ。
ただの全開だけでなく、上を使いすぎるきらいがある。
まあ、キャブセッティングによりけりだけど、なんというか、とにかく回す。
2ストで回すのはあったり前のことだが、4ストでもツインカムなら回す。



一ヶ月分の必要最小限の用具を愛車に積んで友人は旅に出る。
そうね。馬で荒野を旅する西部開拓時代のガンマンみたいな感じだね。
バイクは鉄馬だものね。
嗚呼、ガンフロンティア。
男なら涙なくしてその名を口にできなくなるに違いない。

フルカウル付のレーシングタイプは短距離走向きだから、こういう長旅
には向かないよなぁ、やっぱ。
かといって、おっちゃんツアラータイプを選んでいないところが、彼は
正解かも。これ、彼は街乗りで普段の通勤や買い物にも使ってるもの。
重低音のよいヨシムラ集合の音をさせて走っている。


気をつけて蝦夷共和国へ。BEE FREE!

ワイルドなバイカーらしいスタイルだ。
背がめっちゃ高いから、彼が跨ると1200ccが125ccくらいに見えるのよ。
バリ伝グンちゃんも、彼と並んだらヒデヨシみたいなチビだぜい(笑


わが青春のバリバリ伝説。
見つかって退学になっちゃった後年国際A級になったクラスメートの
親友Mには申し訳ないが、俺もこんな感じでバイクで文京区の高校に
通学して
いたよ。
制服はブレザーにネクタイだったしね。夏はこんな感じだ。俺のも車は
シビ子ちゃん(ホンダCB)だった。

ただ、退学くらったMとの違いは、俺や他の連中はたまたま見つから
なかったというだけのことだ。
Mは退学になった後に都立高校に転校したが、もともとうちの高校でも
国公立進学クラスだったので勉強ができない訳ではなかった。
ただ、彼は「国際A級レーサーになる」と目標を定めて峠に行くこともやめ、
大学進学もせずに活動をレース一本に絞った。
俺が大学の時、RZ350でMに会いに行った時「RZかあ。おまえ出世した
な(笑)」とか言ってた。やつのRD250はカリカリチューンで馬鹿っぱやだった
からだ。峠ではどのバイクも置いて行ってた。俺は食らいついたけど。
気づくと彼も俺も同じヤマハのサテライトチームに所属して、高校の時から
ライセンス取って筑波、富士、鈴鹿のコースに通っていた。
大学入って久しぶりにMと再会したその日は、そのまま誘われるままに
練馬の彼の家に泊り、翌日、筑波の練習につきあった。ピットクルーとして
F3マシン2台のテスト走行のタイムを計ってあげた。
その時、知り合った隣りのピットのSP忠男チームの後年の国際ライダーから
後にTZ250を俺は譲り受けることになる。塩森君と共にとても速かった
ライダーだ。確か当時GP250クラスで筑波のレコードも持っていた。
彼がノービスの時の全日本のレースを筑波に見に行ったことがあったが、
コースレコードでレースでは優勝していた。
SP忠男チーム出身者からは、この日の同級生の練習の日から約10年後に
日本人として初の世界チャンピオンとなる原田哲也選手が出ている。(日本
からの世界GPエントリーの初世界チャンピオンは1977年の片山敬済選手
だったが、国籍が韓国籍で日本に帰化していなかったので、正確には日本人
として初の二輪世界チャンピオンは1993年世界GP250クラスの原田哲也
選手となる)
今考えると、80年代初期までは膝のスライディング樹脂パッドなど存在しない
時代で、ケニーもフレディ(デビューしたばかり)もガムテープを何重にも貼って
対処していた。膝を接地させるハングオフ走法はケニー・ロバーツが完成させ、
フレディ・スペンサーが進化させたものだった。
あれ、どういう訳か、ガムテを幾重にも重ねて貼っても、擦過傷になるんだよね。
Mも「痛てぇ、痛てぇ」とか言ってたけど、俺の膝の外側と外ふくらはぎも擦過傷
だらけで今でもえらくばっちい(笑)。
とにかく、Mや友人たちとのバイク三昧の高校時代はとても楽しかった。

ただ、俺の場合は、バリ伝グンちゃんよりも『あいつとララバイ』のケンジくんに
似ていたと思う。学園生活も性格も(^^;
だけど、絶対に俺ならともみちゃんよりジュンのほうが好きだぜ(笑
大阪弁がちょっとうっとーしー感じがしないでもないが・・・。
青春ラブコメって、なぜ主人公の相手よりも脇役の方が魅力的なのですか?
バリ伝だったら、絶対にアイちゃんよりミィのほうがいい(笑)。

あ、そうだ思い出した。
Mは、俺の中学の時のひとつ年上のバスケ部の先輩だった女の子(石原さとみ激似)
俺がつきあい始めようとした時に、彼女に激惚れして「お前の正式な彼女でないなら
俺が
つきあう」と俺に申し入れたんだった。ま、今の時代にはいないだろう「男らしい」
感じだよな。今の時代のように「おいしいところだけかすめ獲る」という感覚は存在
しなかったし、そういう男がいたとしたら蛇蝎のように嫌われた。日本人の男も女も
ゼニカネ価値観に変質するのは1980年代最末期のバブル以降だ。
後年、俺に女性関係で「いいんだよ。おいしいとこだけいただいとけば」と「アドバイス」
した男がいて、人の女にちょっかいを出していたが、そういうのは「クズ」とされた時代
だった。
だが、現在はそういう輩たちが「勝ち組」のような顔で大手を振る時代になった。
で、Mのその時の正々堂々とした言動は、これはまるでバリ伝のヒデヨシだな、今考え
ると(笑
マンガと違うのは、
ならば正々堂々と、ということになったが、俺がコースに行けない
時も彼女の家までMは
迎えに行ってピットクルーやってもらったりしていたなぁ・・・。
結局、恋のレース(笑)は俺が最終コーナーでMをぶち抜いて勝ったけど、今となっては
いい思い出だ。
やっぱ10代の時には、青臭いようでも、汗と笑いと涙がないとね(苦笑
それとどつき合いだ(笑)
俺とMも、鈴鹿遠征の時、どつき合いになって、監督に「いい加減にしろ!頭を冷やせ!」
と、こっぴどく叱られた。ここらあたりもバリ伝だった(笑
でも、こういう「時代」って大切だよ。

城内平和でぬるま湯育ちのまま時を過ごして、こすっからい小手先の世渡りばかり覚えて、
気づいたらおっさんになってて、「俺の青春はどこにあったんだ」なんてなったら寂しいよ~。
いや、ほんと。

俺は結局、47,000人というノービスライダーの渦の中に埋もれたけど、Mは
適当に(笑)うまいこと
レースでポイントを取り続けてノービスから国際B、翌年に
国際A級になり、マン島を走った。

ただ、国際A級も各クラス合わせると日本人だけで450人位はいたからね(苦笑
スプリントレースでは国際Aで予選落ちなんて現象も80年代末期には起きていた。
国内バイク人口が2000万人と言われていた時代のことだ。
サーキットでは2か月先までたった30分の練習走行券が予約一杯で練習もできなく
なって、ノービスのレースなどは
1クラスの決勝レース30台への予選エントリーが
数千台という時代になっていた。

でも、こうした激しい時代があったからこそ、1990年代初期~中期にかけてモーター
サイクル
世界グランプリで日本人の世界チャンピオンが何人も出ることになったの
だと思う。

これもひとつの「時代」だったのだろう。


日本人初の世界チャンピオンに輝いた1993年の原田哲也選手。
彼の走行頭脳と感性は図抜けているが、彼を支えた奥様が
かなりしっかりした人物だ。
レースは絶対に一人ではできない。チームで遂行するものだ。
レーシングライダーは孤高と孤独と背中合わせだが、メンタル面含めて、
家族、恋人の支えなしではやっていけない。
当然、私をいつもかまってちゃんのつまらない「面倒くさい女」とつきあうことは
絶対にない。妻や恋人は孤独に走るライダーのサポートに徹する。
レースに限らず、トップアスリートの世界はどの世界でもそうだろう。

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ガンフロンティア

2013年07月19日 | 映画・ドラマ・コミック



ガンフロンティア 第1話



細かい描写まで極めて原作に忠実に再現されているアニメだ。
まんま原作通りだ。こういうアニメ作りはとてもきめ細かく良心的だ。
物語は関西弁の街という西部劇が独特のワールドでいい(笑)

この『ガンフロンティア』の原作の中で松本先生が「日本国内に2丁だけ存在する」
紹介していたコルト・ポケットがある。南北戦争の11年ほど前の1849年の銃だ。


(米国内にあるコルト・ポケット)

かつて、そのコルト・ポケットの国内所有者がお子さんの進学のために大切に
していたその銃を手放すことを決断され、
なんと私宛に「どうか貴方に買って
ほしい」と連絡があった。

金額的には軽自動車新車と同額程度で、極めて格安での良心的価格提示
だった。古式銃の同クラスの相場よりかなり安い。そして古物業者に卸値買い
取り価格で売却するよりも、金額もさることならが、コルト・リボルバーを理解して
いる愛好者にぜひ譲り渡したいという気持ちがメールのやりとりでうかがえた。

だが、私はその時それを購うだけの自由になる現金の持ち合わせがたまたま
なかった。

松本零士先生ご本人を友人の講談社関係者を通して所有者に紹介しようか
とも思ったが、思案した結果、
トイガン関係で世話になっている博多の知人を
私は所有者に紹介した。

さらにその博多の人は熊本の古式銃ファンを紹介し、最終的に熊本の人が
喜んで購入したそうだ。

そのコルト・ポケットの元所有者は、松本先生が作品のトビラで紹介していた
2丁のうち1丁のみを所持かと思っていたら、実は2丁とも所有して
いたの
だった。

日本では戊辰戦争以前に日本国内に入って来た銃以外は「古式銃」として
認められない。日本は1945年までは、アメリカのように銃砲店にて誰でも
ピストルさえ購入できたのだが、戦後日本では銃器と刃物は極めて厳しい
法律で規制されるようになった。ピストルに至っては、民間人が自宅に所持
保管することは一切できない。

ただし、日本刀と同じで、ピストルでも戊辰戦争以前に日本国内に存在した
拳銃は「古式銃」として登録し、美術品扱いになり、所持できる。

松本零士先生が紹介していた名銃コルト・ポケットの日本国内存在2丁のうち
1丁を
私を見込んで所有者が私に所有してほしいと連絡をくれたのに、手元
不如意で厚意に応えられなかったのが、今でも痛恨の極みである。
コルトを所持できなかったことよりも、その所有者の心に応えられなかった
のが悔しい。


ガンフロンティア。
男なら涙なくしてその名を口にできなくなるに違いない。




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時をかけ抜けた少女たち ~懐かしき80年代~

2013年07月06日 | 映画・ドラマ・コミック

富田靖子『アイコ十六歳』(プレビュー)


最初の自己紹介の時、思いっきり博多弁で訛っとうよ(笑

でも、いいなぁ、80年代。
考えたらヒロスエは、薬師丸ひろ子や原田知世などのこうした80年代テイスト
の延長線上にあったように思える。
この感じはやはりヒロスエがラストか。
今、こういう感じ、ウケないもんね。
『スウィングガールズ』は面白かったけど。
ジャズやるべ!てな感じで。


そうだ。
『時をかける少女(2010)』もかなり良かったぞ。


だけど、仲さん演じるヨシヤマ君の娘がうちの娘のキャラともろ被りだったりする(笑
特に最初の大学入試合格発表のシーンのポーズとか(苦笑


この作品の主役の二人、プライベートでは結婚できてよかったす。
映画作品では悲し過ぎる結末だったから。ラストシーンもかなり、来た・・・。
「時を戻せたら・・・」
でもそれが叶わぬことと知った時の絶望たるや・・・う~ん・・・。
『時をかける少女(2010)』は、心に残る良作でした。
余談だが、思うに、『時かけ2010』では、ヨシヤマ君はナウシカ安田成美さんでなく、
原田知世さんがやったらかなり面白かったのではなかろうか。

ところで、うちの娘は大学受験大丈夫なのかしらん。

(背後霊と化した父親。娘との関係は良好である)


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